Meet the Artist
私たちは非常にゆっくりと蒸発している 岡美里/美術作家
横顔/ディック・ブルーナ/美大時代に
一度見たら忘れられない「横顔の絵」。そのタッチ、色合い、シンプリシティ。そして横顔だからだろうか、それが誰なのか知らないのに好感を持ってしまう。なんだか「あれ、知っている人?」と思わせるようなところがある。横顔は不思議だ。
(たくさんの)横顔を描き始めたきっかけについては後述するが、実は、そのきっかけよりもっと早く、「もともと横顔を描くのは好きだった」と岡美里さんは言う。
「美大生だったとき、モデルさんを描く時間があるんです。そのとき、真っ正面から堂々と描く人は多いんですが、私はなぜか(モデルさんと)目が合ってしまいがちで。そうすると、緊張して描けなくなっちゃうんです。だから、いつもイーゼルをモデルさんに向かって斜め横くらいにして描いていました。たぶんその頃に、私の“横顔を描く”というのは始まっていたのかもしれない、とも思います」
その色合い、タッチについて訊ねると、岡さんはこう話してくれた。
「ジュリアン・オピーが好きなんですか、とよく訊かれるんですが、私は何よりもディック・ブルーナが好きなんです。ディック・ブルーナの絵は、私には、とても静か。彼は、三色くらいの色しか使っていないのに、それですべてを表現している。言葉がなくても子供の心を打つ。シンプルで静かなのに、物語がある。絵描きとしての私は、そこにすごく同意できるんですね」
東京・両国で生まれ、西船橋で育ち、女子美術大学の油画科卒業後、多摩美術大学版画研究室に所属。社会人になり、ソニーミュージックでデザイナー、PVディレクターなどの仕事をしながら当時の渋谷や原宿のカルチャーを満喫し、千駄ヶ谷暮らしを大いに楽しみ、美術作家に。絵描きであると同時に、東京のあちこちを散歩、散策し、さらに日本各地を旅し、やはり歩いて、文章も書く(その文章がまた素晴らしいのだ)。建築、酒と食、街並み、寄り道、裏路地、喫茶店や小さくて入りづらそうな呑み屋まで、その興味は幅が広いというよりも、奥行きが深い。「でも、もともと旅するのは苦手だったんですが」と岡さんは笑う。
では、今回の個展『私たちは非常にゆっくりと蒸発している』という不思議なタイトルの意味も含めて、岡美里さんの話を聞いてみよう。
木彫の仏像たち/祖父から学んだ仏様の顔
「私の父と母は、とってもふつうの、たぶん美術館なんて行ったことがないんじゃないかなっていう感じなんですが、おじいちゃんが仏像彫り師だったんです。実家は両国にあって、神仏具店を営んでいて、おじいちゃんは仏壇の中に納める木彫の仏像を作る人でした。店には木の仏様がいろいろ売られていて、裏におじいちゃんの作業場があったんです。大きな仏像もあって、それは売り物ではなくて、深川とか浅草のお寺でボロボロになったり、金が剥げてしまった仏様や仏壇を引き取ってきて、おじいちゃんはきれいに漆を塗り直して、金箔を貼り直して、またお寺に納めるという、そういう仕事をしていました。
子供の頃の私には、おじいちゃんが、そうやっていつも仏様を、仏像を触っているイメージがあります。あと、記憶に染みこんでいるのが漆の匂い。今も漆の匂いをかぐと落ち着くんですよね」
仏像彫り師の祖父、おじいちゃんが、いつも岡美里さんに「仏様の顔」についてあれこれ語っていたという。もちろん岡さんはまだ子供だが、それでもきっとそのいろんな話が、彼女の心身に自然と染みこんでいったのだろう。岡さんの「顔の礎」というと大袈裟かもしれないが、人の顔に対する心構えのようなものが、そのとき養われていたのかもしれない。
「復元作業のために、おじいちゃんはいろんな仏像のアーカイブを記憶していました。たとえば京都の東福寺で仏像の展覧会が開かれれば、それを観に行ったり。たくさんの仏様の顔を見て、自分の頭の中に刷り込んで、その知識を引っ張り出しながら、仏様の修復作業に勤しんでいたんだと思います。子供の私にはまだきちんと理解できていなかったけれど、おじいちゃんはいつも私に、『この表情が大切なんだよ』というようなことを言っていました。
もうひとつ最近思い出したことがあって。アトリエに仏像がいっぱい並んでいて、私が、『じゃあこれお店に持って行くね』って言ったら、おじいちゃんは『それはまだ持って行っちゃいけないものだ』と言ったんです。それは『これからお寺に持って行って、魂を入れてもらうんだよ』というんですね。木で掘られた仏様は、完成したらお寺に持って行き、お経を上げてもらって、魂が込められるという流れがあるんだよって教えてくれました。
今おじいちゃんはもういないけれど、でも、おじいちゃんが元気なときに私は美大に入ったし、私の個展も観に来てくれたから、よかったなと思います」
西船、両国、高円寺/安西水丸/シンプルへの回帰
「絵は、子供の頃から描いていました。おじいちゃんの仕事部屋にあった彫刻の写真集も好きで見ていたし、美術館のチケットをよく人からもらったりしていましたね。中高と女子美の附属に行っていたので、周りはみんな、きっとこの子はこの道を行くんだろうと思いながら見ていたんだろうと思います。両国で生まれましたが、両親は西船橋に引っ越したので、その後は西船橋に暮らしました。女子美が杉並の高円寺にあって、家が西船で、そうするとおじいちゃんのいる両国が中間地点だから、学校帰りなんかによく途中下車して、おじいちゃんのところに寄っていました。
おじいちゃんの仏像、木彫に親しんでいた流れで、私は自然と美術、アートに興味を持つようになったと思いますが、ふつうに絵本とか、マンガとかも好きで読んでいましたね」
そして女子美で、たまに行われるモデルを描く場では、あえて斜めの位置にイーゼルを置き、気づけば自然と横顔あるいは横顔に近い角度で人を描くようになっていった岡美里さん。ディック・ブルーナが大好きだが、「シンプル界隈では、やはり安西水丸さんが好きです」と語る。
「あれほど少ない手数で作品として成立する。それはやはり、その裏でものすごくたくさん描いているんだ、ということに気づかされたというか。実はたくさんの手数が入っているんです。でも完成したとき、もう表面では見えなくなっている。絵になったときには、ただシンプルに美しい。すごいことですよね。絵がもちろん素晴らしいんですが、安西さんはきっと膨大に下絵を描いていて、そうして一枚を定義していったと思う。そのやり方が、粋だなって思います。30歳くらいのときに、そのことに気づきました」
「シンプルという意味では、横顔を描き始めたのはある意味でシンプルさを求めて、と言えるかもしれません。多摩美の美大生だった頃、陰影がくっきりしているような、ある種ドロドロとした絵柄になっていくのはやめようって思ったんですよね。正面から人の顔を描くと、陰影が大事というか、影がないと描けない。ところが横顔にすると、顔のラインだけで形ができるんです。
人って遠くにいても、『あ、○○さんだ』ってわかったりするじゃないですか。自分がよく知っている人なら、顔が見えなくてもシルエットでわかりますよね。私の横顔の絵には、首から背中の丸みまで描かれていて、背中のカーブでその人が出たりする。正面で描くと背中が見えないから、逆にその人が出てこないこともある。
横向きにすると見えてくるものの情報量が多いな、ということに、線画にしたときに気づいたんですね」
「でも美大にいるときは、こういうシンプルな線画は許されないから(笑)、油絵も平面構成も写実でしっかり描いていました。二週間くらいかけて、ひとつのもの、たとえば牛の骨を精密に描いていったり。卒業する頃には、子供の頃に好きだったシンプルなタッチの絵、ディック・ブルーナのように絵が成立するギリギリまで線も影も減らす、という方法で絵を描きたいという気持ちがありましたね」
安西水丸が(きっと)何枚も、何枚も下絵を描き、その果てにシンプルの極みに到達するように、岡美里さんも高校、大学ではしっかり基礎から学び(つまりそれは何枚も何枚も下絵を描くことでもあるはずだ)、その先に今の「横顔」を自分の作品として創造している。
では、その「横顔」についての話。
友だちの横顔展/ハプニング/音楽が聞こえる絵
「最初の個展の頃は、リンゴ、コップとか、いろんな静物を、この横顔と同じようなタッチで描いて展示していたんです。そういった作品群の中に、特に深い理由もなく横顔で描いた自画像を一枚、ぽんっと入れておいたら、観に来てくれたお客さんのひとりが買ってくれて。で、そのときにちょっとピンときて、その次の個展では自分の友人たちの横顔展にしたんですね。友だち30人くらいかな、まず横顔を撮影して、描いて、神保町の製本工場跡地にあったギャラリーで一斉に展示したら、来てくれたお客さんたちみんな『面白い!』って言ってくれて、さらに、『自分のことも描いてほしい』って幾人もから言われたんですよ。その中にひとり、とても印象に残ったお客さんがいました」
「そのときちょうど、ギャラリーの前で工事が行われていたんです。道路工事。二週間くらいの会期中のある日、ドカンって言うんでしたっけ、工事現場などで働く男の人たちが履いている作業ズボンがありますよね、それを履いた人がギャラリーに入ってきたんです。全身ガテン系のお兄ちゃん、若い男性です。彼は私の作品をじっくり全部観ていくと、『これ、描いてもらえるんですか』って私に訊いてきたんです」
「最初、えーっ?と思ったけれど、すぐ、描きますよ、と応えたら、彼は『いや、僕じゃなくて妹なんです』って言って。それで私は、わかりました、私は何日にここにいるようにするので一緒に来てください、って伝えたんです。そしてその日、彼が連れてきた妹さんが、すっごいきれいな女性で。都心の老舗ホテルのマネジャーをやっている人でした。たぶん、自慢の妹さんで、彼は、自分はいいから妹の分を描いてほしいと思って、でも妹さんは何のことか最初わかっていなくて、でも兄に言われてついてきた、みたいな感じでした」
「妹さんの横顔を撮影し、描いて、後日渡したら、彼女はとても喜んでくれました。その横顔展を始める前はまったく想像していなかったことだし、イメージもなかったんですが、このときの個展で、私にとってはもう“世界が変わっちゃった”というか」
それはもうドキュメンタリーですね、と言うと、岡美里さんは、「そうです。なので私はこれを、アートピース制作というよりは、“ハプニング”だなと思っていて。もともと赤瀬川原平も大好きなので。今も、ハプニングが起こりやすい状況で進行するプロジェクトだなって思っています」
岡さんは横顔を撮影し、自宅で(あるいは西船にあるアトリエで)作品として描き仕上げていくが、ただ撮影するだけではない。描く人の話も丹念に聞くのだ。きっと、もともと人と会話をするのが大好きな人なのだとは思うが、これはある種のインタビューである。
彼・彼女はどんな人なのか、生まれはどこで、何歳で、何をしていて、これまでどんなふうに生きてきて、どんな考えを持っているのか。たとえば一時間集中して質問を重ねれば、それはしっかりしたインタビュー記事になる。岡さんは描く前に記者のように人の話を聞く。それは、安西水丸の「何枚も何枚も下絵を描く」行為に似ていると言えるだろう。そのインタビューが実は絵の中にある。だから、その絵は力を持ち、輝き、観る人に「いい絵だな」「面白い作品だな」と思わせるのだろう。
子供の頃ピアノを習い、今も家にあるキーボードでエリック・サティを奏でるのが日課という岡さんは、「今、ハンドパンかスティールパンが欲しいと思っているんです」と語る。
「ピアノもそうですが、何かこう、直に触って音が出るものが好きなんですよね。楽器を触ると気持ちが切り替わるし、しかもサティのように、異次元からやって来たかのような音楽を奏でていると、違う感覚が芽生えてくるというか。同じアートでも、絵を描くのと楽器を弾くのとでは、まったく違う肉体の動きだから」
自分自身がインスピレーションになる?
「そうですね。藝大に行っていた友人が音楽家と結婚したんですが、その友人が『音楽が聞こえるような絵を描きたい』というようなことを言っていて、その言葉は自分に刺さりました。私も、横顔の絵を描いているとき、音楽が起ち上がるみたいな感じなんです。実際に聞こえるわけじゃないけれど、そこには色彩のリズムやサウンドがあって、私にしか聞こえないのだけど、それを絵にしたいなっていう気持ちがあります」
音楽が聞こえてくる絵、という表現は、岡さんの横顔の絵を見ると、実によくわかるというか、腑に落ちる。時に正方形あるいは正方形に近いフレーミングで描かれた横顔の絵は、素敵なレコードジャケットのようでもある。もし自分の横顔を描いてもらったら、そこに自分のためにアルバムタイトルを入れたいと考えるかもしれない。なんなら裏面も作りたいし、ライナーノーツを岡さんに書いてほしいと願うかもしれない。それぞれの横顔に、それぞれの音楽があるとしたら、なんて素敵だろう。シソンギャラリーの展示で、たくさんの横顔が並び、それを観に行ったとき、いろんな音楽が頭の中に響いてくるかもしれない。描かれた人たちの、それぞれの音楽が。
では最後に、とても、とても気になって仕方がない展覧会タイトルの話。
私たちは非常にゆっくりと蒸発している
「私は、人間の、たとえば何か秘めたものを表現するとか、ダークな部分を見せるとか、あるいは社会のゆがみのようなものをメッセージするとか、そういうのは言葉ではやりたい(文章で書きたい)という気持ちはあるんですが、絵に関しては封じているんですよ。生きていて本当に大変だとしても、絵ではそれは見せず、可能な限り明るいもの、淡々と描いていきたいなという気持ちがあります。
そして絵のタイトルには、暮らしとか生活という言葉は絶対に遣いたくない。でも一方で、展覧会のタイトルに、日々の淡々とした暮らし、生き方を込めたいという気持ちはある。何か、直接的ではない言葉で、言い回しで、うまくそれができないのかな、って考えていたときに、ふと、“蒸発”という言葉が思い浮かんだんです。
コップに水を汲んで置いておくと、いつか蒸発してなくなりますよね。こぼれたり、飲むのではなく、気づかないうちに、見ていない間に、いつしかなくなっている。それって実は、非常に重要なことが行われている・起きているということなんだよ、ということを私は言いたかったんですね。
『非常にゆっくりと蒸発している』、このタイトルを思いついたとき、これは、生と死を表現しているタイトルになると思いました。私は、決まった、これでハマった!と思って、家族に『ねぇすごいタイトル考えちゃったんだけど、どう?』と言ったら、もう、キョトーンとしていましたね(笑)。
コップが倒れて水がこぼれたら消滅ですけど、そうじゃなくて、ゆっくりと消えていく。時に解放されて調和するように。すべてのものと混ざり合うように。亡くなった愛猫や愛犬が、今も部屋の中にいるような感じ。
だから、今回の個展では、横顔以外にひとつ、水を入れたコップの絵も描いて展示する予定ですし、他にも静物とか、いろいろ出すつもりでいます」
text by Eiichi Imai
Bréssing MAO YOSHINO 呼吸すること、生きること、祝福すること。 吉野マオ/アーティスト
オレンジのコロコロ/小さな太陽/郵便屋さん
吉野マオさんは、鮮やかなオレンジ色のキャリーバッグを引きながらシソンギャラリーに現れた。やはり鮮やかな青と白のギンガムチェック・シャツ(裾の数センチだけ白とライトグリーン)、赤いショートヘアーと眉毛、ルージュの唇。そして、笑顔。
「絵と同じだ」というのが第一印象。まさに、小さな太陽が現れた、という感じ。太陽のことなら僕もよく知っている。子どもの頃からずっと空に輝いているから。だから初めてお会いしたとは思えない。一応、「こんにちは」の後に「はじめまして」と言ったけれど。
キャンバス布のコロコロが(スペイン、Roslerのもの)、マオさんによく似合っているのだが、まるで郵便屋さんが手紙を届けに来たようで、それもまた出会いの瞬間のデジャブ(既視感)だった。彼女の絵の原点に「手紙」があることは知っていたから、「なるほどそうか、こういうことなのか」という納得。アーティストである吉野マオさんは、ある意味で本当に郵便屋さんなのだ。彼女が届ける手紙は「祝福」であり「祝祭」。それがマオさんの絵だ。
絵は手紙、贈り物/絵は自分の気持ちの解放
「絵は手紙であり贈り物、というのは、小さな頃から変わっていません。ずっと私は、親しい誰かの誕生日とか、久しぶりに会う人とか、葉書くらいのサイズの紙に絵を描いて渡したり、封筒に花を描いてきました。会えることの喜び、出会って嬉しい気持ちを表現したい、伝えたいという思いが強くあって、その気持ちが、文字を超えて絵の表現に至ったのだと思います」
「そういう親しい誰かとの一対一の秘密のやり取りのようなものを、もっと広く大きくしたのが、私の絵、作品です。だから、やりたいことはずっと同じ。いつだって誰かにお祝いや嬉しさを伝えたい。それが、私が絵を描く一番の理由です」
「その『手紙を贈る』という行為は、ちっちゃい頃から、家族が私にしてくれていたことなんです。私のお誕生日に、手作りの飾り付けをしてくれたり、手作りの何かをくれたり。大切な誰かに贈る気持ちをどのように表現すればいいか、どのように伝えるとお互い楽しく嬉しいのか、それを私は家族から学びました」
「花、カラフルな色彩が好きなことも、ずっと変わっていません。幼稚園の頃には夢中で花を描いていました。自分の気持ちを解放できるモチーフだったのかなって思います。でも、花というモチーフが自分の中に確立するまで、いろんなものを描いてきた気がします。そうする中で、『これが一番伝えたいことが伝わる』とわかって、いつの間にか花だけを描くようになりました。手紙には名前も書きたいので、文字も、いろんな色、形で表現していたと思います」
「紙に描くと、違いますよね。筆圧、筆の動き、色や柄、絵として表現されることで、想いを受け取ってもらえるというか。誰を、どこを、何をイメージするかによって、本当にいろんな違った花が生まれます。私自身も、創作することで(原点に)立ち返れる。また、描くことで自分の気持ちがわかることもあります。絵なら伝えられる、絵だから伝わる、という意識がずっとありました。だから絵を描いて手紙にして渡してきたのだと思います。絵なら、自分の気持ちを解放できるんです」
宇宙を喜ばせる絵/音楽が聴こえる絵
「小さな葉書がどんどん大きくなってきて、渡す相手も、一対一からもっと大きな規模というか、街全体、もっと言うと地球ぜんぶを喜ばせたい、みたいな感じになっています。自分が宇宙を喜ばせて、それによって地球の人たちも喜ぶというような、そんなふうに視野が広がっている感じがあるんです。今は大きなキャンバスに描くようになってきて、そこには、宇宙に響かせたい!という気持ちがあります」
「ちょっといろんな話が混ざっちゃうんですが、私は音楽も大好きで、歌うこと、踊ることも大好きなんです。音楽は、もし人前で歌うとしたら、身体の運動というか、ステージでは全身を使いますよね。実は絵も、身体の運動だと思うんです。
私が自分のアトリエで大きな絵を描いているとき、誰にも見られていないから、遠慮せずに身体を思い切り使って描きます。恥ずかしさも抵抗もない。心を躍らせながら絵を描くとき、自分の手や腕、腰や足は踊っていると思う。以前、私の絵を見て『歌が聴こえてくる』と言ってもらったことがあって、それはとても嬉しかったし、絵でも音楽的な体験って作れるんだ!って思いました」
土から生まれる/土に還る
「東京藝術大学に進学しようというとき、絵を学びたいということは特になかったんです。自分はただ『手紙を書いている人』だと思っていたし、作家とかアーティストになりたいという気持ちはありませんでした。でも、作ることしか見えていないような子だったので、家族が藝大を勧めてくれて、そんなところがあるんだ!と行ってみることにしました。陶芸を専攻しようと考えたのは、絵はずっと描いてきているし、何かもの作りをこれからやっていくのだとしたら、『その根源に一度きちんと向き合っておきたい』と考えたから。土は始まりだと思います。人間が地上に立ったときに両足の下にあったもの、私たちはみんな土から生まれたし、いつか土に還っていくから。
だから、土は、もの作りの始まり。ひたすら土に向き合おうって思って藝大に入りました。毎日、こねこねこねこねやって、3年、4年と経って、何か掴んだかどうかはわかりませんが、そうやって続けたことによって、自分の独自の制作をする許可が地球から下りたというか。大学で土と陶芸をやりきって、それで絵をもっとしっかりやっていこう、という気持ちになりました」
夏の沖縄/島の光、風、人々
「この夏、沖縄で個展を開催しました。そのとき、現地にしばらく暮らすように滞在したんです。個展の会場は首里城のそばにあるカフェレストランで、オーナー夫妻の家にお世話になりました。オーナー夫妻も移住者でしたが、今ではもう島の人のように沖縄に詳しくて、海はもちろん、やんばるの森や、いろんなところに連れていってもらううち、沖縄の太陽、風、葉っぱや花を、自然と描き始めている自分がいました。島の光を受け取って、描き、その光の中にかけてみて、そこからまた受け取るものがありました。その繰り返しの中でまた絵が生まれてきた」
「幼い頃から、家族で沖縄に行っていました。父と母が沖縄を好きで、初めて連れていってもらったときに、私はすぐ大好きになったんです。父母より私の方が沖縄を好きだったと思う(笑)。受験に合格したご褒美は沖縄の三線でした。大学生のとき、バイト先のカフェでよく弾いていました。
家族で行っていた沖縄の、光や風、風景、そこにいた人たちのことは、今でも鮮明に心に刻まれています。沖縄は第二の故郷のように、ずっと自分の心の中にあったし、それはもはや自分の感情や感覚となっているから、これまで描いてきた絵の中にもあるんだと思います。
最近、透視できる方とご縁があって、見ていただいたのですが、私には『南国の金色の神様』がついているらしく、納得してしまいました(笑)」
「空気や太陽にもキャラクターがあると思うんです。今住んでいる岐阜には、岐阜の太陽のキャラクターがあるし、沖縄には沖縄の太陽があって、私と相性がとても良いんです。沖縄の太陽には友だちっぽいバイブスがあるというか。沖縄にいると安心してホッとするし、同時に、ものすごくパワーをもらいます」
エイサー/一本の光と繋がり/命の祝福
「今回のシソンギャラリーに展示する絵には、沖縄で生まれてきたものがあると思います。沖縄に暮らすように滞在したことで、この個展に向けての制作に大きなパワーが加わったというか。
滞在中、エイサーを見る機会がありました。エイサーを見たとき強く思ったことは、『これが人々に必要なものだ』ということ、『自分がやるべきことは、これなんだ!』ということ。それを再確認できたというか。
エイサーを見て、繋がりを強く感じたんです。先祖、もっと昔の地球の始まりが『土』だとしたら、今は『枝』で、未来は『葉』。それが一本の光で繋がった感じがした。エイサーは島の人たちが大勢で太鼓を鳴らし、声を掛け合い、踊り歩くもの。その大切な儀式はきっと愛から生まれたのだと思います。エイサーを見たとき、それは命であり愛だと感じました」
「私にとって生きる喜びとは、『人との出会い』『人と生きること』です。自分にとっての生きる喜びを表現することは、誰かの命を祝福することでもあると思います。そしてこれは、私が生きる上で一番大切にしていること。私は、『みんなで祝福したい』。この夏、沖縄で体験したエイサーも、同じようなことを言っているような気がしました」
「少し前から、絵を描きながら、『もっと未来へ、もっと宇宙へ』ということをイメージし始めています。それが大切なことだと感じて。もっと遠くへ響かせるにはどうしたらいいんだろう?っていつも考えていたんです。それこそが、自分が描くときに大切な部分だから。『遠くへ遠くへ響かせ、轟かせたい』ということが」
「今回は、宇宙をめがけて描く、ということをしてみました。意識的に、遠くに、未来に、大きく大きく、という感じで描き上げていった。でもそれは同時に、(遠くではなく)自分の裡(うち)に入って、掘っていくことでもあった。私という人間がこれまで、誰に愛され、誰を愛して、何を感じて、何を思ってきたか、どう生きてきたか。遠くをめがけて描くために、もっと自分の裡を掘り下げていく必要もあった」
「大切な人のために手紙を書くように絵画を描く。手紙のように絵を描くことが、やっぱり一番大切なことなんだと思います。遠くを、宇宙をイメージしたけれど、それによって、よりパーソナルで、自分の中にある大事なものにあらためて触れることができたというか。その繋がり、体験が、今回のシソンギャラリーでの個展では、表現されていると思います」
「今回は、自分の色である『赤』をベースに描いていきました。唯一、自分と同じ赤色を使いたくなる人がいるんですが、私は今回、その人のことを思いながら、その赤色で描きました。彼女からもらった愛、私が彼女を思う愛が、今回の絵にすべて表れていると思います。
そしてその絵は、会場に来てくれた人、絵を見てくれたた人のことも愛し、そうして一緒に生きることを喜びたいと思っています」
text by Eiichi Imai
旅の最後に辿り着く「その場所」に思いを馳せること ATSUKO IMAIZUMI 今泉敦子/画家
与えられた命を生き切った先に辿り着く最後の場所。その一歩手前に生い茂る、美しい草はら。知り得ないものに思いをめぐらせ、わからないものはわからないまま、敦子さんは、まだ見ぬ風景に色と形を与えていく。
2025年11月、SISON GALLERyで3度目となる個展を開催する今泉敦子さん。油彩、水彩、立体作品、刺繍と様々な表現方法で作品を発表し続ける彼女は、翻訳者としての顔も持つ多彩なアーティストだ。2021年の『gateway〜帰る道〜』、2023年の『your garden〜旅の最後に歩く花園〜』に続く2年ぶりの個展のタイトルは、『Come through that meadow〜その草はらを抜けておいで〜』。2020年ごろから、一貫して変わらないテーマを描き続けている敦子さんに、今回の個展に向けた思いを伺った。
[水彩画]
想像を超える暑さが続いた2025年の夏の終わり。敦子さんがInstagramに投稿した「meadow /ほどく」という水彩画の作品を目にした私は、その絵から目が離せなくなってしまった。手のひらの小さな液晶パネルの中では、淡い色合いの花々が自由に咲き乱れていた。花々は一本一本が独立しているのに混じり合っているようで、内と外の世界を曖昧にする滲んだ輪郭がとても美しかった。じっと眺めていると、絵の中に吸い込まれ、自分自身が溶けてしまうような、まだ見ぬどこかに連れて行かれてしまうような感覚に包まれる。色彩は涼しげなのに、感じる気配はあたたかく、それはとても心地よい体験だった。
今回のSISON GALLERyでは、すべて水彩画をベースにしながら、鉛筆、色鉛筆、インク、クレヨン、墨などさまざまな画材を使ったミクストメディア作品が展示されるという。
「水彩画は、5年ほど前から独学で始めました。実は前から水彩画に対して興味はあったのですが、どこか怯んでいたところがあって。というのも、水彩画は絵の具を置いた瞬間から色が滲むのでどうなるのか予想がつきにくく、手直しも基本的には難しい一発勝負的なところがある。私は急かされるのがとにかく苦手なので、後から何度でも修正できる油絵の方が性に合っているとずっと思っていたんです。でも、年齢を重ねた今、残されている時間も限られているのだから、興味があるならやってみようと思い立ち、日々模索しながら水彩の世界を探求しているところです」
油絵を描くときは、基本的にはしっかりとしたイメージが最初にあって、それに向かって仕上げていく。もちろん途中で描きたいものが変わることはあるけれど、基本的には下絵に沿って自分の理想とする最終的な形を目指して描いていく。それに対して水彩画は、描く前は無の状態。胸の中に漠然としたイメージはあるものの、実際にどこに行き着くのかは描き終わるまでわからない。滲む色と線、曖昧な形、コントロールできない流動性。そんな水彩画の不確かさは、そのまま水彩画の面白さでもあるという。
「いつも、人生という旅路の最後の道がこんなふうだといいな……と想像しながら描いています。といっても、私が描くことができるのは、最後の場所の、その一歩手前のところまで。最後に辿り着く場所がいったいどういうところなのかは、生きている私にとっては、想像すら及ばない領域です。だから、せめてその最後の場所の少し手前、マラソンだったらゴール前のストレート100メートルみたいな、そういうところなら描いてもいいのではないかと、イメージを巡らせています」
SISON GALLERyでの今回の個展のタイトルは、『Come through that meadow〜その草はらを抜けておいで〜』。鬱蒼と生い茂る美しい草原を抜けた向こうに、いったいどんな景色が待っているのかは、その日が来るまでは決してわからない。絵が生きている私たちの世界のものである限り、わからないことはわからないまま、決して踏み込むことはしない。だから想像するのは、その一歩手前までに留めておく。そんな敦子さんの姿勢からは、すでに旅を終えた人々に対する深い敬意が感じられた。
「これらの風景は、私自身の祈りや希望のようなものではありますが、絵を見てくださった方にとっても同じであるとは限りません。ただ、私の絵を見て何か希望めいたものを感じてくださったり、いつかご自身が辿り着きたい場所と重ねて見てくださったり、またなんとなく自分が安心できるような、幸せを感じられるような場所として心の中に留めてくださったなら、こんなに嬉しいことはありません。辛いこと、やるせないこと、理不尽なこと。生きていると、いろいろありますよね。私の描く作品のイメージが自分の中にあることで、日々を生きる時間が少しだけ楽しくなるような、そういう場所になり得る風景を描くことができたらいいなと思っています」
[案内人]
敦子さんの絵には、ときおり動物が登場する。幻想的な気配を纏った、鳥やシカやキツネたち。絵の中に彼らを見つけると、私はなんとなくほっとする。ああ、一人じゃないんだ、と思える。
「あの動物たちは、私の願望なんです。家族や友人など、私たちはたくさんの他者との出会いを経て、支え合って生きていくけれど、結局、旅の最後の道は一人で歩いていかないといけない。それならせめて最後に、よく頑張ったね、よくここまで来たねと言ってくれる、最後の道を一緒に歩いてくれる案内人のような存在がいたらいいなと思って、そのイメージを動物たちに託しているんです。今までは鳥、蝶、蜂、シカ、キツネなど、色々な生物が登場しましたが、今回からはカモシカと馬も仲間に加わっています」
敦子さんがカモシカに興味を持ち始めた頃、不思議な出来事があったという。
「岩手県のお寺を訪れたとき、裏山から降りてきたカモシカにばったり遭遇したんです。わりと街から近い場所だったので、こんなところにまさかカモシカがいるなんて……と思ったけれど、やっぱり本物で。至近距離でお互いにしばらく見つめ合ったあと、カモシカはゆっくりと山に帰っていったのですが、このときの体験がすごく印象的で。これはもうやっぱり案内人として登場してもらおうと、そう決めました」
馬も今回初めて登場するモチーフだ。自分の旅が最後を迎えるとき、一頭の美しい馬にその先まで導いてもらえたなら、どれほど幸福だろうかと想像してしまう。
「今までも馬は生き物としては好きだったけれど、どうしても戦争や競馬などでの使役動物のイメージが先立ってしまい、悲しい気持ちになってしまうので、なかなか積極的に描こうとは思えなかったんです。けれど最近、野生の馬だけを写した写真集を見る機会があり、人間と関わることなく生きる野生馬本来の伸びやかな美しい姿に感動してしまって。以来、馬も案内人として描きたいと思うようになりました」
[花園]
花や草木。動物や虫の気配。敦子さんの絵には、あらゆる命が溢れている。絵の中で咲き誇る花々は、実在する花をモチーフにしたものもあるけれど、ほとんどは名前を持たず、図鑑にも載っていない植物だ。実際には見たことがなくても、幼い頃から私たちの心の中に概念として存在する、シンボリックな花の姿。それらの花々の故郷であり、敦子さん自身の心の拠り所とも言えるのが、2016年に出会って以来通い続けている、北海道の道東にある花園だという。
「そこはいわゆる綺麗に整備された庭園ではなく、ほったらかしの花園で。園主は、花を植えはするけれど、植えた後に手を加えることはなく、肥料も一切使わない。植えた後は、植物たちの生命力に任せているという稀有な場所なんです」
あらゆる草花がとても自然な状態でそこにあって、咲いている花と枯れている花、生と死が同時に存在する。それがかなり強烈な風景なのだと、敦子さんは眩しいものを見るような表情で話す。
「通い始めて10年ほどが経ちますが、一度として同じ風景に出会ったことはない。
いつ行っても、何かしらの違う花が咲いている。季節ごとどころではなく、昨日と今日、朝と夕方でも全然違う。さっきまでそこにあった花がもうなくなっていたり、逆になかった花がいつの間にか咲いていたりと、少しでも時間が経てば、風景そのものが変わってしまう。風の音、鳥の音、虫の音など、聞こえてくる音も刻一刻と変わっていく。あの場所にいると、生きることは変化し続けることである、ということを感覚的に理解できる気がします。何も手を加えていないように見えるけれど、命の営みを邪魔しないためのあらゆるものが、あの場所にはあるのかもしれません」
いつもその花園でどのように過ごしているのかと尋ねると、「ただ、そこにいるだけ」だと敦子さんは答える。思いのままに写真を撮ることもあるけれど、デッサンはほとんどしない。花園の姿をそのまま作品にすることも、決してない。ただ、その場所にいて、見て、感じる。そこで感じたものが、自分の中に入ってくる。時を経て、それが自分のフィルターを通して再び出てくるものを織り交ぜながら、敦子さんは世界に一つしかない自分だけの風景を生み出していく。
「当たり前のことなのですが、自然は、私のことなんて気にしてないんですよね。こっちが悲しかろうが、怒っていようが、ウキウキしていようが、お構いなしで、ただ、粛粛と命の循環を続けている。私はそこがすごく頼もしくて、信頼できると思える。自分がこうして東京で時間を過ごしているときも、あの場所では変わらず命の営みが続いているんだいう事実が、どっしりした一つの根っこのようなものとして私の中にあり、今も自分を支え続けてくれているんです」
[言葉の外側にあるもの]
言葉なしでは成立し得ないライターという仕事をしている私は、絵画のような「言葉を介さない」世界の表現について、ずっとある種の憧れを抱き続けている。最近は「言語化」という言葉がずいぶん流行しているように思うけれど、私は「言葉を当てはめた瞬間に見えなくなってしまう、その周りにあったはずの豊かで美しい何か」について考えることをやめられない。本当に自分が言いたかったのはこれなのだろうか?言葉にした側から失い続けている何かがあるのではないだろうか?と考える作業自体もどうしたって言葉を介してしまうわけで、出られない迷路のなかにいるような、やるかたない気持ちで日々を生きている。
翻訳者として何冊もの本に関わってきた敦子さんは、言葉の世界と絵の世界のそれぞれを生きることについて、どのようにバランスを取っているのだろうか。
「絵は自発的にほぼ毎日描いていますが、翻訳の仕事は受注されて初めて発生することなので、仕事があるときとないときの差はあります。絵を描くことと翻訳はあまりにも異なる作業のため、自分にとっては『書くこと』と『描くこと』の切り替えがリフレッシュになっている側面があるかもしれません。翻訳は言語で伝えることを目的とする作業だけれど、絵は、言語化できないものを掴もうと試みる作業。掴めないなら掴めないなりに、曖昧なものを曖昧なまま表現することが許される絵の世界は、私に大きな開放感をもたらしてくれます」
この世界に存在しているものの中で、人間が認知できるものはほんの一部であり、まして言葉で表せるものとなると、さらにわずかだ。言葉にしたものの外側には、言葉にできない、豊かで膨大な世界が広がっている。言葉にするから伝えることのできるものもあるけれど、言葉にしないからこそ自由に動き続けることのできる何かも、きっとある。
「そういう意味では、絵を描くということは、言葉とは対照的な自分とのコミュニケーションなのかもしれません。自分の中に確かにあると感じられる、ぼんやりとした蜃気楼のようなもの。そのままだとうまく言葉にできないし、視覚的に認識することもできないけれど、目の前の白い紙と向き合って手を動かせば、だんだんと目の前に『それ』が視覚的な実態を伴って現れる。自分の内側にあったものを、物質として外側に出すことができる。それがうまくいったときの幸福感は何にも代え難いものがあり、絵を描くことの根源的な喜びと言えるのかもしれません」
[根無し草]
「敦子さんの絵を敦子さんの絵たらしめているもの、ご自身のご自身らしさの本質は、どういうところから来ているのだと思いますか?」というようなことを最後に私は聞いた。聞いておきながら、ずいぶん乱暴な質問をしてしまったな、と反省したのだが、敦子さんは「なんだろうな……」と考えてから、少し笑って、「根無し草?」と答えた。
小さい頃から、父親の仕事の関係で、引っ越しの多い子ども時代だった。茨城県水戸市で生まれ、3歳で大阪に行き、土浦、札幌と移動を重ねた。高校時代は札幌で過ごし、そのあとはアメリカの大学へ入学し、在学中にフランスへ。日本へ戻って就職した後も、インド、オーストラリアと常に移動をしながら生きてきた。
「小さな頃から何度も転校を繰り返してきたけれど、別にそれ自体は嫌じゃなかったんです。いつも、今度行くところはどんなところだろう?ってわくわくしていた。いや、今思い返すと、『わくわく』というより、『淡々』としていたのかも。幼心にそういう生活を受け入れて、さして特別なこととは思わないようになっていたのかもしれませんね」
大人になってからもひとつのところに留まることができなくて、ここじゃない、ここじゃない、と思いながら移動を続けてきた。どの場所も魅力的で、住んでいるときはその環境を能動的に楽しんでいたけれど、でも同時に「自分はいつかまた次の場所へ行くんだろうな」と思っていた。今は東京に住んでいるけれど、これからどうなるかはわからない。「故郷はどこ?」と聞かれると、言葉に詰まる。いつだって、成り行きまかせの、根無し草。
「移動を繰り返す人生の中で、若い頃は『ここだったんだ!』と思える場所にいつか出会えるのかな?と考えることもあったけど、最近は、きっと死ぬまで『ここ』はないんだ、人生の旅路の最後に辿り着くところが『ここ』なのかもしれない、と思うようになりました。私がいま繰り返し描こうとしているのは、そういう場所への道なんじゃないかと思うんです」
Come through that meadow.
誰もが最後に「ここ」に辿り着く。その一歩手前の、美しい草はらを敦子さんは描き続ける。草花が鬱蒼と生い茂り、道らしい道には見えないけれど、そこを抜ければ、辿り着きたかった景色が自分を待っているかもしれない。そこを歩くときに感じるのは、たぶん心躍るような高揚感ではない。そのかわり、静かに心身に染み入るような喜び、穏やかな幸福感がある。どうか、そんな旅路の終わりでありますように。そういった願いを、敦子さんは絵に託す。
敦子さんの絵を前にして、もう二度と会うことのできない大切な人々の顔を思い浮かべてみる。彼らが最後にこんな風景を見たかもしれないと思うと、それだけでどこか救われるような気がする。また、自分自身の旅の最後にこんな景色が待っているとするならば、落ち着かない日々を生きる今の心持ちも、幾分穏やかに感じられる。そんないくつもの新しい風景に、もうすぐSISON GALLERyで出会えると思うと、今からなんとも言えずあたたかな気持ちになる。
草はらを抜けた先にどんな風景が待っているかは、まだ私たちにはわからない。けれどその手前にある美しい花々が、遠くから見つめる動物たちが、私たちを優しくその先へと誘ってくれる。敦子さんの絵がたたえる優しさは、今を生きている私たちにとって、たしかな希望になり得るものだと思う。
text by Sakura Komiyama
野口アヤ×吉野マオ これから訪れる春の喜びに、祝福を "Bloom Echo"
なぜ沖縄を好きだと思っていたのか
その理由に触れた沖縄での暮らし
ayanoguchiayaの12回目のコレクションは「Bloom Echo」と名づけられている。その展開の軸となるのは、若きアーティスト・吉野マオさんとコラボレーションした新たなテキスタイル。これから訪れる瑞々しい春の息吹を感じるように、優しく重なる桃色と水色、そしてさまざまな彩りの花々が咲き誇る、マオさんの作品から生まれたものだ。
ayanoguchiayaのデザイナーで、シソンギャラリーのオーナーでもある野口アヤさんは、この日、上がったばかりのマオさんとのコラボレーションテキスタイルの洋服を持って、沖縄で個展を行っていたマオさんの元を訪れた。マオさんは、個展のために約2週間、沖縄に滞在していて、もうすっかり沖縄の空気を纏っている。アヤさんが個展会場のカフェ「CONTE」の扉を開けると、その奥にはマオさんの明るい笑顔があって、その姿を見たアヤさんは、「いい時間を過ごしたんだなあ」と、すぐにそう思ったそうだ。
「沖縄の暮らしはどうだった?」、アヤさんが訊ねると、「沖縄は7年ぶりだったんです。久しぶりに沖縄に来て、しかも暮らすように沖縄にいれたことで、また、違う見え方ができて、それがすごくよかったなと思っています」とマオさん。
名古屋の中心街で生まれ育ったマオさんだが、沖縄は「第二の故郷」のような場所。初めて家族で沖縄に旅行で訪れたのが小学2年生の時で、初めて沖縄に来た時からなぜか彼女はどうしようもなくこの島に惹かれたのだという。そこから毎年、「沖縄に連れて行ってください」と両親に頼み、家族旅行はいつも沖縄だった。
東京藝術大学に入学してからは創作活動が忙しく、なかなか訪れる機会もなかったが、この沖縄での個展を機に、少し長く滞在しようと個展の1週間前から沖縄に入っていた。
マオさんが沖縄に着いた日は、ちょうど旧盆に当たった。旧盆3日目「ウークイ(御送り)」と呼ばれる日は、各地で先祖の霊をあの世に送り出す伝統行事「エイサー」が行われる。マオさんは、その中でも200年以上の歴史を持つ「平敷屋エイサー」を観に行った。神聖な神屋(拝所)を前に行われる奉納演舞は、祖先の霊を慰め、地域に平穏をもたらすために行われる。沖縄に着いた次の日にその行事を観たマオさんは、祖先とのつながりや地域の人たちの熱気、そしてそれをつなぐ唄三線と太鼓、指笛の音色が混じり合う状況に、「とても感激してしまった」と語る。
「私がなぜ沖縄を好きだと思っていたのか、その理由を見せてもらった気がしました。今、ここにいる自分と、すべての祖先、地球の始まり、そういうものが光で一本に繋がった感じがしたんです。旧盆に重なったことで、祖先を感じたり、死者とか魂との繋がりを強く感じたというのもありますが、だけど、沖縄という島は、ただ歩いているだけでも風景の中からそれを感じられるんですよね。連れて行ってくれた人が『死と生が同じ場所にある』と言っていましたが、歩いていても、暮らしの中に祈りの場所があったり、人々がちゃんと大事にしてきたものでこの島はできている。そのことにすごく安心感を覚えたんです。私は愛知のビルに囲まれた街で育って、多分どこかにずっと不安があって、いったい自分はどこから生まれたんだろうみたいな気持ちがありました。でも今回沖縄に来て、エイサーを見た時に、すべて、このひとつの地球から生まれて死んでいくという、生きることの安心感、さらに、死ぬことへの安心感みたいなものに改めて気づいて、それを初めて言葉にできたんです」
マオさんは東京藝術大学在学中、絵画ではなく、工芸科陶芸研究室に在籍していた。なぜかと訊くと、何かしら表現することは一生を賭けてやっていくと思っていたマオさんは、まず、その原点である「土」に触れることから始めたいと思ったからだという。土から生まれ、世界と出会い、いずれ、土に還る。陶芸、そして、絵を描きながら感じていたそのことが、エイサーや沖縄での暮らしを通して感じたことと重なっていったのかもしれない。
誰かひとりに向けての手紙から、
これから出会う人たちの祝福を願う絵へ
アヤさんもまた、沖縄でのマオさんの作品を観て、これまでとは違うものを感じたと話す。
「『しま ぬ ひかり』という個展のタイトルもそうですが、作品が明るい感じがしますね。光を感じるんです。今年の1月にシソンギャラリーで展示した作品とはまた変化していることが伝ってきます」
沖縄での個展タイトルは『しま ぬ ひかり』だった。「島のひかり」。現在暮らしている岐阜のアトリエで、この個展に向けて作品を描くにあたり、「ずっと沖縄のエネルギーを浴びてきていたので、スルスルスルってイメージが湧いてきて、沖縄のことや会場になる場所のこと、どういう人が来るんだろう、どういう人と会えるんだろうと、そんなことを考えて描いていきました」とマオさん。
「私は絵を手紙として描いているので、これから出会う人のことがすごく気になるんですよ」
マオさんにとって、絵は手紙。
「最初は、こうして展示したり、作品をつくるというのではなく、特定の誰かに向けての手紙として描いていたんです。もちろん愛を持って描いていたけれど、気持ちが高ぶりすぎて、いつも号泣しながら描いていました。だから人前では絵が描けなかったんですよ。その頃は、ドアも閉めて、ひとり、閉じこもって描いていました。そういう絵は、誰かひとりにあげるにはよかったけど、繊細で重い絵だったと思います。飛んでいくような軽やかな絵ではなかった」
沖縄でマオさんは、個展会場のカフェで、スケッチブックを広げて絵を描いたり、お客さんがいる前で大きな窓に楽しげにライブペインティングしたりと、絵を描く場所の空気や光、風景を感じながら、その場、その時とセッションするような感じで描いていた。だから「閉じこもってひとりで描いていた」という、その思いがけない言葉には驚いた。
それが変わっていったのは、「私を一番よく知る人に、なぜみんなのために絵を描きたいのに、閉じこもって描いているの?」と言われたことがきっかけだった。それから少しずつ、ドアを開けて描けるようになって、人前で描けるようになり、すると、描く絵もまた変わっていった。そうすることで、「みんなに届いていく絵になったのかなと思います」。
「今も泣きながら描くことはある?」とアヤさんが訊くと、「今は、号泣はしていないです。あるとしても、嬉し涙かな」とマオさんが微笑む。
「だから個展でこんなにみんなが幸せそうな顔をしてくれるなんて思わなくて。今回もちゃんと届いてるなって実感できていて、それがとても嬉しいんです」
外へと開かれていったマオさんの絵は、たったひとりに向けた手紙ではなく、これからその絵に出会う人たちへの手紙となった。今回の沖縄の展示の絵もそうだった。沖縄を想い、これから出会う人たちとの祝福を願い、その人たちへ向けた手紙。設営の時、一枚一枚、その絵を会場の壁に飾っていくと、その空間にまるで最初からあったかのようで、思わず、「おかえりなさい」と言ってしまいそうなほどに、沖縄の風景に、ほんとうに、とてもよく似合っていた。
さらに沖縄に滞在しながらも絵を描いた。スケッチブックにクレパスや色鉛筆、ペンなど身近な画材で描いた絵は、沖縄の光に映えて、より彩りが鮮やかになった。そして、今、ここで感じたことを描きたい、という想いが、力強く勢いのある線となって行った。
「沖縄の景色を見ていたこともあるし、さっきも話しましたが、エイサーを見て、私がやりたいことは、これでいいんだなと思えたことも影響しています。ここで生まれてここに還る、それを感じさせてくれる時の安心感。絵もまた、そういうものであれたらと思っていて、自分がやりたいことを改めて確かめられた気がします。その自信が筆に現れたのかな。だから、迷いがなくなったんです」
絵だけで完結するのではなく、
洋服になることによって
よりたくさんの人に喜びの粉が舞う
アヤさんとマオさんの出会いは2024年の秋に遡る。東京で開催されていたマオさんの個展を見たアヤさんは、会場に入った瞬間、「かなり好きだ」と思った、と、その時のことを振り返る。
「マオちゃんの作品は色使いの綺麗さや可愛さ、お花というモチーフの優しさ、そしてほどよく抽象化されたタッチとか、手法の勢いがすごくあって、見た瞬間、衝撃的に好きな作品だ!と射抜かれた感じでした。展示はもう3分の2ぐらいまで来ていて、絵もだいたい売れてしまっていたのですが、その時一目惚れした大きな作品を一枚購入したんです。でもその時、マオちゃんは在廊していなくて、どんな人が描いているのかわからなかったんです。それでギャラリーの人に聞いたんですよ。そしたら、『昔の女優さんみたいで、面白い人なんですよ』と言われたんです」
ますます、いったいどんな人なんだろうと、会いたい気持ちが募り、連絡をとってみると、マオさんから返ってきたのは、「私は、描いている絵みたいな人なんです」との答え。そして実際会ったマオさんは、「本人もすごく魅力的な人物だった」とアヤさん。
「それからいろんな話をしました。モチーフが全部お花であるとか、子どもの頃から人に気持ちを伝えるために絵を描き始めたこと、だから絵はお手紙なんだということ、そして、祝福をテーマに描いているということを聞いて、ますます好きになりました」
この出会いがシソンギャラリーでの個展へとつながり、さらに、これまでさまざまなアーティストとのコラボレーションを重ねてきたayanoguchiayaの次のコラボレーションアーティストへとつながっていった。
「マオちゃんと一緒に何かやりたいとすぐに思い至ったのですが、どの作品とコラボレーションするかは悩んだんです。だけど、やっぱり最初に下北沢で買った作品がすごく印象的で、そのインスピレーションを大切にしたいと思いました」
アヤさんが買った作品は、キャンバスが大きく四等分、そのそれぞれに色もタッチも、それゆえ印象も違う花が描かれていた。マオさん曰く、「その4つは、それぞれ違う年代の、違う経験がテーマにあるんです。そのすべては、自分の人生に大事だったタイミングで、その4つのことはバラバラだけど、並べた時に絶対に最高になると思って描きました」。
アヤさんも「確かに、お花が4つあるように見えるけど、見え方によっていろんな見方ができる作品なんですよね」と続ける。
「例えば、その4つが家族にも見えたり、土、水、空気、火の四元素説にも見えたり、万物の根源の思想にもなぞらえられたりする。そういうふうにいろんな捉え方ができるのが面白いなと思いました」
しかもかなり大きなサイズの作品だった。大きなキャンバスには身体全部で向き合う必要がある。だからか、その時のすべてが注がれる。一筆ごとに魂が宿っている、と言っていいかもしれない。その作品はそれほどに力強かった。そして、そんな作品からつくられたテキスタイルは、それが洋服になっても、そのエネルギーを薄めることなく、しっかりと写し取った。
「その時のコレクションのテーマは『inspires』で、マオちゃんの作品からインスピレーションを得て、それからつくったテキスタイルと、そこから他のアイテムに世界観を広げてコレクションをつくっていったんです。マオちゃんのその絵の力が伝わるのか、この時のコレクションの中でもマオちゃんとのコラボした洋服が一番人気だったんですよ。しかも、ayanoguchiayaのお客さんがマオちゃんの作品を購入したり、マオちゃんのお客さんがayanoguchiayaの服をオーダーしてくれたりという嬉しい相互作用もありました」
マオさんもまた、「絵だけで完結するものというより、よりたくさんの人に届いていってほしいと思っているんです。自分でもその方法を探していたから、お洋服に落とし込まれているのを見て、すごく嬉しかったですね。着ている人の周りや、たまたま道をすれ違う人にも喜びの粉がかかるっていう、そういうイメージが浮かびます」とそう話す。
お互いの中にあるものが混ざり合う
コラボレーションの醍醐味
そしてこの10月に発表される新しいコレクションで、2人のコラボレーションの第二弾が実現する。前回は秋冬のコレクションだったが、今回は春夏のコレクションということもあり、これから訪れる春の喜びに溢れ、マオさんの言う「喜びの粉」がさらに軽やかに舞い散るような、心躍る洋服が並ぶ。
「今回コラボレーションした作品は、7個の花が横に並んでいる絵なんです。花が咲き誇っているような、花束とか花畑的な雰囲気も感じられて、マオちゃんの創作テーマのひとつである祝福の喜びがとても伝わってくるものです」とアヤさん。
絵のタイトルは「予祝」。聞き慣れない言葉だが、これから訪れる幸せを事前にお祝いし、その未来を引き寄せるという、日本古来の文化や習慣で、この言葉をマオさんが知ったのは、ちょうどその絵を描いているタイミングだったそうだ。
「いつも、今、今を祝福しているけど、この絵は、もうちょっと遠くの未来を見ているんです。予祝って、予め祝うことですよね。その言葉を知った時、もっと広い範囲で、祝福することの意味を初めて考えながら描いたんです。絵を描くことを通して、自分はこれから出会う人たちの予祝をしていることなのかもしれないと思ったんです。そしたら、なぜか海の景色が見えて、南の方、瀬戸内とかあたりの、暖かいイメージが浮かんできたんです。だから少しそういう色味も入ってきています」
桃色と水色の柔らかい光と色使い、そこに透け感のある優しい生地が重なり、揺れる。アヤさんとしても、輝く季節の訪れを祝うそのイメージは春夏のコレクションにぴったりだった。その咲き誇る花々が次々に共鳴していくイメージが膨らみ、キャミソールワンピにもなるスカートに、ユニセックスな開襟シャツ、そして涼しげなパンツが生まれた。そこにマオさんが描く花々が踊るのだ。
アヤさんは言う。
「私自身、25年以上服作りをしてきていますが、この数年間はアートギャラリーを始めて、マオちゃんをはじめ、いろんなアーティストの方々と出会う機会があるんです。アーティストさんと話して、ものづくりに対しての姿勢や想いを聞くと、それがまた自分の創作への刺激にもなります。そしてコラボレーションすることで、お互いの作品の価値をより高めながら、新しい表現が生まれてくる。それがとても嬉しいんですね。こういうアートに近づいたものづくりを通して、私自身、楽しく変化してっていると思いますね」
それを聞いてマオさんもこう話す。
「私も、人とものづくりができることは一番の喜びです。言葉で交わすだけでなく、ものづくりを通してお互いの一番深いところにあるものが混ざり合う感じがすごく幸せなんです」
まさしくayanoguchiayaとのコラボレーションはそのものだった。決してひとりだけでは作り得ないもの。しかもどちらもが自身の表現に真摯に向き合っているからこそ、そのふたつが重なる時、豊かな広がりが生まれるのだ。
自分の絵とのコラボレーションで生まれたayanoguchiayaのシャツを羽織ったマオさんは、嬉しそうに、「これが地球のユニフォームになったら幸せじゃないですか!」と声を上げた。
「そしたら未来はもっと明るくなるね」とアヤさんが頷く。
すでに私たちは祝福されていて、そういう今を生きている。そういうふうな心で生きることがまたその先の未来に幸せを呼ぶ。そしてそれがまた周りにいる誰かを幸せにする。その現象こそ、コレクションタイトルにある「Bloom Echo」という言葉に相応しい。
アヤ
「マオちゃんはこれからさらに進化していくと思うんです。またその先で、一緒に何かできたらいいなと思っています」
マオ
「12月のシソンギャラリーでの個展では、今回、沖縄で感じたことが出てくると思います。どんなものが生まれるか、自分でも楽しみなんです」
聞き手と文:川口美保
写真:チダコウイチ
目の前のものを愛してまっすぐに描く、二十歳のまなざし SOTA YOSHIDA 吉田草太/画家
福岡のアトリエから、まだ見ぬ世界の誰かへ向けて。どんな日も、好きなものだけを描き続ける。
[水彩絵の具で描かれた猫]
吉田草太さんは、福岡在住の二十歳のアーティストだ。この夏、SISON GALLERyで約2年ぶりの個展を開くにあたって、私は東京で彼に会い、直接話を聞く機会を得た。初めてお会いした草太さんは、にこやかな表情がとても印象的な青年だった。話をするのはあまり得意ではないと事前に聞いていた通り、決して饒舌ではなかったけれど、ゆっくりと言葉少なに、私の質問にひとつひとつ応えてくれた。
インタビューに入る前に、草太さんは一枚の絵を私にプレゼントしてくれた。そこには私が飼っている猫の姿が水彩絵の具で描かれてあった。私がInstagramに投稿した写真を見ながら描いてくれたというその絵は、写実的なものではないのに、どこからどう見てもうちの猫だったので本当に驚いた。一度も会ったことのないはずの猫なのに、そこにはその猫のその猫らしさがまっすぐに捉えられている。一枚の写真だけを元にして、どう見たらこんなふうに描けるんだろう。彼の見る力はどのように生まれて、どこから来ているんだろう。目の前の草太さんに対する興味と感動が、私の中でますますふくらんでいった。
[白鼠絵画教室]
小学校に入学したころの草太さんは、図工の時間が苦手な子どもだった。当時は腕の力が少し弱かったこともあり、すっと伸びるまっすぐな線を描くことがなかなかできなかったのだが、それを見た小学校の先生は、ダメなところ、直すべきところを指摘した。草太さんが描いた絵の草太さんらしさを、先生は認めてくれなかった。そんなことが続くうちに、草太さんはだんだんと学校で絵を描くことに対して苦手意識を持つようになってしまった。母親の亜貴さんは、このままでは絵を描くこと自体が嫌いになってしまう、という危機感を覚えて、草太さんが小学校2年生のときに、友人を通して知った絵画教室の扉を叩いた。それが、白鼠絵画教室の藤井裕さんとの出会いだった。
白鼠絵画教室は、2011年、作家の藤井裕さんが「楽しんで絵を描き絵画に触れることが出来る教室」を目指し、自身のアトリエを開放して始めた絵画教室だ。スタート当初は生徒がわずか二人だけという落ち着いた環境で、草太少年の月に一度の教室通いが始まった。藤井先生は、草太さんが描いた絵を見て「すごくいいね!」と誉めてくれた。みんなで動物園に行って描いたライオンのスケッチを見せたときも、先生は「すごくいい!」と喜んでくれた。心から言っているかどうかは、先生の顔と声でわかる。いつの間にか絵画教室は草太さんにとって月に一度の楽しみになり、自由に絵を描くことの喜びを実感することが増えていった。
亜貴さんはそんな草太さんの変化をうれしく思いながらも、草太さんの絵に特別な才能めいた何かがあるとは感じていなかった。この絵はすごくかわいいな、すごく好きだな、と思うことはあっても、それは親が自分の子どもの絵を見ていいなと思う一般的な感覚であって、芸術的な何かに因るものではない、と。けれど、草太さんの周りのアーティストたちの評価はそうではなかった。
描いた絵に水彩絵の具で色をつけるようになると、藤井先生は「草太くんが描く線は、草太くんにしか書けない独自のものがある。水彩絵の具を使うときに筆に水をたっぷりと含ませて描くところも素晴らしい」と賞賛し、まだ小学生だった草太さんを才能あるひとりの画家として尊重してくれた。中学生になっても、高校生になっても、藤井先生はずっと草太さんの横で、草太さんの絵に感動し続けてくれた。二十歳になった今でも、草太さんは藤井先生の絵画教室に通い続けている。
[DEE’S HALLでの初個展]
藤井先生を通して出会った陶芸家の小前洋子さんも、草太さんの世界を広げてくれたアーティストの一人だ。「草太くんの絵はデフォルメされていて面白い。伸び伸びしていて、純粋で、明るい絵。草太くんは、ずっと変わらず草太くんの世界の中で描いていけそう」。そう言って草太さん独自の世界を評価した小前さんは、今は無き南青山のギャラリー、DEE’S HALLを営む土器典美さんに引き合わせてくれた。こうして、土器さんと草太さんとの交流が始まった。
土器さんは草太さんの絵を見るたび、その素直さ、明るさ、楽しさ、ユーモアを「面白いねぇ」と何度も褒めてくれた。まっすぐに草太さんの目を見て、「うちで展覧会をやってみない?」と土器さんが告げたのは、出会ってから数年後のことだった。
「前から草太くんの絵で展覧会をしたら面白いだろうなぁと思っていたんだけど、展覧会を開催するということは作家に対して責任を持つということなので、未成年の草太くんにどう対応していいか分からなくて……。それでも、原画を見たら、やっぱりやってみたくなってしまったのよね」
こうして、草太さんは2020年3月、土器さんの元で人生最初の個展を開くことになる。
わずか15歳にして、初めての個展、しかも東京で。DEE’S HALLでの未成年の個展は前例がなく、2020年3月といえばコロナウイルスによる緊急事態宣言が出る直前であり、全国的に緊迫感が広がっていた時期である。何もかもが初めてで、不安要素を数えだすとキリのない状況だったけれど、いざ始まると会場には草太さんが想像していた以上に多くの人が集まり、200点以上も準備した草太さんの絵は、次々とお客さんの手に渡っていった。土器さんによる展示作家の選考基準は「その作品を生活空間に置きたいと思うかどうか」。日常生活が危ぶまれる暮らしの中で、文字通り、実に多くの人が喜びを持って草太さんの絵をそれぞれの生活空間に迎え入れることとなったのだ。
「初めての東京はすべてがびっくりすることばかり。ひとりで何枚も絵を買ってくれる人もいたりして、とても驚きました。たくさんの人が自分の絵を喜んでくれて、すごく嬉しかったです」
初めての個展が大きな話題を呼んだことで、草太さんの名前はより広く知られるようになった。東京、福岡、神戸と様々な場所のギャラリーから声をかけられ、その後の3年間で、7回の個展を開催。福岡のアパレルブランドVéritécoeur(ヴェリテクール) のオリジナルのテキスタイルの製作、イタリアのラグジュアリーブランドMARNI(マルニ)の百貨店でのイベント「マルニマーケット」でのソフトクリームのイメージヴィジュアルを担当、アルゼンチンの音楽家、カルロス・アギーレとフアン・キンテーロのデュオアルバムのジャケット画を手がけるなど、絵の仕事の依頼も次々届くように。こうして草太さんの世界は、草太さんの絵を媒介にして、外側に向かってどんどん大きく広がっていった。
2024年1月、土器さんは惜しまれながらも帰らぬ人となり、生前に声をかけてもらっていた「灯台」をテーマとした合同展は叶わぬものとなってしまった。草太さんには、画家として生きる道を切り開いてくれた先達とのかけがえのない出会いがいくつもある。土器さんは、間違いなくそのうちの一人だった。
[毎日絵を描く]
草太さんは、必ず毎日絵を描く。気に入っているのは、ワトソン紙とホルベインの透明水彩絵具。窓の外が暗くなった頃、大好きなディズニーの音楽をスピーカーで流しながら、頭を空っぽにして、まずは1枚。気分が乗る夜は3枚、4枚と、筆の赴くままに描いていく。いちばん好きなのは、絵に色を塗る時間。特に好きな青色は、絵の具の減りが早い。
「色を塗ることで、絵に命が宿るような感覚がある。それがとても楽しいんです」
描いた絵は、必ず毎日一枚、自身のInstagramにあげる。これは中学校に上がったころからずっと続けている習慣で、疲れている日もあるし、気が乗らない日もあるけれど、よほどのことがない限り、絵を描くことは一日も休まない。どうしてそこまでして毎日続けているのですか?と草太さんに聞くと、「少しでも休むと、そのぶん見てもらえる人が減ってしまうから」ときっぱりと答えた。
草太さんには、今でも忘れられないできごとがある。それは、2回目の個展を開催したときのこと。草太さんに話しかけてきてくれたその人は、病気を患っており、もうすぐ手術を受ける予定があるのだという。
「草太さんの絵を見ると、しんどいときでも、ちょっと元気が出るんです。手術、がんばれそうです」。
自分の絵を見て、元気がでる人がいる。草太さんはそのことに驚いた。「絵を描く」という行為が、自分ひとりのものではなくなった瞬間だった。
このときの会話を片時も忘れたことがない草太さんにとって、絵を描くことは、まだみぬ世界の誰かに絵を届けることであり、その人を応援することでもあるのだ。描き続けることで、もっともっとたくさんの人に自分の絵を届けたい。自分の絵を見て「今日は頑張れそうだな」と思ってもらえたら、明るい気分で一日を過ごしてもらえたら、こんなに嬉しいことはない。だから、草太さんは休まない。
[描くのは、好きなもの]
草太さんが描くのは、草太さんが好きなもの。草太さんがかわいいと思うもの。SNSで見かけた犬や猫、一緒に暮らしているうさぎ、動物園や水族館で会える獣たち、美しく自由な草花たちや、身の回りのにぎやかな雑貨など。機械などの無機質なものや構造が複雑なものに対してはあまり食指が動かないようで、「やっぱり、可愛いものが好きですね」とはにかみながら答えてくれた。
ご自身の作品の中で、特に印象に残っている絵はありますか?と聞くと、草太さんはラッコのリロの絵の話をしてくれた。
ラッコのリロは、福岡の水族館「マリンワールド海の中道」で飼育されていたラッコで、日本で飼育されている3頭のラッコのうち、唯一のオスのラッコだった。リロが大好きな草太さんは、足繁く通ってはリロの写真を撮り、家に帰ってはリロの絵を描いていた。ところが2025年1月、17歳という天寿を全うし、リロはこの世から姿を消してしまった。草太さんは悲しんで、たくさん泣いた。いちばん気に入っているリロの絵は、ラッコプールの前に設けられた献花台にお供えすることにした。リロはもうこの世にいないけれど、草太さんが描いた絵の中のリロは、ずっとかわいいまま、ぷかぷかと水面に浮かんでいる。その絵はもう手元には残っていないけれど、草太さんにとっては永遠に特別な一枚だ。
[変わること、変わらないこと]
草太さんは現在、地元の大学の芸術学部に通いながら、シルクスクリーンや版画、立体作品、ビジュアルデザイン、イラストレーションなど、たくさんのことを学んでいる。新しい技術を習うと、さっそく家でも試してみる。アクリル絵の具で絵を描くことも増えてきた。ずっと続けてきた水彩画も変わらず大好きだけれど、新しい表現も楽しくて仕方がない。
いつのまにか、絵を描き始めてもうすぐ12年になる。周りからは「絵が大人っぽくなってきたね」「線や色使いが変わってきたね」という声をよくかけられる。12年も経てば画風が変わることは自然なことかもしれないけれど、草太さん自身は意識して描き方を変えたこともないし、自分のどこが変わったのかもピンときていないから、なんとも不思議な気持ちになる。自身の変化に対しては、いたって無自覚なのだ。
国内は沖縄から北海道まで、国外はアジア、アメリカ、ヨーロッパまで。小さな頃から、草太さんは家族と一緒にたくさんの旅を重ねてきた。アート的な視点から特に魅了された国はスウェーデン。ストックホルムの街並みの色使い、海に白鳥が浮かんでいる様子など、心に残る風景にたくさん出会った。青森の十和田市現代美術館も強く印象に残っているという。それでも、「旅先で見たもの、聞いたものから創作活動が影響を受けたことはありますか?」と聞くと、「特にないと思います」と答える。
たくさんの場所に行って、たくさんのものを見る。たくさんの技法を学び、それを使って新しい絵を描き続ける。時を経て、年齢を重ねる。それでも、草太さんの絵は、草太さんにとってはいつも通り、今まで通りだ。草太さんは今日も淡々と、飄々と、自分が好きなものを描き続ける。
変わることと変わらないことの間には、いったい何があるのだろう? よくわからないまま、草太さんは今日も筆を持つ。
[愛して、見つめる]
草太さんの線は、やさしくゆらぐ。草太さんの色は、穏やかに調和する。草太さんは、自分が見たもの、好きなもの、かわいいと思ったものだけを見つめて描く。そのまなざしは、真剣で、切実で、あまりにもまっすぐだ。草太さんの絵を見ていると、自分の中の硬い部分がだんだんと柔らかくほぐれていくような心地よさを覚える。その穏やかな心地よさは、見る人の毎日をやさしく支えてくれる。
「画家は自分のすきなもの、愛しているものをよく絵に描くんです。
愛しているところに美があるからなんです。
愛情と美は はなれることができません。」
と言ったのは、画家の猪熊弦一郎だ。私は草太さんの絵を目にするたび、いつもこの言葉を思いだす。草太さんの絵の素直さ、明るさ、楽しさ、瑞々しさ、ほのかなユーモア。そのすべてが、草太さんの愛情にしっかりと紐づいているのを感じる。私の家の猫たちも、たとえ一度も会ったことがなくても、写真を通して確かに草太さんに愛されたのだと思う。だから、いただいたあの絵はあんなに美しくて愛らしいのだと思う。草太さんの絵は、本当にかわいくて、本当にやさしい。
[芽吹きつつある]
2025年8月、SISON GALLERyで行う個展のタイトルは、“Budding”に決めた。「芽吹きつつある」という言葉の中に、比喩的に「新進の」という意味も含まれる、たくさんの引き出しを持つ言葉だ。前回の福岡での個展のタイトル“Seeding(種まき)”から続いているタイトルでもあり、草太さんの中で少しずつ何か新しいものが育ちつつある様子が窺える。
額装された水彩画や、キャンバスに描かれたアクリル画のほか、小さなサイズの水彩画は150点ほど並ぶという。毎日描き溜めてきた草太さんの作品がSISON GALLERyいっぱいに芽吹くさまはいったいどんな光景になるのか。想像するだけで心が躍る。
「もし絵を買ってくれる人がいたなら、ぜひ家の玄関に飾ってもらえたらいいなと思います。毎朝、家を出る前に僕の絵を見て、今日も一日元気で頑張ろうって思ってもらえたら、とても嬉しいです」
text by Sakura Komiyama







































