Meet the Artist
目の前のものを愛してまっすぐに描く、二十歳のまなざし SOTA YOSHIDA 吉田草太/画家
福岡のアトリエから、まだ見ぬ世界の誰かへ向けて。どんな日も、好きなものだけを描き続ける。
[水彩絵の具で描かれた猫]
吉田草太さんは、福岡在住の二十歳のアーティストだ。この夏、SISON GALLERyで約2年ぶりの個展を開くにあたって、私は東京で彼に会い、直接話を聞く機会を得た。初めてお会いした草太さんは、にこやかな表情がとても印象的な青年だった。話をするのはあまり得意ではないと事前に聞いていた通り、決して饒舌ではなかったけれど、ゆっくりと言葉少なに、私の質問にひとつひとつ応えてくれた。
インタビューに入る前に、草太さんは一枚の絵を私にプレゼントしてくれた。そこには私が飼っている猫の姿が水彩絵の具で描かれてあった。私がInstagramに投稿した写真を見ながら描いてくれたというその絵は、写実的なものではないのに、どこからどう見てもうちの猫だったので本当に驚いた。一度も会ったことのないはずの猫なのに、そこにはその猫のその猫らしさがまっすぐに捉えられている。一枚の写真だけを元にして、どう見たらこんなふうに描けるんだろう。彼の見る力はどのように生まれて、どこから来ているんだろう。目の前の草太さんに対する興味と感動が、私の中でますますふくらんでいった。
[白鼠絵画教室]
小学校に入学したころの草太さんは、図工の時間が苦手な子どもだった。当時は腕の力が少し弱かったこともあり、すっと伸びるまっすぐな線を描くことがなかなかできなかったのだが、それを見た小学校の先生は、ダメなところ、直すべきところを指摘した。草太さんが描いた絵の草太さんらしさを、先生は認めてくれなかった。そんなことが続くうちに、草太さんはだんだんと学校で絵を描くことに対して苦手意識を持つようになってしまった。母親の亜貴さんは、このままでは絵を描くこと自体が嫌いになってしまう、という危機感を覚えて、草太さんが小学校2年生のときに、友人を通して知った絵画教室の扉を叩いた。それが、白鼠絵画教室の藤井裕さんとの出会いだった。
白鼠絵画教室は、2011年、作家の藤井裕さんが「楽しんで絵を描き絵画に触れることが出来る教室」を目指し、自身のアトリエを開放して始めた絵画教室だ。スタート当初は生徒がわずか二人だけという落ち着いた環境で、草太少年の月に一度の教室通いが始まった。藤井先生は、草太さんが描いた絵を見て「すごくいいね!」と誉めてくれた。みんなで動物園に行って描いたライオンのスケッチを見せたときも、先生は「すごくいい!」と喜んでくれた。心から言っているかどうかは、先生の顔と声でわかる。いつの間にか絵画教室は草太さんにとって月に一度の楽しみになり、自由に絵を描くことの喜びを実感することが増えていった。
亜貴さんはそんな草太さんの変化をうれしく思いながらも、草太さんの絵に特別な才能めいた何かがあるとは感じていなかった。この絵はすごくかわいいな、すごく好きだな、と思うことはあっても、それは親が自分の子どもの絵を見ていいなと思う一般的な感覚であって、芸術的な何かに因るものではない、と。けれど、草太さんの周りのアーティストたちの評価はそうではなかった。
描いた絵に水彩絵の具で色をつけるようになると、藤井先生は「草太くんが描く線は、草太くんにしか書けない独自のものがある。水彩絵の具を使うときに筆に水をたっぷりと含ませて描くところも素晴らしい」と賞賛し、まだ小学生だった草太さんを才能あるひとりの画家として尊重してくれた。中学生になっても、高校生になっても、藤井先生はずっと草太さんの横で、草太さんの絵に感動し続けてくれた。二十歳になった今でも、草太さんは藤井先生の絵画教室に通い続けている。
[DEE’S HALLでの初個展]
藤井先生を通して出会った陶芸家の小前洋子さんも、草太さんの世界を広げてくれたアーティストの一人だ。「草太くんの絵はデフォルメされていて面白い。伸び伸びしていて、純粋で、明るい絵。草太くんは、ずっと変わらず草太くんの世界の中で描いていけそう」。そう言って草太さん独自の世界を評価した小前さんは、今は無き南青山のギャラリー、DEE’S HALLを営む土器典美さんに引き合わせてくれた。こうして、土器さんと草太さんとの交流が始まった。
土器さんは草太さんの絵を見るたび、その素直さ、明るさ、楽しさ、ユーモアを「面白いねぇ」と何度も褒めてくれた。まっすぐに草太さんの目を見て、「うちで展覧会をやってみない?」と土器さんが告げたのは、出会ってから数年後のことだった。
「前から草太くんの絵で展覧会をしたら面白いだろうなぁと思っていたんだけど、展覧会を開催するということは作家に対して責任を持つということなので、未成年の草太くんにどう対応していいか分からなくて……。それでも、原画を見たら、やっぱりやってみたくなってしまったのよね」
こうして、草太さんは2020年3月、土器さんの元で人生最初の個展を開くことになる。
わずか15歳にして、初めての個展、しかも東京で。DEE’S HALLでの未成年の個展は前例がなく、2020年3月といえばコロナウイルスによる緊急事態宣言が出る直前であり、全国的に緊迫感が広がっていた時期である。何もかもが初めてで、不安要素を数えだすとキリのない状況だったけれど、いざ始まると会場には草太さんが想像していた以上に多くの人が集まり、200点以上も準備した草太さんの絵は、次々とお客さんの手に渡っていった。土器さんによる展示作家の選考基準は「その作品を生活空間に置きたいと思うかどうか」。日常生活が危ぶまれる暮らしの中で、文字通り、実に多くの人が喜びを持って草太さんの絵をそれぞれの生活空間に迎え入れることとなったのだ。
「初めての東京はすべてがびっくりすることばかり。ひとりで何枚も絵を買ってくれる人もいたりして、とても驚きました。たくさんの人が自分の絵を喜んでくれて、すごく嬉しかったです」
初めての個展が大きな話題を呼んだことで、草太さんの名前はより広く知られるようになった。東京、福岡、神戸と様々な場所のギャラリーから声をかけられ、その後の3年間で、7回の個展を開催。福岡のアパレルブランドVéritécoeur(ヴェリテクール) のオリジナルのテキスタイルの製作、イタリアのラグジュアリーブランドMARNI(マルニ)の百貨店でのイベント「マルニマーケット」でのソフトクリームのイメージヴィジュアルを担当、アルゼンチンの音楽家、カルロス・アギーレとフアン・キンテーロのデュオアルバムのジャケット画を手がけるなど、絵の仕事の依頼も次々届くように。こうして草太さんの世界は、草太さんの絵を媒介にして、外側に向かってどんどん大きく広がっていった。
2024年1月、土器さんは惜しまれながらも帰らぬ人となり、生前に声をかけてもらっていた「灯台」をテーマとした合同展は叶わぬものとなってしまった。草太さんには、画家として生きる道を切り開いてくれた先達とのかけがえのない出会いがいくつもある。土器さんは、間違いなくそのうちの一人だった。
[毎日絵を描く]
草太さんは、必ず毎日絵を描く。気に入っているのは、ワトソン紙とホルベインの透明水彩絵具。窓の外が暗くなった頃、大好きなディズニーの音楽をスピーカーで流しながら、頭を空っぽにして、まずは1枚。気分が乗る夜は3枚、4枚と、筆の赴くままに描いていく。いちばん好きなのは、絵に色を塗る時間。特に好きな青色は、絵の具の減りが早い。
「色を塗ることで、絵に命が宿るような感覚がある。それがとても楽しいんです」
描いた絵は、必ず毎日一枚、自身のInstagramにあげる。これは中学校に上がったころからずっと続けている習慣で、疲れている日もあるし、気が乗らない日もあるけれど、よほどのことがない限り、絵を描くことは一日も休まない。どうしてそこまでして毎日続けているのですか?と草太さんに聞くと、「少しでも休むと、そのぶん見てもらえる人が減ってしまうから」ときっぱりと答えた。
草太さんには、今でも忘れられないできごとがある。それは、2回目の個展を開催したときのこと。草太さんに話しかけてきてくれたその人は、病気を患っており、もうすぐ手術を受ける予定があるのだという。
「草太さんの絵を見ると、しんどいときでも、ちょっと元気が出るんです。手術、がんばれそうです」。
自分の絵を見て、元気がでる人がいる。草太さんはそのことに驚いた。「絵を描く」という行為が、自分ひとりのものではなくなった瞬間だった。
このときの会話を片時も忘れたことがない草太さんにとって、絵を描くことは、まだみぬ世界の誰かに絵を届けることであり、その人を応援することでもあるのだ。描き続けることで、もっともっとたくさんの人に自分の絵を届けたい。自分の絵を見て「今日は頑張れそうだな」と思ってもらえたら、明るい気分で一日を過ごしてもらえたら、こんなに嬉しいことはない。だから、草太さんは休まない。
[描くのは、好きなもの]
草太さんが描くのは、草太さんが好きなもの。草太さんがかわいいと思うもの。SNSで見かけた犬や猫、一緒に暮らしているうさぎ、動物園や水族館で会える獣たち、美しく自由な草花たちや、身の回りのにぎやかな雑貨など。機械などの無機質なものや構造が複雑なものに対してはあまり食指が動かないようで、「やっぱり、可愛いものが好きですね」とはにかみながら答えてくれた。
ご自身の作品の中で、特に印象に残っている絵はありますか?と聞くと、草太さんはラッコのリロの絵の話をしてくれた。
ラッコのリロは、福岡の水族館「マリンワールド海の中道」で飼育されていたラッコで、日本で飼育されている3頭のラッコのうち、唯一のオスのラッコだった。リロが大好きな草太さんは、足繁く通ってはリロの写真を撮り、家に帰ってはリロの絵を描いていた。ところが2025年1月、17歳という天寿を全うし、リロはこの世から姿を消してしまった。草太さんは悲しんで、たくさん泣いた。いちばん気に入っているリロの絵は、ラッコプールの前に設けられた献花台にお供えすることにした。リロはもうこの世にいないけれど、草太さんが描いた絵の中のリロは、ずっとかわいいまま、ぷかぷかと水面に浮かんでいる。その絵はもう手元には残っていないけれど、草太さんにとっては永遠に特別な一枚だ。
[変わること、変わらないこと]
草太さんは現在、地元の大学の芸術学部に通いながら、シルクスクリーンや版画、立体作品、ビジュアルデザイン、イラストレーションなど、たくさんのことを学んでいる。新しい技術を習うと、さっそく家でも試してみる。アクリル絵の具で絵を描くことも増えてきた。ずっと続けてきた水彩画も変わらず大好きだけれど、新しい表現も楽しくて仕方がない。
いつのまにか、絵を描き始めてもうすぐ12年になる。周りからは「絵が大人っぽくなってきたね」「線や色使いが変わってきたね」という声をよくかけられる。12年も経てば画風が変わることは自然なことかもしれないけれど、草太さん自身は意識して描き方を変えたこともないし、自分のどこが変わったのかもピンときていないから、なんとも不思議な気持ちになる。自身の変化に対しては、いたって無自覚なのだ。
国内は沖縄から北海道まで、国外はアジア、アメリカ、ヨーロッパまで。小さな頃から、草太さんは家族と一緒にたくさんの旅を重ねてきた。アート的な視点から特に魅了された国はスウェーデン。ストックホルムの街並みの色使い、海に白鳥が浮かんでいる様子など、心に残る風景にたくさん出会った。青森の十和田市現代美術館も強く印象に残っているという。それでも、「旅先で見たもの、聞いたものから創作活動が影響を受けたことはありますか?」と聞くと、「特にないと思います」と答える。
たくさんの場所に行って、たくさんのものを見る。たくさんの技法を学び、それを使って新しい絵を描き続ける。時を経て、年齢を重ねる。それでも、草太さんの絵は、草太さんにとってはいつも通り、今まで通りだ。草太さんは今日も淡々と、飄々と、自分が好きなものを描き続ける。
変わることと変わらないことの間には、いったい何があるのだろう? よくわからないまま、草太さんは今日も筆を持つ。
[愛して、見つめる]
草太さんの線は、やさしくゆらぐ。草太さんの色は、穏やかに調和する。草太さんは、自分が見たもの、好きなもの、かわいいと思ったものだけを見つめて描く。そのまなざしは、真剣で、切実で、あまりにもまっすぐだ。草太さんの絵を見ていると、自分の中の硬い部分がだんだんと柔らかくほぐれていくような心地よさを覚える。その穏やかな心地よさは、見る人の毎日をやさしく支えてくれる。
「画家は自分のすきなもの、愛しているものをよく絵に描くんです。
愛しているところに美があるからなんです。
愛情と美は はなれることができません。」
と言ったのは、画家の猪熊弦一郎だ。私は草太さんの絵を目にするたび、いつもこの言葉を思いだす。草太さんの絵の素直さ、明るさ、楽しさ、瑞々しさ、ほのかなユーモア。そのすべてが、草太さんの愛情にしっかりと紐づいているのを感じる。私の家の猫たちも、たとえ一度も会ったことがなくても、写真を通して確かに草太さんに愛されたのだと思う。だから、いただいたあの絵はあんなに美しくて愛らしいのだと思う。草太さんの絵は、本当にかわいくて、本当にやさしい。
[芽吹きつつある]
2025年8月、SISON GALLERyで行う個展のタイトルは、“Budding”に決めた。「芽吹きつつある」という言葉の中に、比喩的に「新進の」という意味も含まれる、たくさんの引き出しを持つ言葉だ。前回の福岡での個展のタイトル“Seeding(種まき)”から続いているタイトルでもあり、草太さんの中で少しずつ何か新しいものが育ちつつある様子が窺える。
額装された水彩画や、キャンバスに描かれたアクリル画のほか、小さなサイズの水彩画は150点ほど並ぶという。毎日描き溜めてきた草太さんの作品がSISON GALLERyいっぱいに芽吹くさまはいったいどんな光景になるのか。想像するだけで心が躍る。
「もし絵を買ってくれる人がいたなら、ぜひ家の玄関に飾ってもらえたらいいなと思います。毎朝、家を出る前に僕の絵を見て、今日も一日元気で頑張ろうって思ってもらえたら、とても嬉しいです」
text by Sakura Komiyama
Twilight, Midnight, till Dawn KARIN 残照、真夜中、夜明けまで。 花梨/コラージュアーティスト、モデル、俳優
<夜の時間>
「夜をテーマにしようと思いながら、今、作品を作っています」
新緑の頃、シソンギャラリーの庭に春の光が注ぐ中、今回の個展のテーマはどんなものですか?と訊ねると、花梨さんは、彼女が書いている途中の絵本か短編小説のストーリーの一部を物語るように、話を聞かせてくれた。
「たとえば、『よあけ』という絵本は、今回の夜のイメージにしようと思ったときに、最初に思い浮かんだ本です。いつもふと開いて読む、手に取って見る本のひとつですが、もともと私が幼い頃に、母が読み聞かせてくれていた絵本のひとつです。読み聞かせてくれた絵本はすべて私の一部になり、私の記憶の情景となっているので、自分の絵や作品に影響します。そういう大好きな絵本も、参考にしています」
ユリー・シュルヴィッツの『よあけ』。まわりを山に囲まれた湖。鳥がさえずる前の、夜の終わりの静かな時間。木の小舟に孫を乗せ、祖父はオールを漕ぐ。やがて辺りには薄明かりがさし始め、水面に靄が立ち、カエルが水に飛び込む音が響く。刻々と変わっていく夜明けの風景が、ページを繰るごとに描かれる絵本の古典だ。
「夜といっても、いろんな色がありますよね。たとえば日暮れの後の濃い青も夜だし、新月の夜の濃い闇の夜もある。『よあけ』に描かれている、朝に向かって次第に明るくなっていく空の色も夜の一部。夜にはいろんな色彩がある。日暮れから翌朝まで、夜のグラデーションは刻一刻と変わっていく。夜は私にとってファンタジーの時間でもあるんです。夜は、どこか別の世界に繋がっているような気がするから」
「日が暮れた直後の時間を、残照(ざんしょう)と言いますよね。いなくなった太陽が残していった青の色が、まだ空にある時間。ちょっとグレーがかったブルーの空。太陽は地平線の向こうにすっかり落ちて、だんだん暗くなるんだけれど、西の空にはまだ光が残っている。反対側の東の空からゆっくり夜が降りてくる。東の空は、濃いピンク色から淡いブルーに、やがて濃い青に変わっていく。そんな時間の空の色がすごく好きです」
「残照の時間は、人間の世界と魔界との、境界の時間のようにも思えます。完全に夜になって、辺りが真っ暗になると、魔の力は最大になる。やがて朝が近づいてきて、明るくなってくると、魔界の力は弱まり、人間の力がまた戻ってくる。まだきちんと文字にはできていないんですが、そういう夜の物語が私の中にはあって、今回それを作品にしています」
「月の光を準備している人の話とか、月の光の雫を拾う話とか。創作するときは、自分の中にある言葉と一緒に絵を作っていく感じです」
これが、花梨さんがこの春に聞かせてくれた話。それから二ヶ月ほど経ち、今は初夏。シソンギャラリーでもうすぐ花梨さんの個展が始まる。
<コラージュアートとの出会い>
花梨さんの両親はデザイナーで、祖父は現代アートのコレクター、祖母も絵が好きな女性だったという。
「まわりに、芸術好きな人が大勢いました。親戚が集まると、みんなでアートの話をしたり、一緒に絵を描くなんてこともありました。だから私も、小さい頃から絵を描くのが好きでした」
「父の仕事の関係で、父と母はドイツに住んでいたんですが、母はそこでシュタイナー教育と出会ったんですね。日本に戻って私が通ったのがシュタイナーの幼稚園で、そこで自由にいろんな絵を描く楽しみを知ったと思います」
「私の家は、テレビ禁止でした。両親が買ってくれた絵の具とスケッチブック、絵本と児童文学の本、積み木や木製のオモチャが、子供の頃の遊び相手でした。外で遊ぶのも大好きで、木登りしたり、公園を駆け回っていました。外で触れる樹木や草花、目にする鳥や動物と、絵本の中の世界が合わさって、ファンタジーの世界に生きていました。この世界には妖精や魔女が本当にいると信じていましたから。今もそう思っていますけれど。私はとにかく好奇心旺盛だったので、(家で観ていない)テレビ番組の話題にも、なんとかついていっていたように思います」
「中学生くらいのときには美大に行きたいなって考え始めていました。高校生のとき、授業で出された課題のひとつがコラージュでした。私は、フィリップ・K・ディックの有名なSF小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』をテーマに作品を作ったんですが、それを先生がすごく褒めてくれた。コラージュ自体は以前から、中学生の頃からやっていましたが、褒められたことで背中を押されたような気がします。自分の絵と、すでにある写真や他の絵などと組み合わせ、ひとつの別の世界を生み出すコラージュという技法が、とても面白いと思いました。以来私はずっとコラージュアートを作り続けています」
<作品が生まれるとき>
「私がコラージュ作品を作るとき、まず描いてみようではなく、しっかり物語ソースと構図、ラフ画を作ってから着手します。今、即興性と計画性のバランスをどうするのがいいか、何が合っているか?をすごく考えていて、正解は、展示して絵を見ないと私もわからないという境地にいます」
「コラージュの面白みというのは、ミックスメディアであること。すでにあるものを違うものに置き換える、その物の概念を変えていくという面白い作業なのですが、そこで扱うメディアを考えすぎてしまっている時期があって、そのときはなかなかうまく作れませんでした。だから、(計画なく)どんどん衝動的に作っていく人に憧れます。私はすごく計画してから絵を描いていくので。アナログで素材を作り、デジタルに取り込み、調整し、アナログに戻る、という三段階を経て自分の作品にしていきます」
<好きなもの「旅」>
「休みが少しまとまってとれそうだな、とわかると、パッと旅に出ます。この前は、インドに行ってきました。
バラナシとジャイプール。親しいヘアメイクさんがインドへ行くと言っていて、同じタイミングで1週間だけですが、ポンッと空きができたんです。インドには憧れがあり、ずっと行きたかったし、最初に行くとき現地に詳しい友人と行けたらいいなと思っていました。だから、あ、今、インドに行こうって」
「私は、旅に出るとき、事前に計画をきちんと立てる方ではありません。計画を決めすぎない旅が好きというか。決めすぎると、それをしなくちゃいけないって考え始めて、それで疲れてしまうので」
「旅は、自分のインスピレーションの栄養になるものだと思います。旅をしているあいだは気づかなくても、家に帰ってきてから、その旅が自分の中に広がったり、心の深いところに響いたりすることもあります。旅とは、行く前、準備しているときに始まっているし、家に帰ってきた後の余韻も、旅の一部だと思います。その余韻が長く続くと嬉しい、楽しいですね」
「行きたいところはいつもたくさんあります。今は、北欧に行きたいし、クロアチア、ギリシャ、ジョージア、トルコ……。東と西が出会うところ、文化や歴史がミックスしている場所には、いつも心ひかれますね」
<好きなもの「大島弓子」>
「大島弓子は昔から大好きです。家ではテレビもマンガも禁止でしたが、大島弓子は母が好きで、家にありました。大島弓子のマンガに出てくる女の子になりたいという憧れがありましたね。大島弓子の、ときに詩的な、散文的な文章に、強い影響を受けていると思います。大島弓子の作品は、今でもよく手に取ります」
「好きな絵本はたくさん、影響を受けた絵本作家や画家は何人もいます。アトリエの壁にはマティスのポスターが貼ってあるし、たとえばエルサ・ベスコフの絵が大好きで、よく絵本を手に取って見ます。ベスコフはスウェーデンを代表する絵本作家、イラストレーターで、花や植物が擬人化された絵のタッチで知られています。彼女の絵の世界は、そのまま私が子供の頃から空想していたワールドなんです。自意識が芽生える頃からベスコフの絵本を見ていたので、現実の世界で樹や草、花を前にすると、それらがみんな自分と同じ感情を持っていて、今にもしゃべり出すような気がしていました。それは、実は今も変わりません」
<好きなもの「音楽」>
「音楽も、私にとってなくてはならないもののひとつ。前はライブにもよく行っていましたが、最近は行く回数が少し減っているかな。今よく聴いているのは、エレクトロニカ、激しくないテクノ、自然環境音を使ったアンビエントものとか。たとえば、LAの老舗レーベルが出した、Anna Roxanneのアルバムとか、よく聴いていますね」
<コラージュするライフ>
大島弓子の『バナナブレッドのプディング』、イシュトバン・バンニャイ『Zoom』、Anna Roxanneの、『Because of a Flower』、リコーのカメラGRⅢ、ピアス、サングラス、旅すること、妖精の存在を証明すること……。彼女が好きなことや気になることはほかにもたくさんある。
レコーダーに録音した花梨さんとの対話をあとから聞き返していると、まるで言葉と話のコラージュのように感じられる。いろんな話に飛び地して展開し、広がって、でもどれも関係し合っているし繋がっている、というか。花梨さんの(少なくとも今の)日々や人生は、コラージュライフのようだな、と思ったり。彼女の個展が、とても楽しみである。
text by Eiichi Imai
photography by Mariko Kobayashi
THE SOUND OF DISTANCE YOKO TAKAHASHI 高橋ヨーコ/写真家
<被写体との距離感>
高橋ヨーコさんに、今回のシソンギャラリーでの個展について話を聞くと、展示予定の写真は、1990年代から最近までの中からセレクトしたものだという。
「いくつかの場所のものたちです。いろんなところですね。場所や年代で選んだわけではなくて。しばらくの間、被写体との距離感について考えていたんです。写真の距離感というか。撮る私と被写体とのディスタンス。まったく違った時代に、違った場所で撮った写真を並べて見たときに、「あれ、距離感が同じ?」と感じることもあって。それで今回タイトルを、ザ・サウンド・オブ・ディスタンスとしたんです」
マサチューセッツ。自転車で隣町に行く時に撮ったもの
「背景も時も違うのに、同じ距離感で撮っているなって思う写真がたくさんあった。もちろん、距離感がまったく異なる写真もたくさんあります。一度距離感をテーマにした展示はやってみたいと思っていたので、今回そうしようと」
「音楽を聴く感じにちょっと似ているかも。たとえば、音をよく聴きたくて前の方に出ていったり、逆にちょっと離れたところで楽しみたい音楽もありますよね。同じ音楽でも、イヤフォンで聴くのと、運転する車の中で流しているのとでは、印象は違う。そのときの自分の気分も大いに関係するし。遠くで流れているのを聴ききたい気分のときもあれば、近くで音をたっぷり浴びたいときだってありますよね」
「たとえばバスターミナルを撮るとき。東欧の古いバスターミナルは、デザインも建築も独特なんです。すごく広くて大きい。白っぽい光。全容を撮ろうとしてどこか後ろに引いて撮る。一方、ベンチに座っている人にすごく引きつけられて、こっそり、ゆっくり近づいていく。撮るときの距離感がいろいろある」
トランスニストリア(沿ドニエステル共和国)
「昔、周りからよく、ヨーコは鼻で写真撮っているね、って言われていた。実際に、知らない場所でも知っている場所でも、どこかへ行くと、匂いをかいで、あっちに行ったらなんか面白そうなものがありそうだぞって、そんな具合に匂いをかぐようにして動いて撮っていた」
「戌年だからって言う人もいたけれど、とにかく鼻を利かせて写真を撮ることは多かったかも。今も旅先ではくんくんしますよ。とはいえ、基本的に臆病者なんで、あんまり被写体に接近はしないですけどね。そうっと近づいていって、聞き耳を立てて、もうちょっと大丈夫かな、みたいな感じ(笑)。だんだん精度は上がっている感じがします」
<家を出たい少女ヨーコ>
高橋ヨーコさんは、どんな子供だったのだろう。たとえば絵を描く、何かを作る、というようなことが好きな子供だったのか。あるいは外で遊ぶのが好きだったのか。そのような質問をすると、ヨーコさんは、ちっちゃい頃からずっと「一刻も早く家を出たいと思っていた」と言った。ちっちゃい頃から? 「そう、4歳か5歳くらいのときには家をどうやって出るか考えていましたね。早く一人になりたいと思っていたので」
「父は研究者でした。生まれる前まで、両親と兄はアメリカに暮らしていたんです。母は一度日本に帰ってきて自分を産み、今度はドイツに引っ越すという話でしたが、急きょ別の仕事先が見つかったらしく京都に住むということになった。だから京都でずっと育つわけですが、とにかく家を出たくてたまらなかった。早く一人暮らしをしたい。厳格な両親だから、子供には家の居心地が良くなかったんでしょうね。だから親に内緒で神奈川の大学を受験して合格した。最初は、そんなところ絶対行かせない、って両親からは強く言われましたが、最終的には折れてくれました。それ以来、けっこう引っ越しの多い人生になりましたね。サイトとかで不動産や物件を見るのが大好きなので。笑」
<旅の話、その1>
高橋ヨーコさんは、2010年から10年近く、アメリカに暮らしていた。北カリフォルニアのバークレー、マサチューセッツ州の大西洋に突き出た小さな半島の先っぽの港町、そしてサンフランシスコ。
「一度、海外に暮らしてみたいという気持ちがありました。自分のことを知っている人が誰もいない街に。撮影で西海岸には何度も行っていたけれど、LAはクルマ社会だから、ちょっと違うかなと思っていたら、知り合いから、バークレーはいいサイズのタウンだよって聞いて」
アメリカ中を旅している時にいろんなところで撮った愛車のブロンコ
「アメリカに暮らしているときは、たくさん旅していましたね。ちょっと休みができれば、車で1週間、2週間とか走るんです。気に入った中古車を買って、メンテしながら乗っていて、素晴らしいその相棒は、最終的に日本に連れて帰ってきて、今も一緒です。アメリカ中を何百キロ、数千キロ、という感じで移動しましたね。アメリカにいるときが一番よく旅していたかも。南部、北部、真ん中、東部、全州は走破していないかもしれないけれど、それに近い感じだと思います。車に撮影機材と、寝袋とかキャンプ道具一式を積んで」
「バークレーからサンフランシスコに引っ越して間もない頃に、たまたま仕事で一緒になったフードスタイリストのようなことをやっている人から、アフリカに一緒に行かないか?って訊かれたときがあって」
「彼女は、マリ共和国に小学校を建てるためのNPO活動をしていた。あるときそのNPOに寄付をしたんです。そうしたら、一緒に来ないかって。100%ボランティアです、渡航費から何もかもすべて自分持ち。おまけに事前に注射を何本も打たなくちゃいけない。それで、いろんな教科書、古書、まだ使える文房具とか、持てるだけ持って行った。彼女からは、自由にしていていいけど写真は撮って欲しい、と言われた。村には幼い子供が大勢いるんですが、親のいない子供も多く、彼らの記憶になるよう写真をたくさん撮って欲しいと。こういう誘いがあると、すぐ「行く!」って言っちゃんですよ。せっかく誘ってくれたのだから、まずは行ってみようと。いつもだいたい、あまり細かく考えずに行動しちゃいますね。すごく遠かったですけど」
<旅の話、その2>
アフリカのマリの小学校にて
「そのボランティアで行ったマリ共和国で、あるアメリカ人と知り合ったんです。彼女はそのときちょうど、ハウスメイトを探していて。場所が、マサチューセッツ州のかなり端っこの方にある家で、期間は半年くらい。端っことか大好きなんですよ。それで3秒後には「ハウスメイトやります!」って手を上げていた。実はサンフランシスコの家を借りたばかりだったけれど、まぁでもサブレットに出せばいいかって思って。これもほとんどその場の思いつき(笑)」
「それで、アフリカからカリフォルニアへ戻り、車に撮影機材、プリンター、半年くらいの生活のものあれこれ、自転車などを全部積んで、西から東へアメリカを横断しました。このときの移動がけっこう楽しかったですね。あえて1日5〜6時間しか走らないと決めて、かなりゆっくり時間をかけて東海岸へ向かったんです。たくさん寄り道しました。ネブラスカの方に古いデイリークィーンがあると知って、店の写真を撮るためだけにその町に寄ったりとか。あちこち寄り道して、遠回りしながら東海岸へ向かいました」
旅を共にした車 ブロンコ
「ハウスメイトの家は、マサチューセッツ州の小さな半島で、ケープコッドというところにありました。アメリカのニューカラーの大御所写真家ジョエル・マイヤーウィッツの有名な写真集『CAPE LIGHT』の舞台になっているリゾートタウンです。マイヤーウィッツは今もその辺りに住んでいるらしくて。ただ、その写真集とそこへ行ったのは無関係で、それは後から知ったくらいで。地図を開いて見るとわかりますが、ほんとうに端っこにあるスモールタウンなんです。目抜き通り一本くらいの。西の果てとか東の果てとか、そういう場所にひかれるんですよね。半年間くらいいましたが、居心地がすごく良かった。本当に気持ちのいい日々でした。今回の写真展にも2点、そこで撮影した写真があります。本当に気持ちのいいところで、夢のような時間を過ごしました。そこを旅立つ日はちょっぴり悲しくなったのを覚えています」
マサチューセッツのcape codで暮らしていた家の母屋
<旅の話、その3>
「旅が好きというより、撮りたいからそこへ行くんだと思います。あるいは、撮りたくなるものに出会いたいから出発する、というか。自分が見慣れていない風景、初めて見る景色とか、実際に自分の足で行ってみないと真実はわからないですよね。でも、撮影しなければ行くことはないと思うから、やはり撮るための旅なんだろうなと思います」
「旧ソビエトの国や共産圏を旅して撮影するようになったのは、最初、ずっと鉄のカーテンで見ることができなかったものを見せてもらえると思ったから。その旅は、過去をのぞき見しているような感覚もあって、面白くて。私はバス・ターミナルとか、駅とか大好きなんですが、旧共産圏のそういった場所には独特の光、色、気配があって、撮影がとても楽しかった。そういった場所への撮影の旅は今も続いています」
「基本ひとり旅で、現地のバスや列車など公共交通機関に乗って移動して、あとはひたすら歩き回って、撮る。パブリックの乗り物が大好きなんですよ。観光はしないし、美味しいものを特に食べるわけでもなく、カメラを持って、鼻をクンクンさせて、徒歩で移動しながら人や町を観察する。そして、撮る。カメラを持っていなかったら旅をしないとまでは言えないけれど、でも、カメラを持たずに旅をするのは想像できないです。ある意味で、撮りたいものに出会いたいから仕方なく旅をしているというか。まぁでも、旅はやめないでしょうね、これからも」
アトリエにて
今回の写真展は、過去30年間くらいにヨーコさんが旅した場所の写真たちだ。個展のため、膨大な写真をふり返ったと思うが、過去に自分が撮った写真を見ていて、懐かしく感じたりするのだろうか。
「懐かしむというより、もう一度旅をしている気持ちになりますね。昔は暗室でプリントしながら、今はテストプリントした写真で仕事部屋の壁を埋め尽くして、それらの写真を見ながら、そうやって何度も旅ができるっていいなと思います。昔の写真を見て選びながら、そのときの場所、時間をもう一度旅している感じ。いろんなことを思い出すし、昔撮った写真をふり返るのは楽しい時間です。懐かしさより、また旅をしている気持ちになっている」
text by Eiichi Imai
photography by Yoko Takahashi
PAINTNG IN HIDEAWAY KIYO MATSUMOTO 隠れ家のようなフィンランドの森で。 松本妃代/fairytale painter、俳優
<フィンランドの森で、living like a local>
松本妃代さんは、昨年(2024年)の9月から3か月ほど、北欧フィンランドに滞在していた。3か月というと、1年の4分の1だから、けっこう長い期間だ。拠点はずっと同じだったそうなので、それは旅行というよりも、短く「住む」という感じだろうか。
フィンランドは美しいところだ。「森と湖の国」と呼ばれ、ムーミンやスナフキンがいる。アキ・カウリスマキもいる。サンタクロースの故郷があり(ロヴァニエミ)、サウナを愛する人々が暮らしている。コーヒーとシナモンロールがとっても美味しくて、人々は野営と焚き火を日常的に楽しみ、アルヴァとアイノのアアルト夫妻など、個性あふれる建築やデザインがある。
とはいえ松本妃代さんは、観光を目的に訪れていたわけではない。3か月間、living like a local、そこに暮らすように滞在し、絵を描いていた。首都ヘルシンキから北へ2時間ほど列車で行った、湖畔の森の一軒家で。
「最初、スウェーデンに行こうかなと思っていたんですが、滞在する部屋を探していたらピンとくる場所がなくて。フィンランドで探してみたら、すぐにいい家が見つかったんです。本当に何もない田舎ですが、湖のすぐそばの家」
「3か月だから、住むところがとても大切。部屋の居心地はもちろん、眺め、キッチンがあるか、周囲の環境はどうか。近くに水辺があるといいなとか。今回、気持ちのいい場所が見つかってよかったです」
<外へ向かう夏の北欧、内省的な秋の北欧>
フィンランド、スウェーデン、ノルウェイ、デンマークという、北欧4か国には、「二つの季節がある」と言われる(つまり、季節が二つしかない、という意味だ)。短い夏と、長い冬の二つ。夏至をピークにしたおよそ2か月が夏で、残りの10か月は冬。北欧の人たちは微笑みながら自虐的に、「わずかな夏と、あとはずっと冬なんだ」などと言う。
夏至の頃、北極圏は白夜となり、ヘルシンキでも夜遅くまで明るい。午後11時を回ってからやっと日没、午前1時を過ぎるともう白んでくる。6月、7月、北欧の人々は短い夏をとことん楽しむ。森や湖畔のサマーハウスで過ごし、夜遅くまで外で活動する。寝不足なんて気にしない。
でも今回、松本さんは9月からの滞在だったから、季節は冬へと向かっている頃。滞在中の写真を見せてもらうと、樹木の葉は紅葉している。11月に入ってからの写真には、地面に少し雪が積もっている。彼女が暮らした森には、北の冬が駆け足で近づいていたようだ。
「前、デンマークに行ったときが初めての北欧だったのですが、春から夏にかけての滞在だったので、光がたっぷりで明るくて、人々は陽気で、居心地がいいなと思いました。夜は9時、10時まで明るくて。夜にハイキングしている人たちもいました」
「ところが今回フィンランドは、9月、10月、11月と、どんどん暗い時間が増えていって、同じ北欧でも時期によってこんなに違うのかとびっくり。夏とは、雰囲気がまったく違いました」
「滞在を始めた9月はまだちょっと夏の名残があったのですが、10月が過ぎて、11月に入る頃には気温がぐっと下がり、昼間の時間がいっきに短くなって。朝起きてすぐは真っ暗だから、まずテーブルのロウソクに火を灯す感じ」
「だから今回は、寒さと暗さを体験して、おまけに街から離れた森の家で辺りには人がほとんどいないから、なんていうか修行のようでした。夏の北欧とはぜんぜんムードが違ったけれど、でも、森と湖のすぐそばで、静かだから、より自分に向き合えたと思います。それはすごく良いことだったかな」
<苔むした森、生きものたちの気配>
森、湖が見える窓辺のテーブルに、紙やスケッチブック、絵の具を広げている写真がある。ああこの絵は、この場所で、この景色と空気の中で描かれたのかと、思わず見入ってしまう。今回シソンギャラリーに展示される絵のどれが、フィンランドの森の家で描かれたものだろう。
「冬に向かって曇りの日が多くなり、朝からなんとなく暗い感じの日が増えていき、もともと静かな場所なんだけれど、静けさの密度がどんどん濃くなっていく。でもそこで絵を描き始めると、自分の中に別の意識が流れ始めるというか。日本で描いているのとはぜんぜん違うものが生まれました。目の前にある自然を、いつもとは違った視点で見ている、外側から眺めるのではなく向き合っているという感じがあって……フィンランドに行って、短く暮らして、よかったです」
「私は、フェアリーテイルペインターとして絵を描いていて、絵にはいろんな生きものが出てくるんですが、フィンランドの森を歩いていると、生きものたちの気配を感じました。目に見えている生きものだけじゃないんですよね。姿は見えないんだけれど、いる。気配がある」
「森の中に、苔に覆われている場所があるんです。岩も地面も苔がびっしり。ふかふかの苔の森という感じです。その景色を見たとき、苔がトロール(森の生きもの、妖精)みたいに見えたり。熊は見ませんでしたが、でも、森にいると、冬眠の準備をしている動物たちの動きというか、気配のようなものを、姿は見えなくても感じました」
「そういう気配を感じていると、生きものの存在が、自分の中に入ってきて、気がつくとそれが絵になっていました。姿は見えなくても、自分の中にインスピレーションが通ってくるというか」
<始まりの絵、動物たちの絵>
「小さい頃から絵を描くのは好きでした。でも、その頃は、絵の具を使って描くとかはなかったです。本格的に描き始めたのは、20歳くらいの頃かな。けっこう大人になってからですね」
「子供の頃は、どちらかと言えばインドアというか。でもダンスは好きでしたね。何かに絵を描いたり、本を読んだりするのが好きな子供だったと思います。絵本が大好きでした。父が仕事の関係でよく外国に行っていて、いつも絵本をお土産に買ってきてくれたんです。絵本から絵というものがインプットされたんだと思います。子供の頃に開いた絵本の世界が、フェアリーテイルな絵を描いている今の自分に繋がっているのかもしれません」
「兵庫県で生まれ育って、大学で横浜に移りました。役者の仕事もその頃に始めて。20歳前後の頃って誰でもそうかもしれませんが、自分って何だろう? 自分の個性ってどんなことだろう?って考えたりしますよね。役者を始めて、役と向き合ったときに、『私は自分のことを知らなすぎる』と思ったんです。だから、自分を知るためにいろんなことにチャレンジしようって思って、何が得意なのかわからないけれど、そのとき始めたことのひとつが、絵だったんです」
最初の頃に描いた絵、覚えていますか。
「実はよく覚えています。そのとき落ち込んでいて。自分に自信がぜんぜんなかったし、たぶんいろいろ苦戦していたときでした。役者の仕事もそうだし、学校にも馴染めない。自分には何ができるんだろう?って悩みながら描いた絵だから、すごく暗い絵なんですけれど、でもその分、生々しさがあって。技術はまったくないけれど、勢いがある絵。私は、そのときに描いた自分の絵、すごく好きです。誰に習ったわけでもないから、絵の具の使い方とかも自己流だし、でも、その絵のこと、勢いのこと、よく覚えていますね」
「日記みたいに絵を描いていました。毎日のように描いていたというか。そうやって3年くらい経った頃、絵がけっこうたまってきていて、知り合いに見せたら、これ展示した方がいいよ、って言われたんです」
「その頃は、今よりもっとリアルな感じで動物の絵を描いていました。写実的だけど、色はぜんぜんリアルじゃなくて、実際とはまったく異なった色で描いていました。表現したい根っこの部分は昔も今も変わらないと思うんですが、表現方法が変わったんですね」
「動物は、好きだということもあるけれど、もともと『自分の中にあるもの』なんです。たとえば熊、ヘラジカとか、自分の中にいる。そんな心の中にいる生きものたちの存在が私を安心させてくれていて。私にとっては守り神のような存在なのかもしれません」
「フィンランドの森で、すごく大きなシカの死骸を見ました。滞在していた家の飼い犬と一緒に歩いていたんですが、その犬が突然走っていって、ついていったら、そこに大きな死骸があった。怖い感じはまったくなかったですね。なんだろう、やっぱり、生命(いのち)ですよね。生命は、こうやって土に還っていくんだな、その土からまた草が生えて花が咲くんだなって。循環しているんだって思いました」
「ずっと描いている絵は、自分の中から出てくるものがほとんどです。だからそのインスピレーションをできるだけ素直に表現したいと思っています。すべて私に入って、私を通って出てくるものたちなんです」
<Hideaway、隠れ家のような場所で生まれた絵>
フィンランドの湖の水温は低い。真夏でも、とても冷たい。フィランドを旅していると、湖畔には必ずサウナ小屋があり、小屋の煙突から煙が出ていればそれは、「サウナが始まるよ」という合図だ。フィンランドを旅しているとき、サウナ小屋の番人からこう言われたことがある。「人はサウナ小屋で生まれ、サウナ小屋で親子の時間を過ごし、サウナ小屋で初体験をし、サウナ小屋で出産する。サウナ小屋で秘密を打ち明け、サウナ小屋で泣く。そうしていつか、サウナ小屋で死ねれば最高だ」。フィンランド人にとってサウナ小屋とは、礎であり原始。そしてサウナ小屋のそばには冷たい水の湖がある。
松本妃代さんが、フィンランドの冷たい湖で泳いでいる写真がある。フィンランド人は、湖で泳ぐことも愛している。松本さんは、フィンランドの人たちの気持ちになっただろうか(きっと、かなり冷たかっただろうと思うけれど)。
一軒家の部屋に暮らし、日に日に弱まっていく光を集め、日ごと強まっていく夜の力を感じながら、窓辺のテーブルに道具を広げて絵を描いていた。キッチンで料理をしてひとりで食べる。その部屋の時間があり、あとは、森の小径を歩いて、ときには道から外れて苔の絨毯の上を歩き、湖に出て、湖畔に佇む。そうやって、非日常の旅の中に、自分だけの日常ができあがっていく。その中で作品作りをする。自分に向き合いながら。自分の中からわき出てくる「何か」をつかもうとする。
「3か月、海外にいたと言うと、びっくりする人もいるんですが、自分をいったん無の状態に戻すのって、私は1週間ではできないんですよね。1か月でもまだ足りない。知らない場所で、その日その日、直感的にこれをしたい、あれをやりたい、というのを、突き詰めてみたかったんです。3か月そういう暮らしを、知らない土地で、森の中でやったら、自分はどうなるのかなっていうことに興味がありました。ほとんど人に会わず、森と湖と絵を描くことに向き合う。静かでクローズドな環境でそうやって3か月過ごしたら、どこまで変化できるのか、という実験でもありました」
「3か月いましたが、部屋に自分のものは一切ないんですよ。ほんとにスーツケースに入っていたものしかない。だから、ただ箱の中にポツンって入れられたみたいな、世界の果てに落とされたみたいな気持ちになる瞬間が何回かあって、怖いって、こういう感じなのかなって思ったりもしました」
「誰とも言葉を交わさない、ひと言も喋らない日もたくさんありました。そうすると、面白いのが、人間って喋ることでアウトプットをしていると思うんですけど、私は一人っきりでぜんぜん喋らないから、じゃあ何かでアウトプットしようと思って、それで絵を描き始めるんです。するとそこに全部アウトプットが集中しているから、なんか、作品がとっても濃くなるっていうか、濃度が高いものになる感じがあって……。それが面白いなって思いました。北欧に行って、絵の雰囲気が変わったし、あの北の森で、自分の中にある世界がより鮮明になった感覚がありますね」
「北欧にいるときに、Hideawayっていう言葉がずっと頭の中にあったんです。隠れ家、というのかな。Hideawayというのが、次の自分の展示のテーマなのかもしれない、何となくそう思いました」
text by Eiichi Imai
THE JOY OF CREATING KUMI KOSUGE 祖母の家で育んだ、心躍らせるもの作り。 小菅くみ/アーティスト、刺繍作家
餃子/ハピネス/三日三晩
画家が絵を描くのも、作家が小説を書くのも、それはきっと孤独な作業だろう。ひとりキャンバスに向かって描く、ひとりラップトップに向かって書く(あるいは原稿用紙に万年筆で)。「作品」とは、一人きりの創作活動から生まれてくる。
刺繍もまた、とても孤独な作業だろう。布の上に刺繍針を刺し、無数の刺繍糸を通して装飾していく。一人きりの時間だ。
孤独という言葉から人は、「寂しさ」や「厳しさ」を連想するものだが、小菅くみさんの刺繍作品から、そのようなことは感じない。小菅さんの作品を見た人たちが抱くのはきっと、「楽しさ」「喜び」「温かさ」。
楕円形の皿に乗った餃子はとてもおいしそうだし(瓶ビールと小さなグラスがほしくなる)、かぼすと大根おろしが添えられた秋刀魚の塩焼きからは、湯気と香りが立ち上がってきそうで思わずウキウキしてしまう。大谷翔平もマイケル・ジャクソンも笑顔を浮かべている。
小菅さんの作品には、総じて「ハピネス」や「スマイル」があるのだ。
「テーマによって違いますが、人なら、いつも楽しそうなところを描こうと思います」と小菅くみさんは語る。「写真を見ながら下絵を描くことが多いですが、笑っていない顔の写真をベースにしていても、私の作品ではその人の口角を少し上げたりします。笑顔を描きたい、ハッピーでありたいというか。私の作品を見てくれた人が楽しい気持ち、嬉しい気持ちになってほしいと思うので」
「小さい頃から、おばあちゃんと料理をしていて、いつもおいしく食べていました。食べることも、自分で料理することも、どちらも大好きです。自分にとっての理想の餃子が頭の中にあるんだと思います。一応写真を見るけど、自分が食べて美味しかったときの味や匂い、熱々できたての皿の上の餃子とビールがある光景、みたいなのがあって、それを作品にしたかったんでしょうね。餃子もハンバーグも、食べたくなる作品に仕上げようと思って刺繍しました」
「孤独な作業ですか?と訊かれたら、はい、そうです、と答えます。今日もこの後、家に帰ったら作品作りします。夜派なんです。夜は、電話もかかってこないし、静かだし、集中できるので。昼間ガーッとやって、夜はきちんと寝る方が健康に良いのは知っていますが、三日三晩、というのが自分のペースなんです」
小菅さんが言う「三日三晩」とは、とりあえず三日間、根を詰めて刺繍をして(もちろん短く睡眠はとるし、ご飯も食べるし、猫の世話もする)、四日目に一度作業から離れ、小菅さんいわく「大きく寝て」、そして翌日から再び三日三晩、創作に集中するということ。今回シソン・ギャラリーに展示される作品たちは、そんな数多の三日三晩を経て生まれてきたものたち、ということになる。
「自分がノっているときは、休まず延々やっていたい方なんです。終わりが見えてくると、もう勢いを止めずに続けますね。間を置くともっと良くなるという人もいるけれど、休むとサボり癖がつきそうで怖いんです。あと、私、暇な時間があるのが苦手で(笑)。常に何かやっていたい人なんです。だから移動中もチクチク(刺繍のこと)やっています」
小菅さんは、たとえば列車やバスでの移動中も「チクチクやっている」という。「バスの方が、より時間がかかるから、列車じゃなくてバス移動を選ぶことも多いです。その分刺繍に没頭できるから」と小菅さんは言った。
「たとえば、京都へ行くときは、のぞみで二時間少しと決まっていますよね。飛行機で沖縄へ行くときは3時間くらい。その移動時間に合わせて本を選ぶ人がいるように、私はその時間に合わせた刺繍をします。でもこの前、羽田で飛行機に乗るとき、機内持ち込みバッグにハサミが3つ、針が何本も入っていて、止められて、あ!ってなりました。日本だったから結果的に大丈夫でしたが、海外の空港だったら危険人物と見なされて奥の部屋に連れていかれたかも(笑)」
もの作り/初めての刺繍/祖母の家
幼い頃、初めから刺繍をしていた、という人はあまりいないのではないか。誰でも最初は、裏紙とか、ノートの端っこに落書きし、絵を描き、マンガの好きなキャラクターを真似して描いたり、あるいは、新聞紙のような身近なもので何かを造形してみたり。小さな頃のそういう「遊び」が、多くの人にとって「アートとの出会い」「最初のもの作り」だろう。ほとんどの人はあるときそれをやめてしまうが、アーティストになる人はそれをずっと続けて大人になる。小菅くみさんの場合は、どうだったろうか。
「私は東京生まれ、東京育ちですが、宮城県仙台市に母方の祖母がいます。今も健在で、この11月に103歳になりました。祖母は去年も、東京のギャラリーに油絵作品を出展したり、日展に出したり、アマチュアですが創作活動が旺盛な女性です。祖母は手を使っていろんなことをする人でした。私はおばあちゃんが大好きで、幼い頃から、夏休み、冬休みと、いつも遊びに行っていて。今も行きます。東京生まれの私にとって、仙台のおばちゃんの家は故郷のようでもあり、いつもワクワクできる楽しい場所でした」
「私と祖母は、親戚の人に『おまえはおばあちゃんの生き写しだ』と言われるくらい仲良しで、絵はもちろん、粘土、切り絵、木彫り、全部おばあちゃんから教わったというか、おばあちゃんと一緒に『もの作り』をして遊んでいた、という感じでした。私が料理を好きになったのも、おばあちゃんが料理好きで、いつも台所で一緒にいたから。おばあちゃんの周りには常にもの作りがあって、私は何でも自然に好きになりました」
「絵を描くのは特に好きだったから、私はいつも何か描いていて、母親は、『くみは、ペンと紙があれば、何時間でも大人しくしているから、楽だったわ』と言っていましたね。幼稚園の頃は、見たものを描いていたと思います。鳥とか、花とか、何でも。その後マンガに夢中になったので、キャラクターの模写をしたり。ずっと動物の絵は描いていました。今も動物は好きだから、刺繍でもいろんな動物をモチーフにしています」
「最初の刺繍のことをよく覚えています。ちっちゃな私がおばあちゃんの隣に座っている。おばあちゃんはたぶん粘土をやっていて、私はその横で、家にあった布の切れ端にチクチク(刺繍)やっている。おばあちゃんの家にウサギのマスコットがあって、それを刺繍している。できあがったとき、おばあちゃんにそれをあげたんです。すると大喜びして、すっごい褒めてくれて、『これ、飾らなくちゃ!』と言ってくれたのが、とっても嬉しかった。このときの嬉しさ、喜びが、ずっと私の創作活動の根底にあるんです。『創ることは、いいこと』『何か創ると、人は喜んでくれる』『私が創ったものが人を笑顔にする』、その気づきを最初にくれたのが祖母でした。そしてそのときに抱いたハッピーな気持ちを、今も変わらず持っています」
遊び/ワクワクすること/心躍る刺繍
小さな小菅くみさんが、仙台の祖母の家にいて、おばあちゃんの横にちょこんと座って「遊んで」いる。その遊びとは、絵を描くこと、木を彫ること、粘土で造形すること、刺繍をすることである。それは幼い小菅さんにとって一番楽しいこと、幸せな時間でもあった。彼女が何かを仕上げると、おばあちゃんは必ず褒めてくれたし、わからないことがあれば教えてくれた。
昨今「民芸(民藝)」がブームだが、もともと民芸とは、生活の中で生まれてきた道具であり、装飾品である。そういう意味では、仙台の祖母の家で、おばあちゃんと幼い小菅さんがしていたもの作りも、ある種の民芸だと言えるのだろう(もの作りの精神として)。
昔の日本では、父親と母親が畑などで働いている間、祖父母が子供たちの面倒を見ていた。夜、囲炉裏のそばに家族が座り団らんがある。両親は縄を編んだり、来る次の季節のための準備にも忙しい。そんなとき、小さな子供が両親の作業の邪魔をしないよう、祖母や祖父が昔話を聞かせたのだ。だから言葉は隔世遺伝のように、おじいちゃんおばあちゃんから孫へと伝わり受け継がれてきた。民芸=もの作りの土台も、そこにある。
小菅くみさんもまた、おばあちゃんから「手で創ること」を教わってきた。小菅さんの刺繍作品には、たとえマイケル・ジャクソンやサッポロの赤星が刺繍されていたとしても、そこに「おばあちゃんとの幸せな時間」が流れているのだ。だから小菅さんの作品を見ると、人はハッピーになり、ほんわかした気持ちになり、笑顔が浮かぶ。
「毎回、個展を開くときは楽しくて仕方ないんです」と小菅さんは笑顔で言った。「ここに展示していいよって言ってくださるギャラリーの人たちと過ごす時間が楽しいし、どうやろうか、どう飾ろうかと話し合うのも嬉しい時間です。そしてついに展示が始まると、大勢の人たちが来てくれて、その皆さんが笑顔で作品を見てくれ、喜んでいるのを見るのが、私にはスゴく楽しい」
「おかしな言い方かもしれませんが、個展をやるときはいつも、『自分の生前葬』みたいだなと感じていて。だってみんなが私に会いに来てくれて、私が創ったものをじっくり見てくれるわけだから。楽しい生前葬がいいじゃないですか。みんな集まって楽しく過ごす時間、それが私にとっての個展です。私がワクワクしているから、来てくださる皆さんもワクワクしてほしい。来てよかった、楽しかったよ、って言ってもらえたら嬉しい。喜び、楽しさ、笑顔を持ち帰ってほしいから、そういう感情をギュッとまとめた感じにして、心が躍る展示にしたいなと思っています。今回のシソン・ギャラリーのテーマがそれなんです。自分の刺繍作品で、みんなの心を躍らせたい」
text by Eiichi Imai