Meet the Artist
めいめつ MICHI NAKANO 中野道/写真家、映像作家、音楽家
J・D・サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』の世界に憧れた少年は、アメリカ南部ノースカロライナ州で生まれ、長野県松本市で育った。小さなカメラで野山の虫を撮り、DJの真似をしてカセットテープにラジオ番組を吹き込んだ。小学校、中学校、高校と、なんとなく学校に馴染めない自分を感じてもいた。大学時代、アメリカの、全寮制の小さな学校に留学して人気者になり、役者として舞台に立った。学校は、バスでニューヨークまで行ける、そんな場所にあった。
かなり端折って書いてはいるが、これだけ読むとどこかホールデン・コールフィールドのようでもある。もちろん彼はドロップアウトしていないし、「まいったね(It kills me)」が口癖というわけではないけれど。
写真家、中野道さんに話を聞いた。
<松本、野山で遊ぶ少年>
「子供の頃、育った松本は自然がたっぷりで、虫を見たり採ったりするのが大好きでした。雑誌の付録で手に入れた、マクロレンズで撮れるピンホールカメラがあって、それを使って野山で虫を撮っていたんです。家の近くに川も山もありました。撮った写真でゾンビ映画のポスターを作ったり。学校新聞みたいなものを作っていて、そこに、ゾンビが出たぞ!というありもしないタイトルをつけて、大きく撮った虫の写真を載せて。妹と一緒にそんなものを作っていました」
「小さい頃から、もの作りというと大袈裟ですが、何か手作りするのが大好きでした。マンガも描いていたし、カセットテープのレコーダーを使って、妹とラジオ番組を作ったりもした。架空のDJで架空の世界の話を好きなように喋って。あと、テレビごっこも。今で言えば子供のYouTuberごっこですよね」
「ただ、小学校ではあまり馴染めていないというか。友だちがあまりできなくて、疎外感を感じたり、学校の先生とも全然ウマが合わなくて、いつも怒られてばっかりだった記憶があります。自分としては何で怒られるのか全くわからない」
「両親がアメリカに暮らしていたことがあったからか、家にはアメリカの映画(ビデオ)や音楽(レコード)、本なんかがいろいろあふれていました。そういうのを見て、自分は別のところから来た、ここじゃないところの人間だから馴染めなくて当然なんだって、自分の中で言い訳のように考えるというか、そう思って自分を慰めたりもしていました。日本で育っているのに、自分はアメリカ文化に属しているんだなんて勝手に想像していたんですね」
<アメリカ留学、サリンジャーの世界>
「大学に入って一人暮らしを始めると、だんだんと生活にも馴染んできて、楽しみも増えていきました。本が大好きだったので、文章を書いて、漠然と作家になる自分を想像したり。書く仕事、何か作ることをやれたらいいなと思い、でもいつか就活するのかなとか考えながら学校に通っていたら、アメリカ人のゼミの先生から、「推薦状書くからアメリカの学校へ行ってこい」と言われたんです。僕も留学してみたいという気持ちがあったし、先生と話しているうちに、行くぞっていう気持ちになってきて、それで親に相談しました」
「ちょっと恥ずかしい話なんですが、J・D・サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』という小説が大好きだったので、そこに出てくる、主人公のホールデン・コールフィールドが通っていた全寮制のプレップスクールに憧れがあり、そういう学校に行きたいと思って、探し始めたんです。結局ホールデンはその学校を退学になるんですが。僕もホールデンと同じような環境で過ごしてみたかった。結果、バスでニューヨークまで行けるところに、全校生徒が千人くらいの、小さな全寮制の学校を見つけました。かなりリベラルで、アートにも力を入れている学校で、多様性を推進していました」
「当時その学校で、LGBTQやマイノリティの人たちがちょっと持ち上げられているというか、人気があって。ちょうどアメリカではそういう時代になってきていたんですね。僕はアジア人で、その学校ではマイノリティだから、知らないうちに人気者になっていたんです。ランチタイムのカフェテリアでは、あちこちの席から、「ミッチー、こっちで一緒に食べようよ」って声がかかる。いろんな人たちが自分に興味を持って積極的に話しかけてくる。演劇のディレクターをやっていた人から、「今度この学校のシアターで舞台をやるから、出て欲しい」と言われて、初めて演技というものを体験しました」
「学校の演劇と言っても、アメリカではかなり本格的なものなんです。立派なシアターでお客さんを迎えて上演するんですね。そのためにポスターやパンフレットもきちんと作るんですが、それである日、役者のプロフィール写真や、シーンの写真を撮るようなことがあり、プロのカメラマンが撮影にやって来た。ちゃんと照明を作って、三脚を立てて撮っていく様子に、面白いなと思いました。僕も遊びで写真は撮っていたけれど、プロの世界はまったく違うことを知って、とても興味を持ちました。自分ももっと良い写真を撮りたいなって思ったり、やれば僕の方がうまく撮れるんだなんて生意気なことを考えていました。これが、自分の写真の原点というと大袈裟ですが、写真を強く意識するきっかけになった出来事でした」
<フィルムカメラ、川内倫子>
「日本に帰ってきたのが2011年。東日本大震災の年でした。松本の実家へ帰ったとき、父のフィルムカメラがあって、レンズは大丈夫だからそれで撮り始めたんです。ところが、撮影して現像してみると、フィルムがすべて少し感光している。どうやらどこか穴が空いているか、とにかくボディの方が壊れていた。ただ、その感光したせいでちょっと変わった感じに上がってきたプリントを僕は気に入ったんです。というか、その面白い感じの写真を見て、「俺は天才か」なんて思ったりして(笑)。その頃は吉祥寺の近くに住んでいたので、井の頭公園でよく撮っていました。池や樹木、葉っぱとか、子供の頃に見ていたのと同じようなものたちを撮っていましたね。考えてみれば、自分が撮りたいと思う対象、好きになるものが、変わっていないというか」
「同じ頃、アルバイトしていたのが、American Apparel社でした。社員やスタッフと経営層の人たちの距離がすごく近い会社でした。ちょうどタンブラーが出始めた頃で、僕は撮った写真をよくポストしていたんですが、社員の人がそれを見て「いいね」って反応してくれて。「うちでも撮ればいいじゃん」と言ってもらったり。たまたまアメリカ本社の社長が日本に来て話す機会があったとき、自分が写真を撮っていることを言うと、「会社のために撮ったらどうだ」と言ってくれたんです。おまけに、それに使うようにとデジタルカメラを買ってくれた。それで、American Apparelのために写真を撮るようになったんです。とてもクリエイティブな部分に力を入れている会社だったし、当時はコマーシャルフォトが写真業界の最先端でもあった。自分もその隅っこで仕事を始めていたわけです。気づくと僕も街で女の子に声をかけて撮影しなければいけない環境にいた。それが得意だったことはないし、その頃の写真はどうしようもないという気もします。けれど、貴重な体験にはなったと思うし、とにかくカメラを持ってたくさん撮っていましたね」
「その頃の自分にとって大きかったのは、川内倫子さんの写真との出会いでした。最初に見たのが『うたたね』です。川内さんの写真を見ていると、「これ、自分が経験したことなのかな」って思わされるというか。不思議ですが。それらは自分が見たものじゃない。川内さんの体験なのに、その写真を見ていると、自分の人生にも(その写真の世界が)存在していたんじゃないかと思わされた。一枚一枚、「この感覚、わかる」と思って見ている自分がいた。自分は絶対リアルには見ていないのに、自分が見ていたんだと感じてしまう。写真の中の動物とかに、「自分が触れたことがある」と思ってしまう。川内倫子さんの写真に、記憶が甦ってくるような感覚がありました」
「写真は、記録であり、記憶でもあると思うんです。川内さんが見た世界を「自分も知っている」と思ったということは、僕が撮った写真も、もしかしたら誰かの記憶と繋がっているのかもしれないと思います。そう考えると、写真はすごく面白い」
<祖父、映画>
「僕の祖父は、映写機を作る会社を営んでいました。僕が映画や写真を好きになったのは、祖父の影響が大きかったように思います。子供の頃は、祖父の仕事の関係で、家に映画館の招待券がたくさんあった。当時松本には良い単館映画館がいくつかあって、僕はよく観に行っていたんです」
「祖父の家には、壁一面ほどもある大きなテレビがあって、そこで一緒に映画を観たりしました。何を観たか覚えていないのですが、子供の頃から映画や写真のようなものに自然と触れられる環境にいたんだと思います。祖父は、僕が写真家として活動を始めた頃には亡くなっていました。もし祖父が今も生きていたら、僕が撮っている写真を見てなんて言うんだろう?と考えることがあります。当時の映画のことや、映写機を作っていた頃のことを、もっとあれこれ聞いてみたかったなぁと思います」
「僕の写真集『あかつき』には、病床の祖父の姿や、お葬式の様子、そして、誰もいなくなった祖父の家が何度も出てきます。写真集を作っていた当時は意識していなかったのですが、今ふり返ると、祖父の存在は大きくて、祖父の不在が自分の写真にかなり深く関わっているのかなと思います」
<切り取ること。記録と記憶>
「自分の人生にいろんな人たちが出たり入ったりしている。かつていて、今はいなくなった人のことを、「あの人どうしているかな?」って考えたりします。昔に戻りたいとは思わないけれど、もしもう一度あのときに会った人と会えたら素敵だろうなと思ったりもします。写真を見る行為とは、たとえばそんなことを考えたりすることでもあると思う」
「誰もが、写真を撮っているときは「何かを残したい」と思って撮っていますよね。その瞬間瞬間を切り取っているのが写真です。それはもしかしたら、もう戻れない時間の蓄積なのかなって思う。その時間はもう戻ってこない。だから写真は残っていても、もうそこには実在しない、失われている。だから写真は、記憶であるけれど、写真を撮る行為は、同時に「何かを失っていくこと」かもしれないとも思います。撮って、記録する。でも同じ瞬間に失われている」
「写真を見せると、多くの人が「どこで撮ったのか」「どんな状況だったのか」と、写っていない部分の話をしたがります。でも自分は、その写真に見えているものが答でいいと思っています。
シャッターを切る瞬間は、自分が主体になってある瞬間を選び取る。でも一度写真になれば、その中にもう自分はいない。だから僕は、写真について説明することで、切り取った外側をもう一度埋め戻さない方が良いとは思います。「実際にはこういう場所だった」「この時にこういう出来事があった」と説明すればするほど、写真は再び撮影した僕の経験へと回収されてしまう気がするから」
「写真が完成した後は、本来その残されたものが何であるかを決める権利は、もう撮影者だけのものではなく、それを見る人に委ねられるものでもあるし、撮った僕にとってもそれは同じです。撮影したときの自分と、数年後にその写真を見る自分は同じではないんです。その時の気分や経験によって、同じ写真の背景や意味が変わったり、更新されたりします。むしろそこが、写真の面白さかなと思う」
「本来、写真は記録のための媒体であるはずなのに、時間が経つにつれて、記録されていた事実を思い出させるだけではなく、その写真を起点にして新しい記憶まで作っていく。写真が記憶を保存するのではなく、写真によって記憶の方が作りかえられていくのは、すごく面白いと思います」
「その写真が、どのように見えるか、あるいはどんなふうに見るかは、全部見る人の自由だと思っています。写真展をやると、見てくれた方がいろんな意見を述べてくれる。それぞれ見方が違うし、見ているところも違う。それを聞くのはとても楽しいし、興味深いことです。どう見てもらってもよくて、見て何を思うかも自由。でも、撮っている僕の方は、自分が「好きだ」と言えるものを展示したい。僕はバンドもやっていますが、そこは音楽も写真も同じで、作品としては自分が好きなものばかりです。良い写真、良い音楽というのはないと僕は思っていて。僕にとっては、自分が好きかどうかが重要だし、それで良いと思います」
「本が、書かれなかったものの蓄積であるように、写真も、撮られなかった時間を表現していると思います。一枚の写真の上に記録が残っているけれど、記憶はその周りにも確かにあって、でもそれは写真には写っていない。窓の周縁にある風景と同じですね。その写真が撮られた瞬間の前後の時間もそう。そういう意味で写真もまた、残せなかったものの蓄積だと思うんです。その残せなかったもので、でも僕の記憶に残っているもの、過去に自分が過ごした友だちとの時間とか、そういうものを一度まとめてみたいと思っていました。展示する写真の周縁にも、窓の中以外のところにも、僕の記憶が確かにある。それは観に来てくれた人たちにも感じてもらえるんじゃないかと思います」
「僕にとって、今回の『めいめつ』は、自分の青春にさよならするようなものかなって思っています」
text by Eiichi Imai
photography by Michi Nakano, Ongo Cho (Live house)
名づけられるまえ KENTAROU TANAKA 田中健太郎/画家
<輪郭になる前/気配を描く>
田中健太郎さんの「名づけられるまえ」という個展のテーマに、心を小さく揺さぶられる。「何が」名づけられる前なのだろう? それとも、「名づけられる前」に何かが起きているのか? 自分もまた「名づけられる前の状態」があったのだろうか。わずか8つの文字に、俳句、短歌のように読み解く何かを探し求めてしまう。シソンギャラリーで田中さんの個展が始まって、今回の展示を見れば、そのテーマの意図がわかるだろうか。
個展が始まる前に作家から投げられた問いのように、そのテーマ(タイトル)についてあれこれと考える時間は楽しい。個展を前にワクワクさせられるし、期待感が高まっていく時間だ。田中健太郎さんという画家はそんなふうに、「始まる前に始まっている」というか、「始まる前に観る側の気持ちが高まる」希有な作家のひとりではないか、とも思う。
タイトルに添えられた短い文章を何度も読み返す。
まだ輪郭にならないものがある
昼と夜のあいだを漂いながら
名前を持つ前のまま息をしている
描いていると
そういう気配に触れる瞬間がある
名もなき生き物たちは
静かな時間の奥から現れ
また気配だけを残して還っていく
触れればほどけてしまいそうな感覚
移ろい続ける光や時間
その曖昧なままの姿を
できるだけ掴まえたかった
きっと個展が始まって絵を前にしたとき、田中健太郎さんが描いている「まだ輪郭にならないもの」「そういう気配」を、ひとつ一つの絵から感じるのだろう。
もうすぐ始まるそのときまで、画家・田中健太郎さんのいろんな言葉に耳を向けてみる。(滋賀県生まれの田中さんは、「思いっきり」自身の土地の言葉で語っているのだが、全文それを活かして書くと、なんだか妙なインタビュー記事になってしまうので、ほんの少しの部分を残して標準語で整えて書きます)
<絵の始まり/デザインとの出会い>
「親がアート好きとか、そういうものではまったくなかったですね。むしろアートから遠く離れた家に生まれ育ちました。でも僕が絵を好きなのを親も知っていたから、近所に絵画教室があって行かしてくれたんだと思います。でもそれで芸術の道に進むかというと、そんなこともなくて、高校では野球部に入って部活動に没頭していました」
「小さい頃から絵が好きで、大学のときプロのイラストレーションやグラフィックデザインの世界に触れて、自分もやりたい、こうなりたいと思ったんです。自分の作品作りに没頭し、描いた絵のファイルやスケッチブックを持って夜行バスに乗っては東京へ行って、いろんな人に会って、「見てください、これが自分の作品なんです!」ということをやっていました。描くチャンスが欲しい、展覧会もやりたい。とにかく夢中でしたね、自分を売り込むことに」
「作品の入ったファイルを持ち歩き、大御所さんの展示やイベントがあると、その会場に行って、声をかけて見てもらうんです。来ている人たちの中に影響力のある方がいる場合もあるから、そっちもどんどん声をかけて見てもらう。名刺をもらったら後日電話をかけて作品を持って行き見てもらう。たぶんその頃の僕は、誰よりもたくさん作品を作っていて、誰よりも動いていたと思いますね」
「とにかく自分の作品を見てもらいたかった。田中健太郎という存在を知ってもらいたかった。世界70億の人たちに自分の名前を知られたいって思っていましたから」
「名古屋造形芸術大学に進学して、絵を描いたりするのかなと思っていたんですが、先生たちは皆デザイナーやイラストレーターなんですよ。彼らが見せてくれるものが、タイポグラフィとか、ポスターとか、いわゆるグラフィックデザインなんですが、そんなもの知らんかったから、なんやかっこええな!って思っていましたね。ニューヨークから届いた葉書を見せられて、「この切手の貼り方とかスタンプの位置がデザインなんだぞ」って言われて、そんなふうに葉書を見ていることに驚かされたというか。そういう先生たちがかっこいいというか。自分にとって初めて出会う世界を開いてくれたんですよね。だから、大学では、これがイケてるんや、というものをまずは教えられた感じです」
<母親の言葉/煩悩を削っていく>
「アートって難しい、という人もいるし、僕も難しいと思うことがあるけれど、ずっと前に母親が、映画か何か観て、「なんか好かん」とか「良かった」とか素直に言っていたんです。母親のこの「好かん」という物言いをけっこう僕は信じているんですよね。批評家さんとか、美術の専門家の方が言うより、僕にはもっと響くというか。もちろん専門家の方にはその人の見方と言葉があるというのはわかっています。でも母親の「好かん」は、直感的に響きます。きっと誰にもそういう素直な「好かん」「良かった」というのがあると思うんですよね。今、母親に自分の絵を見せるということはないですけど、もし母親に「好かん」と言われたら、きっとその絵をもう一度自分で見れば、なるほどそうか、ってなったり、やっぱりな、と思ったりするかもしれませんね」
「もともとちっちゃい頃、お絵描き教室で好きなことやっていて、その延長で今は画家として仕事をしている。僕がやっていることって実は子供の頃から変わっていなくて、とにかく「魂ぶつけろ」みたいなことだったりするんです。個展でも、その「魂ぶつける」ところまで行くのにまずえらい時間がかかります。いろいろ思ったり、悩んだり、試してはやめて、みたいな時間がめっちゃある。今回も2月くらいだったか、「ぜんぜん描けへん」というときがあったので。僕は個展を開くときには、基本すべて新作でやりたい。そうするとゼロから始まるわけです。もちろん、その前にやったものの糧みたいなものはあるけれど、そこからやはり成長したいし、また別のものとして表現したい」
「頭で考えているうちはダメなんですよ。でも、それも大事な時間です。頭であれこれ思い悩んで、考えている自分がいて、まずはそれをある程度のところまで持っていくというか。考える自分がブワーって出てきて、それでも描いているうちに、何て言うんですかね、禊ぎというか、百八つの煩悩が抜け落ちていくというか、一点一点、筆を入れていくごとに、だんだん気持ちがグーッと入っていく感じなんですよね」
<名づけられる前/一瞬の記憶を記録する>
「ゾウと言われると、身体が大きくて、鼻が長くて耳が広い、とか、オオカミと言えば、強い、簡単に姿を見られないとか、いろんなイメージがあると思うんですけど、その名前って、こっち(人間)が勝手につけたものですよね。何て言うか、こっちが(彼ら野生動物のことを)わかっている風に名づけているというか、ほんとうは、あいつらは僕らが思っているような存在じゃないかもしれないぞって僕は思うんですよ」
「僕にとって、「名づけられる前」というのは、自分に重ねているところがあって。自分自身が、その(野性の)絵を描く状態になる前と、絵を描けるときの、その狭間みたいなもの、まだほんまに描けるという瞬間のちょい前くらいのところ、そのときの自分のことを言っているというか。僕がまだ描いていないから、名前もついていないわけですよ。僕が絵描きとして「つかまえたい」、でもまだ「つかまえきれていない」、その狭間の状態でもあると思うんです」
「今、個展まで1か月を切って(このインタビューは6月初旬)、やっと見えてきたというか。
最近は、夜中までずっと描いていて、3時、4時とかに寝て、それで朝起きられたら9時とか10時くらいにコーヒー飲んで、そこから、さぁやるか、という感じ。これがずっと続いていますね」
「いつもそうなんですが、僕は作品を途中で止めておくんですよ。終えた気になってサイン入れてしまうと、そこで喜んでしまったりするんで。自分がどこまで行けるか、その「どこまで」っていうのをギリギリまで粘りたい。だから、できあがった絵を壁にかけておいたり、リビングルームにかけたりして、その後もちょっと見たりする。どんな絵でもずっと気になるところはあって、ある意味終わりはないんですよね。壁にかけておいて、ちょっと前を通ったときに見たりする。気になって直したいところは終わりがない。でも、もし直し始めると、なんていうのか、ひとつ直せば、あっちもこっちもってなるんですよ。もしひとつの絵を1か月、2か月とか置いていたら、どんどん直したい気持ちになって、結局すべて変えなきゃならないなんてことになりますよね」
「個展の案内状のゾウの絵も、「ここにもうひとつ白を入れようかな」とか考える。入れなくて正解だったかもしれないし、入れきれなかったということかもしれない。白を入れることですべてが変わる、変えなきゃいけないということになったとしても入れてみろ、と言う自分もいる。そういうことをまぁ何週間か(その絵を)にらみ続けながら考えている自分がいます」
「いつも、少しずつ自分は(絵が)うまくなっていると思うんですよ。たとえば、2月の自分より今の自分の方が、うまくなっている。だからといって、2月に描き終わった絵に上描きするようなやり方をしたらアカンって思っています。どんな絵も、ギリギリまで全部調整するのが良いというわけじゃないんです。何て言えばいいのかな、きれいに合わせてしまいたくない、きれいに取り繕う自分になってしまってはダメやと思うんです。その時その時、一瞬の記憶を記録しようというのが、自分の中で大事にしていること。だから、きれいにまとめるなよ、きれいに見せたいとか考えるな、って自分に言うんです。2月に描ききった絵はそこで終わりだし、ゾウの絵はもうこれでいい」
「ひとつの展覧会ごとに、光が見えるような描き方というか、ひとつでもいいから、それ(光)を入れて次に繋がっていく展覧会にしたいなって思っているんです。これまでもそれができていたか、自分にはわからないんですけれど。ただ、4年前、5年前に描いていたようにはもう描けない。あのときの絵はもう描けないわけで。だから、その時にやっぱり、やりきっておいてよかったな、と思いたい。あの時も困って困って、やっておいて良かったなぁって、後からそう思うまで自分を追い込みたいです」
田中健太郎さんの絵は、静かに、だが饒舌にいろんなことをメッセージしてくる。言葉というよりそれは「音」、「匂い」、「気配」と呼ぶべきかもしれない。静かな絵なのに音が聴こえてくる、匂いが感じられる。一頭のゾウしかいないとしても、他にも気配を感じる。
距離を置いて見るとそれはシンプルな画風に見えるかもしれない。だが近づいていくと一点一点が広がって描写された実に繊細で奥深い世界である。顔を近づけるとゾウの姿が消えて、筆遣いが際立ってくる。筆遣いは作者の息遣いだ。その作家の「魂がぶつかっている瞬間」がそこにはある。
そこには余白もある。まるで見る者に「どう思う?」と問うような、あるいは、「さぁどうする?」と訊いているような、不思議な余白だ。どこか遠くを見ているゾウ、じっとこちらを見つめるオオカミ、彼らに触れることはできない。余白。その距離感が心地いい。それは人間と野性との距離なのかもしれない。
そんなことを、あれこれと(自分勝手に)思い考えながら、今回の個展の案内状の絵を見つめている。
インタビューでは、あちこちに飛んでは戻ってくるということを繰り返す田中健太郎さんの話をただただ聞いていた。止めなければいくらでも、ずっと(滋賀弁で)話し続ける人だった。きっとそうやってどこまでも絵を描き続けている人なのだろう。行きつ戻りつしながら。時間も、場所も散らばりながら。この人が描いた絵なのだと思い、観るのがとても楽しみである。
text by Eiichi Imai
WE ARE ALL DIFFERENT, AND COLORFUL 「違うって美しい」 SHOGO SEKINE/イラストレーター、グラフィックデザイナー、フォトグラファー
無名のイラストレーター/ニューヨークと少年
今、最高に人気のある、多忙なイラストレーター/グラフィックデザイナーである。SHOGO SEKINE(敬称略)が描いた絵や文字デザイン(タイポグラフィー)は、街のいろんな場所、店舗やショーウィンドー、衣服や靴、誌面、そしてもちろんネット上にあり、きっと誰もが知らず知らずのうちに目にし、「いいな、これ」と思っているだろう。「きれいな色だな」と感じ検索してその名を知り、ファンになったという人もいるはずだ。
とても運が良ければ、どこかのコーヒーショップで、彼が直前まで使っていたテーブルに、イラストレーションやデザイン文字が描かれた紙コップあるいは紙ナプキンが、置かれたままになっているかもしれない。それは今では、彼の有名なエピソードでもある。彼が今年3月に始めた「note」には、自身の言葉でその想い出が綴られている。「スターバックスと僕」というタイトルがつけられたポストがそれだ。
プロのイラストレーターとして独立する前、まだ無名の頃に、売り込み用のブックを作るため、彼は毎日のように近所のスタバに通っていたという。文字通り朝から夕方まで、(カフェミストを何杯もおかわりしながら)ブック作りに励んでいた。
「当時はフリーランスでやっていくぞ!と意気込んでいたものの、知り合いはゼロ。そんな中でできた“いつもの場所”は、間違いなく自分の寂しさを癒やしてくれるオアシスだった」
と彼は、そのスタバについて書いている。
しばらくすると彼は、「長居してしまうことへのちょっとした後ろめたさ」と、「ありがとうとごめんなさい」の気持ちを込めて、飲み終えたペーパーカップにイラスト付きのメッセージを描き、店のスタッフに渡すようになった(あるいはただ、テーブルに置いていった)。
「気づけばもう12年以上、カップに何かしら描き続けていることになる。はたして何個描いてきたのだろうか」(noteより抜粋)
時を経てプロのイラストレーター/グラフィックデザイナーとなったSHOGO SEKINEは、スタバと公式に仕事をする。まさに夢のコラボレーション。もしこれがニューヨークでの話だったら、「アメリカンドリーム」として、『ニューヨークタイムズ』紙の記者が書くサンデーコラムになったかもしれない。
人生、何が起きるかわからないし、自分が何を成し遂げるのか、誰にもわからない。目の前に広がる自分の未来の色は、誰でも、好きな色に染められる。
幼い頃、家族でニューヨークに暮らしていたSHOGO少年は、特に絵が好きだったわけではないし、MOMAやメトロポリタン美術館に通っていたわけでもない。それでもきっと、SHOGO少年の記憶の奥底に、あの街独特の音や匂い、地下からもくもくと上がってくる水蒸気、ヤジロベエを思わせる信号機、あらゆるストリートサイン、いろんなグラフィティ(落書き)、アールデコの高層ビル、あるいは、どこかでふと目にしていたアンディ・ウォーホルやバスキアのペインティングの色、デザイン、落書きだらけの壁やサブウェイ……、そういったニューヨーク・シティが、刻まれたはずだ。
では、そんな「昔話」から、SHOGO SEKINEを紐解いていこう。
アンディ・ウォーホル/色への強い関心
「子供の頃、3歳から9歳まで、父親の仕事の関係でニューヨークに住んでいたんです。自分が独立してから、それってけっこう大きなことだったんだなって感じるようになりました。今になってアメリカに暮らしていたことが生きている、という気がします。たとえば好きな色とか、自分のデザインに英語の文字を使うときの(多様な)表現とか。ふつうに日本で生まれ育った同業者からは出てこないであろうフレーズ、キャッチ、色使いを、僕はたぶん持っていると思います。この幼少期の体験や経験がけっこう自分のベースになっているんだなって。今頃、お父さん海外転勤してくれてありがとう、みたいな(笑)」
子供にとっての6年間という時間は、とても長く濃いだろう(9歳の少年にとっては人生の半分以上)。乾いたスポンジのように、あらゆることを吸収していたはずだ。初めて飲んだコカコーラのように、ある種の衝撃として心身に刻み込まれたものもあっただろう。SHOGO少年は、無垢で多感な頃に、常に竜巻が起きているような刺激的な街に生きていたのだ。
「好きなアーティストは?と訊かれて、必ず出す名前は、モネ、アンディ・ウォーホル、バスキア、デヴィッド・ホックニー、ヘレン・フランケンサーラー、モーリス・ルイス、マーク・ロスコ、エルズワース・ケリー。色、というものに強い関心がある自分にとって、この偉大な芸術家たちからは強い影響を受けていると思います」
「中でもやはりアンディ・ウォーホルには、ある種の親しみを感じます。僕自身アメリカで育ったこととも、どこかで繋がっていると思います。僕がアメリカに行った1986年は、ウォーホルがまだぎりぎり生きていました。もちろん会ったことはないし、あちらは大巨匠で、最終的には映画や音楽の表現なども含めて“偉大なる表現者”という存在ですが、ウォーホルは、もともとはイラストレーター、アートディレクターで、最初は新聞や雑誌、広告、ポスターなどが主なフィールドでした。そこから、唯一無二のアーティストになった。つまり、僕も似たような路線にいるというか、キャリアの理想形はやっぱりウォーホルなんですよね。ただ僕は、ウォーホルのように人前に出たいわけじゃないです。黒子タイプなので(笑)」
「色は、いつも僕にとって最大の関心事です。仕事でもプライベートでも、気づけば常に(色が)そこにある。幼少期をアメリカで過ごしたことも影響しているかもしれません。ビビッドなもの、カラフルなものに囲まれていたので」
「1950年代から60年代のアメリカには、巨大なキャンバスに色彩そのもので表現を試みた「カラーフィールド・ペインティング」という抽象表現主義の流れがありました。大胆で、豊かな色彩に満ちたそのスタイルは、人の心に直接働きかけるような力を持っていました。その様式を知り、気づけば僕もすっかり魅了され、いつか絵を描くことがあればその文脈を辿りたいなと思っていました」
「僕が好きなアーティストの多くが、アメリカを活動の拠点にしていました。モネは時代と居住国が違いますが。やはり子供の頃にニューヨークに住んでいたこと、そのとき知らず知らずに見たり感じたりしていたことは、自分の奥底に深く根ざしているのかもしれないなぁって思います」
行き詰まったらザッピング/街を歩いて気づくこと
いつか(そう遠くない未来に)SHOGO SEKINEがアンディ・ウォーホルのようなアーティストになれば、彼が無名時代に「創作の場」にしていたスタバで描かれた紙コップは、すごい値打ちモノになるかもしれない。
ウォーホルのキャリアをなぞるかのように生きる彼は、一方で、常に複数の締め切りを抱え、カオスな瞬間を何とかくぐり抜け、「(自分が描いた)この絵やデザインは、どこかでもう他の誰かがやっているんじゃないか」という不安にいつも苛まれてもいるのだとも語る。
「僕は、どんな仕事でも“8割が準備”と考えています。描き始める前の入念なリサーチや勉強は欠かせません。僕のアートワークでは、事前の下調べ、準備が、とても大切なんです。ひとつの仕事に対して、最初の提案日のギリギリまで可能な限りリサーチし、思案を重ねて、それから描くんです。そのギリギリのときでも、自分が思いついたアイディアが、誰か他のイラストレーターやデザイナーと被っていないか、もしかしたら世界の反対側には似たようなものがすでに存在していて、自分が知らないだけでもう世に出ているんじゃないか、自分の作品はパクりだと言われるんじゃないか……、そんなふうに不安になっている自分がいます。今でもそうです。だからこそ、徹底的に調べます。クライアントから依頼されたアートワークの場合は特に、準備にしっかり時間をかけます」
「僕は独学でずっとやってきました。美大に通ったことはなく、美術の歴史を体系的に学んできたわけじゃありません。イラストレーター協会のような組織にも入っていないし、同業種に親しい先輩や後輩がいるわけでもない。僕にはまだまだ、自分の仕事でも知らないことがいっぱいあります」
――でもそれは、何にも染まっていない真っ白な紙のようで、いろんな色で自由に染められるし、乾いたスポンジのようにどんどん吸収できる、というアドバンテージでもありますね。
「そう、だから今も、同時にいくつも仕事を抱えていると、カオスになる時もありつつ、悩んだり行き詰まったときにはザッピングする感じで、ちょっとこっちの仕事を進めよう、よし次はこっちをやろう、というふうに、いくつかワークがあることで気分転換にもなるから、自分にとっては(カオスは嫌だけれど)複数同時に進行している方が正直ホッと安心するところもあります」
――日々のルーティンは、どういう感じですか。
「朝は劇的に弱いです。9時に起きるのが一番早いくらいで(笑)。午前中はコーヒーを飲みながら少し別のことをやっていて、正午以降に打ち合わせや、買い物、調べ物など、外での用事を済ませ、夕方くらいに戻ってくると、そこでやっと暖簾(のれん)を出す、という感じです。午後6時くらいから夜中の2時くらいまでデスクに向かって仕事をして、で、3時前くらいに疲れて終わりにして7時間くらい寝ると、また朝の9時。これが、近頃のルーティンですね」
「今もスタバは行きますし、他のカフェもたくさん巡ります。カフェに行く理由は気分転換もあるけれど、アイディアを練ったりするためでもあります。とにかく、煮詰まったら移動しまくります(笑)。以前、毎日毎日スタバに行ってブック作りに励んでいたから、身体にその習慣が濃く残っていて、いまだに家や仕事場でずっとやっているのが苦手なのかも(笑)」
――子供の頃のニューヨーク体験と同じで、街を歩き、カフェで過ごしていると、そこに発見や気づきもありますよね。
「そうなんです。僕はけっこう街を歩くのも好きだし、何も買わなくてもお店に入っていろんなものを見たり、触れたりしていると、インスパイア、インプットされることがあります。以前は本をあまり読んでいなかったけれど、最近はよく読んでいるし、本屋で過ごす時間も好きです。手に取ってパラパラとページをめくったり、装丁を眺めたり、知らない画集や写真集と出会えることもある。そういう時間も、自分の仕事や創作活動の“準備、リサーチ”でもあると思っています」
他人軸のアートワーク/自分軸の作品世界
今、SHOGO SEKINEは、向こうから次々と「描いてほしい」「コラボしたい」と言ってくる存在だが、以前は、スタバにこもってブックを作り、それを持って編集者やアートディレクターのところへ行き、自分を売り込んでいた。それは、多くのフリーランスが通る道だろう。
「文字が好きだったから、最初の頃はタイポグラフィー系のいろんな文字デザインをファイルに入れて、売り込みに行ったと思います。あるアートディレクターさんから、「人は描かないの?」って言われたんです。「人物描けないと、仕事が少ないよ」と教えられ、なるほどと思って。けれど最初、人はあまりうまく描けなかったんです。独学の壁を感じましたね」
「当時はまだデジタルでイラストを描くノウハウもなかったし、機材を買うお金もなかったので、全部手描きでした。直せと言われたらやり直す。効率は悪かったですね。でも、頑張って人を描いて見せに行って、アドバイスくれる人もいて。好きな雑誌、自分のイラストを掲載したい雑誌のリストを作って、奥付のアートディレクターさんの名前をチェックしてそこから攻めていきました」
「そうやって、少しずつ雑誌の仕事が増えていきました。最初は、『ポパイ』で、恵比寿の街を描いてほしい、というものでしたね。言われれば何でも「できます!」「やります!」って答えていたと思います。今日言われて、締め切りは明日の夜の11時ということもあったし。そのうち、SNSの時代が到来すると、Instagramが自分にとって大きかったと思います。自分のポートフォリオとして表現できるツールになったので」
「人のために絵を描く、というと大袈裟ですが、雑誌でも広告でも、大きな企業でも小さなところでも、誰かから直接連絡が来て、打ち合わせして、意見をすり合わせながら進めて、作品を仕上げるという仕事が、僕には合っているという気がしています。頼まれてやるのは好きだし、その頼んでくれた人に向けて描くように、その仕事を仕上げていくというのは、やりがいもある」
「ずっと、「個展やらないんですか」とか「作品集出さないんですか」って言われ続けてきたんです。でもそれは、依頼されてやる他人軸のアートワークじゃなくて、自分軸の作品世界ですよね。どこかで僕はそれを避けてきたんだろうと思います。なんか自分軸が苦手なんですよね。自分の展覧会は、テーマを誰かから与えられるわけじゃない。自分でテーマや方向性を決めることは、簡単なようで、難しいと思います。自分が好きなことだけをやって、それをみんなが好きじゃなかったらどうする?という不安もあるし。基本ネガティブ思考なので(笑)」
WE ARE ALL DIFFERENT, AND COLORFUL
シソンギャラリーでの初個展についてSHOGO SEKINEは、「あまり難しく考えすぎず、できるだけ観る人それぞれの解釈に委ねられるものになれば」と語る。テーマとしてベースにあるのは、「十人十色」だと言う。
「人は誰でも、つい他人と自分とを比べてしまう。それで嫉妬したり、妬んだり、時には誰かを傷つけてしまうこともある。みんな違うのに、違うから面白いのに、なぜ比べるのか、また、なぜ同じようにしようとするのか。今の時代、SNSの影響が大きいのかもしれないけれど。人は人、自分は自分。それぞれに違う色や形があっていいじゃないか、ということを、この展覧会を通してメッセージできたらいいなと思っています」
「僕がSNSでよくポストする「りんご」は、単なる果物のリンゴではなく、人間を表現したモチーフなんです。りんごを描くようになったきっかけは、2020年にアメリカで起きた、警官による暴行殺害事件をきっかけに広がった、人種差別への抗議運動「Black Lives Matter」でした。コロナ禍の沈んだムードとも重なり、僕は、世界には差別が根強くあることをあらためて感じさせられました。幼少期をアメリカで過ごしましたが、幸いにも僕自身は大きな差別を受けた経験はありません。それでも、この問題は他人事ではないとずっと感じていました」
どうすれば差別はなくなるのだろう? どうすれば人と人との争いは減るのか? 彼はそんなことを考えながら、ある日いつものスーパーマーケットで果物売り場を眺めていたという。
「そこに、大きさも形も色も多種多様なリンゴたちが並んでいました。産地、色、サイズ、値段、風味の違いはあっても、パッと見ればどれもリンゴであることに変わりはない。「人間の世界の縮図のようだな」と思ったんです。肌の色、髪や瞳の色、出生地、人種、性、能力や個性、違いはたくさんある。でも結局みんな同じ人間です」
「先日、NASAのアルテミスⅡミッションで、月を周回した宇宙船オリオンに搭乗していた宇宙飛行士のひとりが、地球に向かってこうメッセージしたんです。“信じてほしい、きみたちはみんな美しい、出身地や見た目なんて関係ない。宇宙から見れば私たちはみんな同じ人間、ひとつなんだ”。本当にその通りだなと思いました」
「リンゴは、本体に葉と茎があれば、どんな形、色でもリンゴに見える。切った断面もなんか面白い。じゃあ、どこまでも形や色を変えても、リンゴに見えるのか? そんな小さな実験のような気持ちから、僕の“りんごの表現”は始まりました」
「もともとリンゴって、とてもグラフィカルであり、アイコニックです。アダムとイブの物語には禁断の果実として描かれ、セザンヌはかつて「リンゴひとつでパリを驚かせたい」と語ったとか。ザ・ビートルズが起ち上げたレコード会社はアップルレコードで、それに感化されたスティーブ・ジョブスは開発したパーソナルコンピューターをAppleと名づけ、それを会社名にし、文字通り世界を変えてしまいました」
「僕が描いたりんごを子供たちに見せると、それが蝶々に見えるという子がいました。そんな自由自在な見え方も、りんごの豊かさなのかなって思います。僕は人をりんごに置き換えて描いているので、もはやポートレイトかもしれません。観る人には、りんごを自分自身と重ねてもらってもいいし、もちろんただ色彩と形を楽しんでもらうだけでもOKです。「あ、可愛いな」「なんか元気になる」「部屋のインテリアになる」など、自由に気ままに観てもらえたら嬉しいです」
「アートとは、そもそも見て楽しむもの。好き嫌いも発生する。その中で直感的に好きなものを見つけてもらって、それぞれ好きな時間を過ごしてもらえたらいいなと思います」
text by Eiichi Imai
Something begins to live ANNE SUZUKI 『やどる』 鈴木杏/俳優、画家
犬を迎える/『ほぼ日手帳』絵日記
幼い頃からモデル、俳優としてカメラの前に立ち、舞台、テレビドラマ、映画など幅広く活躍してきた鈴木杏さんは、「画家、アーティスト」としての顔も持つ。
子役としてのデビューは9歳の頃だから、キャリアとしては俳優・鈴木杏の方が長いが、絵を描くことについては、ある年に、一年間「毎日、一日一枚絵を描く」ということもしているので、スタート地点は(俳優業より)ずっと後だが、本人の心身のかなり深い場所に「描く」ということがあるのではないか。まさに、描くことが彼女自身に宿っている、というように。
「29歳になる年の始め、2016年の元旦に、新しい『ほぼ日手帳』を広げて、「一日一ページ、さぁ何を書こう?」と考えたとき、ふと、「絵なら毎日描けるかもしれない」と思ったんです。
それまでの数年は、1月1日に日記を書き始めても途中でやめてしまったり、読んだ本の気になる一節を毎日書き写すということをしてみたり、『ほぼ日手帳』のページにあれこれ試してみたけれど、なんか今イチうまく使えていないな、と思っていました。何かが書いてあるページと、何も書けていないページがあって、それも嫌だなぁって思っていたんですね。
その前年の10月くらいに、我が家に犬を迎えたんです。犬が生活に加わり、やっと落ち着いた頃に年が明けて。犬がいることで自分が家に居る時間も増えたし、ふと、2016年の元旦に、「絵を描いてみよう」と思ったんです。『ほぼ日手帳』のページに。
日記って、後から読み返すと、わざわざ思い出したくないよこれ、というものがあったり、ちょっとこれはもう(想い出に残さず)捨ててしまいたいなぁという日があったり、そういう感じが誰にもあると思うんですけど、絵日記なら後から見返しても恥ずかしくないかなと思って。それでその年、一年間、毎日、絵日記を描いたんです」
それは今もゆるやかに続いているそう。鈴木杏さんは言う。
「そこから“絵のご縁”という世界が広がっていったように思うんです。不思議ですね、絵日記を描き始めたときには自分が個展を開くとか、私が描いた絵がTシャツにプリントされるとか、まったく考えていなかったから」
人と人との縁、新しく生まれる縁もまた、続けること重ねていくことで、その人に宿るのだ。
9歳の俳優デビュー/大人の世界で
「子役の俳優としてデビューしたのが9歳の頃。今年で俳優業30年になります。モデルの仕事は3歳頃からたまにやっていたんですが、私はカメラの前でじっとしているのがあまり得意じゃなくて。
子供の頃、夜に寝る直前くらいまで、母親と一緒にテレビドラマを観ていたんです。母はドラマが大好きで、私が小さい頃って、ちょうどトレンディドラマ全盛期でした。テレビ画面の中の物語とか演技とか、子供だから深く考えずに観ていたわけですけど、そのうち自分が(演技に)興味を持ったんでしょうね。
7歳になるまで一人っ子だったから、家で一人遊びをすることはよくあったんですが、その遊びの延長で演技に対する興味が芽生えたみたいで、親に「テレビドラマに出てみたい」って言い出したそうです」
「両親とも最初は、「またこの子が変なこと言い出したぞ」くらいな気持ちだったみたいで。でも母は、私を出産するために仕事を辞めた人だったので、「女優さんなら、結婚、出産しても、長く続けられる仕事かもしれない」と思ったらしく、うまくいくかはわからないけど、何事も経験だから試してみるのもいいんじゃないかって。それで俳優として所属するのに、怖い事務所は嫌だから(笑)、どこがいいのかって考えたとき、私の両親の友だちにスタイリストの方がいて、その方が「ここの事務所の社長さん、良い人だよ」って言って紹介してくれて。それで母娘で会いに行き、以来私はずっと同じ事務所にいます」
「9歳の私にとって、俳優のお仕事は、とても面白かったんです。と言ってもお芝居が面白いという気づきはまだなくて、撮影の仕事場が面白かったんです。撮影現場に行くと、いろんな大人の人たちがいる。20代のスタッフさんから、60代、70代の役者さんまで、多種多様な大人たちがいて。みんな私を可愛がってくれるし、面倒見ようとしてくださって、居心地良くて、それで楽しかったんだろうなと今は思います。周りの俳優さんスタッフさんたちは、9歳の私からすると、みんなすごい人にしか見えない、その大人たちと一緒にいるのが、私には面白かったんです。彼らが休憩中にお喋りしている横にいるだけでも面白かった。知らない世界、初めての場を体験している感じ。
その感覚は今もあまり変わっていません。撮影の休憩時間にお喋りしたり、いろんな方とコミュニケーションをとるのは今も面白い、楽しいと感じます。この年になるともう、自分が現場で一番年下という状況も減ってきちゃったけど」
「今は長野に暮らしていますが、生まれも育ちもずっと東京です。目黒川が濁っていて匂いが強い頃の中目黒界隈に暮らしていました。ちっちゃいとき、お絵描き教室に通っていたんですけど、絵を描くのが好きだった記憶はあまりなく、そこで出されるおやつのこばかり覚えています。氷砂糖、煎ったヒマワリの種とか、その先生が出してくれたおやつの印象が濃く残っています。ちっちゃいときの記憶だから、どれくらい事実か定かではないんですが。学校の美術の時間の記憶も特に濃くなくて、絵を描くのが得意だと思ったことは一度もなかったですね」
「じゃあ絵本とか好きだったかというと、そういう特別な記憶もないんです。ただ、そのお絵描き教室に行くとき、母と一緒にバスで通っていたんですが、バス停の近くに本屋さんがあって、そこで一冊500円くらいの絵本を母が買ってくれて、それを行き帰りのバスの中で読み聞かせてくれたことは、楽しい記憶として残っています。たぶん家には絵本がたくさんあったと思うんですが、子供の私は集中して読むようなタイプではなかったのかな? きっと、特別な何か、というのはなくて、ふつうの子供たちと同じくらいの絵や絵本への興味しかなかったように思います」
単色の線画を描く/ご縁の繋がり
「大人になってから、『ほぼ日手帳』で始めた絵日記は、すべてペン一本で描いています。手帳に三色のペンが付いてくるので、最初はそれを使っていて、一日一枚描いていると途中で黒インクが終わるので、そこで別の色に変えて描き続けます。ちょうど今は青色のインクのペンで描いています(※これは昨年の晩秋の頃)。なので、『ほぼ日手帳』に描いている絵はすべて、基本的に単色です。
描いているのは、その日に出会ったインパクトのあった光景ということもあるし、ただ線を引いて、また引いて、という抽象画のような日もあるし、いろいろです」
「これは、『ほぼ日手帳』に限ってのことではないですが、私は絵を描くとき、写経のように一本の線から描くことが多いんです。一本描いて、また一本描いて、それを繰り返していくという。
小中学生の頃も、学校の美術の時間はあまり得意じゃなくて、特に写生会とか好きだった記憶はなくて。でも中学2年生のとき急に線画を描くようになったんです。描くといってもスケッチブックとかじゃなくて、何かの裏紙に描くとか、そういう感じ。撮影現場でも時間があると描いていて、すると私が描いた絵を見て「すごいね」と言ってくれる方もいて。その流れもあって、2016年の元旦から、『ほぼ日手帳』に一日一枚、線画を描くようになりました」
「ある日、現場で、いつものように私が手帳に何か描いていたら、それを見ていた舞台のスタッフさんが、「スタッフTシャツ描いてみない?」って言ってくれて。舞台の現場では、スタッフTシャツを作ることが多いのですが、それであるとき私がそのイラストを担当することになったんです。
私の絵がプリントされたTシャツを見た別の舞台のプロデューサーの方が、「杏ちゃん、絵を描くのが好きなら、クラウドファンディングで本を作ってみたら?」と言ってくださって、それで今度は本作りに向けて、単色ではなく絵の具を使い始めて。するとクラファンの応援コメントを森本千絵さんが書いてくださり、数年後、千絵さんが、自分が開いたギャラリーで「個展をやってみない?」と誘ってくださって。それで、個展をするなら、きちんとキャンバスにアクリルで描いてみようと思い、それが初めてキャンバスに描いたときでした。
なんだかすべて、偶然というか、ご縁によって繋がって広がっていった、という感じですね」
雪が積もる森の中で/描くことは身体を動かすこと
「今暮らしているのは、長野の森の中です。標高900メートルくらい。まぁまぁ高いところで、冬には雪が積もります。もちろん(冬は)寒いけれど、慣れちゃえばあんまり感じないというか、東京のように歩いて移動することはないので、家の中が温かければ心地いいです。外に出てもすぐ車に乗ってしまうから」
「なぜここか、というのは、先に移住した友人夫婦がいて、初めて訪ねたときに、ここ面白そうだなっていう感じがして。それまでも、八ヶ岳、軽井沢など、東京から少し離れた場所で、住めるかな、住んだらどうだろうなって考えながら、場所を見たりしていました。
仕事のことを考えると、軽井沢辺りなら東京へも通いやすいと思ったんですが、今いるこの場所は、電車でも車でも東京からは時間がかかるけれど、暮らしたらきっと何か思いもよらないこと、新しいことが始まりそうだなという気配があった。どうせ移住するなら、こっちの方が断然面白そう、それなら振り切ってしまえって思い、それで今の場所に落ち着いた感じです。
ここに暮らし始めて、一年とちょっと経ちました。春、夏、秋、冬と四季を通して暮らしました。先のことはわからないけれど、ここをベースにしていくと思います。
前は、舞台など俳優としての仕事のスケジュールが先に決まっていたんですが、今はなんだか、絵の個展の予定が先に決まって、いろいろ逆転現象が起きていて、面白いなと思いながら日々を過ごしています」
「こもって地道に描いているイメージもあるかもしれませんが、絵を描くのって、すごく身体を使うんだなと最近気がつきました。肉体の動きによって描かれるというか。個展に向けて少し大きなキャンバスに描くときには特に動きが多くなる。
子供の頃、モデルの仕事でじっととしているのが得意じゃないと思ったわけですが、それは今もあまり変わっていなくて、だから舞台が好きなんでしょうね。身体が動いていくから。小説とか脚本を書く仕事だと机に向かって座って、動きが少ないと思いますが、キャンバスに向かう絵は身体の大きな動きが必要になってきます。最近の気づきとして、絵という表現が、自分の精神性よりも身体=肉体に結びついているんだ、ということがあります」
「そもそも絵を描くことは、とってもパーソナルなものだと思うんですね。絵というのは、誰かに見せないこともできる。誰かに向けて(絵を)見せなければ、誰も気づかないし、内緒のままにしておくこともできちゃう。だけど個展があって、人に見せること前提で描いていると、葛藤というと大袈裟かもしれないけれど、何か心で迷うところがあったりします。なんだろう、客観的なところが出てくるというか。これは面白い絵なのか、と自分の作品について問いかけてしまったりする」
――問いかけながら、繰り返し線を引いたり、色を塗っていく?
「そうですね。色が好きだから、絵の具を使い切る感じで、何枚もキャンバスを並べて、塗り重ねていくこともあります。横に何枚もキャンバスが並ぶと場所を取るから、大変なんですけれど、絵の具を開けたら使い切りたい派なので、並べたキャンバスの絵の、その色を使う箇所に同時進行で塗っていく。
裏紙や『ほぼ日手帳』に線画を描いていたときも、私はすっごい描きこんでいく感じでしたけど、色を塗っていくのも同じような感じで。ある色の絵の具を持ったら、その色の部分をとにかく塗ってやりきるというか、そうしないと次の色に手を伸ばせない」
――ダンスとは違うけれど、動きによって色を重ねていくようなときもあある?
「ダンスは小学3年生から中2くらいまでやっていて、踊ることは好きですが、絵を描いているのとダンスはまた違う気がします。ただ、そうですね、描くというのは肉体的なことではありますね。写経のように一本線を描くのも、キャンバスに向かって筆を持って色をどんどん塗り重ねていくのも、私にとっては運動のような。たぶん、“絵を描く動き”が、私はすごく好きなんだなって思っていて。むしろ、何か描きたいものがあるから描くのではなく、まず動いて動かしてやってみて、そうすると次第に見えてくる、気づいてくる、というような……。
それが面白い結果を生むかどうかは未知なんですが、でも時にバンッ!と「あ、これだ!」という感じで見えることはあります。「こういうの描きたいな」という気づきのような」
鈴木杏さんは4月11日から始まるシソンギャラリーでの個展に、こんな言葉を寄せている。
「色を重ねていった先に
なにかが宿る、その瞬間
やっと絵は絵になるのだと
最近気がついた
頭で思い描いたイメージを
全力で覆すかのように
身体が勝手に動いていく
ひとつひとつ
粛々と
遠く遠く
深く深く
色を重ねながら
私はただただ
なにかが宿る瞬間を
求めている」
text by Eiichi Imai
KIYO MATSUMOTO 松本妃代/画家・俳優
変容する自分を受け入れ、その先へと歩き続ける
松本妃代さんは絵を描く人だ。2026年2月、SISON GALLERyで2度目の個展を開催する。私は2025年から2026年にかけて妃代さんに4度お会いしたのだけれど、妃代さんはその都度、どことなく前回とは違う空気をまとって現れた。私は彼女を前にすると、どんどん脱皮を続ける美しい生き物を見ているような気持ちになった。
妃代さんに初めてお会いしたのは、2025年の初春、SISON GALLERyでの初個展『Hideaway–湖のほとり、小さな隠れ家』のときだった。フィンランドの森にある小屋で3か月ほど過ごしながら描いたという幻想的な絵の数々は、どれも静かで落ち着いていて、とても暗くて、けれどもうっすらと輝いていた。光の届かない森の奥に、たくさんの美しいものたちが静かにひしめきあっている様子に、私は魅了された。
絵に囲まれている妃代さんを初めて見たとき、「あっ、香里さんだ(NHKの朝ドラ「おちょやん」で妃代さんが演じていた役名)」と思ったのは一瞬だけで、ああ、この人だ、この人がこの絵を描いたんだ、と腑に落ちる感覚があった。フィンランド滞在中、小屋の近くの冷たい湖でときどき水浴びをしていたという話をしてくれて、それがとても印象的だった。
[描けないときも描き続ける]
次に妃代さんにお会いしたのは2025年夏の終わり、下北沢のキャンドルカフェ。妃代さんの実兄である写真家の松本直大さんとの二人展『あわいーWhen it is born.When it dies.』を観に行ったときだった。妃代さんの新作は、SISON GALLERyで見た森の絵とはまた違っていて、儚げで、絵の中心が捉えづらく、境界線が溶け合うようなゆらぎを感じさせた。そこには、段階的というかなんというか、わからないものをそのまま受け止めるような淡さがあった。
「なんとなく、今の自分のままではいられないという気がするんです。変わるんだろうなという予感があるし、変わらなくちゃとも思うんだけれど、具体的にどう変わるのかがまだ分からなくて、見えない状態で。なんだか怖いし、どうしよう。どうしたらいいんでしょうね」
妃代さんはそう言って、困ったように笑っていた。
3度目にお会いしたのは秋の鎌倉。あれから妃代さんがどのように変化したのかが気になって、私から会いに行った。夏ぶりの妃代さんはいくぶんすっきりとした表情になっていて、最近始めたという油絵の話を嬉しそうにしてくれた。変わったんですか、と聞くと、すごく変わったかもしれません、と今度はちょっと楽しそうに笑った。
「夏は、すごくしんどかったんです。20歳の頃から絵を描き続けて、今年で10年になるんだけど、それまで描けなかったことなんて一度もなかった。それなのに突然描けなくなって、体調も崩してしまって、どうしたらいいかわからなくて。でも、そういうのってきっと大きな変化の前触れだから、無理したらいけないと思って」
それで、どんなふうに過ごしてたんですか、と聞くと、「絵を描いてました」と答えたので私は驚いた。妃代さんにとって「無理しない」というのは、いったん絵筆を置いて休むことではなく、先が見えない状態でも、止まらず描き続けることなのだった。
「描けないなって思いながら描いている絵も、そのときにしか描けない自分の絵だから、大切にしたいんです。休んでいても絶対に解決はしないから、描きながら何かが変わるのを待つしかない。だから、夏はしんどかったけど、しんどい中でも展示をしたことはすごくよかった。無理に形にできなくても、私の内側にあるものを、形にならない状態のままで外に出すことができたから」
「今まではアクリル絵の具を使うことが多かったけれど、ふと思い立って油絵のセットを買ってみたら、それがとてもよかったんです。明るい色を塗っても、明るいだけじゃない深いニュアンスが出るから、今まであまり使わなかった色も抵抗なく選べるようになって。乾くまで時間はかかるけれど、表現の幅が広がって、今はそれがすごく楽しい。SISON GALLERyでの展示は、油絵が増えると思います」
[絵を描いて生きてゆく]
妃代さんが絵を描き始めたのは、芸能活動をしながら横浜の大学に通っていた20歳のころ。独学で描き始めたら楽しくて、気づけば毎日描き続けるようになり、家の中には誰にも見せたことのない絵がどんどん増えていった。ある日、当時のマネージャーに「絵を描いているって聞いたけど、どれくらい描いてるの?」と聞かれ、書き溜めたものを見せてみたら驚かれ、「個展をしてみたら?」という提案を受けた。身近にプロの表現者がたくさんいたこともあり、自信が持てずにひるんだものの、マネージャーの「一度やってみて、違うなと思ったらやめたらいいんじゃない?」という声や、相談に乗ってくれた先輩の「頑張らなくても続けられることは、仕事にしてもいいものだと思うよ」という声に押されて、23歳のころに初めて個展を開き、絵を人に見せる場を設けることになった。不安は大きかったけれど、いざ個展が始まってみると、妃代さんの予想を超えて、このとき展示した絵はすべて完売となった。
「驚きました。自分の絵を欲しいと思ってくださる人がこんなにいることに感動したし、家に飾りたいと思ってくださる方がいるのなら、これからも描いた絵を外に出していっていいのかなと思えるようになりました」
その後も妃代さんは俳優業と並行して絵を描き続け、年に一度のペースで個展を開くという生活を続けた。嬉しいときも、悲しいときも、日記のように絵を描き続けた。ハードな朝ドラの撮影期間中も、家に帰れば絵を描き続けたし、合間を縫って個展も開いた。妃代さんにとって絵を描くことは、いつのまにか呼吸と同じように日常的に不可欠な行為であり、生きることの一部になっていた。そのうち徐々に画業の方に軸足を置きたいと考えるようになり、2023年には事務所から独立。オファーがあれば俳優業も行いつつ、画家として生きることを選び、今に至る。
[モチーフのゆくえ]
2025年の6月、福岡で個展を開催中のこと。在廊していた妃代さんは、忘れられない光景を目にすることになった。
「複数の部屋で展示をしていたのですが、あるお客さまが奥の部屋に手招きしてくださって。見に行くと、私の描いた大きな馬が寝ている絵の前で、その方のお子さん二人がすやすやと気持ちよさそうに眠っていたんです。その光景がとても神秘的で、愛おしくて。ああ、絵を描いててよかったな……と心から思えた瞬間でした。
私は、絵で自分の感情を表現したいわけではないんです。誰かに届ける必要があるから絵が生まれてくるというか、この世界のどこかにいるかもしれない、私の表現を必要としてくれる人に届けるために自分の身体を使って絵を描いているという感覚がある。そういう意識を持っていると、自分の中から生まれてくるものに対してより誠実になれるし、それを見つめることをあきらめたくないと思えるんです」
その小さな姉妹のお姉ちゃんは、目を覚ました後に「この馬の絵のところにずっといたら、涙が出てきたの」と言ったそうだ。絵の中の馬と、現実世界の小さな少女たちが共鳴しあって眠る様子を想像すると、それだけで胸の中があたたかくなる。私も妃代さんの描く生き物がとても好きだ。妃代さんの絵には、命の種のようなものが宿っていて、絵の前に立つとその種が自分の中にも入ってくるような気がする。その種は自分の中で芽吹き、育ち、そして自分の味方になってくれる。
「馬は、私にとって風のような存在。この世界に存在するけど存在しないみたいな、ある種の神聖さがあって、はかなさも感じる。自分が変化する時期には、モチーフとして馬がよく現れてくるような気がします。シロクマばかり描いていた時期もあるし、クジラを描いていた時期もある。自分の中でのパートナー的な動物がどんどん変化していくのも楽しいです。
今まで、動物や子どもを自分の分身のように描いてきたけど、最近は、色、光、気配、音、そういうものにも意識が向いてきているのを感じます。いつも意識的に絵を何かの形に落とし込むということはしていないので、この先、モチーフが出てこないということもあり得ると思います。特に最近は、具象と抽象の間をいったりきたりしているような絵が増えてきました。でもそれはそれで、そのまま描き続けてみようかなと思います。上手に描けなくてもいいし、整っていなくてもいい。ほころびがあってもいいから、純粋であることの方が大切」
[柚木沙弥郎さんのこと]
尊敬する表現者として、妃代さんは柚木沙弥郎の名前をあげる。日本における型染(かたぞめ)の第一人者として知られる柚木沙弥郎は、民藝運動にも深く携わり、染色工芸家として、絵本作家として、101歳で没するまで生涯現役で新しい表現に挑戦し続けた。
「子どものころから沙弥郎さんの絵本に慣れ親しんで育ちました。その後はしばらく忘れていたけど、大人になって絵を描き始めたころに沙弥郎さんの染色作品を再び目にして、シンプルなのにまるで布に命が宿っているような生き生きとした存在感に圧倒されて。こんなふうに人の心を動かして、そして見た人の心に作品の存在を重ね合わせることができる。アーティストってこういうことなんだ、と沙弥郎さんの作品から教わった気がしました」
「沙弥郎さんの生き方が好きなんです。だけど沙弥郎さんのように生きようと思ったら、絶対に自分に嘘をついてはいけない。沙弥郎さんはあるとき、自分のやってきたことが今までの自分のコピーに思えてしまって、それで70歳で絵本の創作を始めた人。旅からインスピレーションを得たり、立体作品やデザインを手掛けたり、いろんな時期があったけど、生涯そのときそのときの自分に正直に作品を作ってらっしゃったと思う。どれだけ自分の中の純度を保ち続けられるかというのは、私にとっても大切なテーマです」
「学生の頃、ご縁があって沙弥郎さんの原画をお迎えすることができて、今も自宅に飾っています。この絵が家にあるだけで、自分がどんな状態のときでも自分らしさを思い出せるし、大丈夫、間違ってない、と思える。しんどくても、まだ頑張ることができる。沙弥郎さんの作品が私にとってそうであるように、私の絵も、誰かにとってそうであれば嬉しいなと思います」
[変化する自分を受け入れる]
妃代さんも、妃代さんの描く絵も、どんどん変わっていく。子どもの背丈が伸びていくのを誰も止めることができないように、妃代さんの変化は妃代さん自身にも止められない。
「以前は、自分のスタイルをはやく固めてしまいたいと思っていました。ひと目でその人のものだとわかるようなスタイルを貫きながら、それを何十年もあたためたり、深堀りしていくアーティストの在り方に憧れを持っていたんです。でも、自分にはそれができない。「これが私らしい表現なのかも」と思えるような絵が描けたと思っても、しばらくするとまた別のものに変わってしまう。ずっとその繰り返しで、自分でも呆れてしまうけど、自分はこういう人間なので仕方がない。最近は、変化し続けることこそが自分らしさなのかもしれないな、ということをようやく受け止められるようになりました。ただ、純度を保ち続けることだけは絶対に変えたくない。そこに関してはストイックであり続けたいと思っています」
絵を描き始めて10年が経った今、「あのときの絵が好きでした」とか、「ああいう絵をまた描いて欲しい」と言われることもあるという。
「もちろん自分が描いたものだから、やろうと思えばできなくはないけれど、それは沙弥郎さんの言葉を借りると「自分をコピーをしている」感覚。表面的には変わって見えなくても、表現の純度や熱量が下がってしまうし、こういうのが出てきた!っていう私自身のワクワクする気持ちも削がれてしまう。きっとそれは見る方にも伝わってしまうと思うから、絶対やってはいけないことだと思います。
過去の自分の絵は、そのときの自分にとっては嘘のない100%のものだから、今でも好きだし、色々と思い出せて愛おしい。だから、過去にお迎えしてくださった方が今でも絵を大事にしてくださっている様子をお聞きしたり、好きと言っていただくのもとても嬉しいです。でも、今の自分には、今の自分の絵を描くことしかできない。全力で生きないと、明日が開けてこないし、その先の景色を見ることができない。自分に嘘をつかないために、毎日自分と向かい合っています。
突き詰めて、突き詰めて、その先にはいったい何があるんだろう?と途方にくれるような気持ちになるときもあります。沙弥郎さんみたいに、80歳、90歳まで生きたら答え合わせができるのかもしれませんね(笑)」
[直感を頼りに生きる]
4度目にお会いしたのは、岡山県牛窓での個展「Birth」を年末に終えたばかりで、翌月にはSISON GALLERyでの2度目の個展が迫っているタイミングだった。休む間もないスケジュールで新作を描き続けるのは心身ともに大変なことだと思うけれど、妃代さんはとても楽しそうに見えた。
「絵を仕事にできたらいいなとは思っていたけれど、30歳でこんな毎日を送っているなんて、10年前の自分が知ったら驚くと思います。外から見たら、無鉄砲な生き方をしてきたように見えるかもしれないけれど、でも、意外と自分なりには一本筋が通っているんです」
思ってもないことがよく起きる人生。こっちが安全だよっていう選択肢と、こっちいったらどうなるの?という道があったら、いつも後者を選んでしまう。安定みたいなものとは一生無縁かもしれない、と笑う。
「物事の流れはなるべくコントロールせず、身を任せるようにしてここまできましたが、絵を描くことを自分の軸にしてからは、今まで以上に自分に対して嘘がつけなくなりました。夏の苦しさを抜けて、自分の変化を受け入れて、今はすごくまっさらな状態。うまくいっても行かなくても、ひとつの流れの中にいるだけなのだから大丈夫、とどっしり構えることができるようになった気がします」
常に直感で生きてるようなところがあるという妃代さん。会う人も、住む場所も、訪れる国も、選ぶ仕事も、頭ではなく、自分の感覚に従って決めてきた。
「人や場所に対する勘は、昔からすごくいいんです。SISON GALLERyとのご縁も、2023年に偶然前を通りがかって、何か感じるものがあって扉を開けてみたのがきっかけ。そのとき初めてオーナーのチダ(コウイチ)さんと(野口)アヤさんにお会いして、話の流れで絵を見ていただいたら、「個展をやろうよ」とその場で声をかけてくださった。SISON GALLERyは、どんどん変わっていく私の表現をいつも楽しみながら見守ってくださる大切な場所。今回も安心して、変化した自分をぶつけることができそうです」
[Home sweet home]
2026年の2月、SISON GALLERyで行う2度目の個展のタイトルは、「Home sweet home」に決めた。
今までは海外に長期滞在をして、そこで暮らしながら絵を描くということが多かったという妃代さん。今回も個展の前にスウェーデンに行く予定だったが、他の仕事や体調を考慮して渡航の計画が中止になってしまったという。
「どこにも行かず、国内で腰を落ち着けて創作を続けるというのは予想外のことだったけど、外部からの刺激のない状態だからこそ、本当に自分の内側にあるものだけを拠り所にすることができた。自分自身ととことん向き合って、変容していく自分を受け止めることができた気がします」
今までは、どこにいてもその場所を自分の家のようにして暮らす、そしてそこから生まれるものと向き合う、という感覚が妃代さんにとってのHomeだった。けれど、期せずして距離的変化の少ない一年間を過ごすことになったことで、自分が本当に帰る場所は自分の内側にあるということに改めて気づくことができたという。Home sweet home。自分の内側にある、自分だけの愛おしい居場所。そこに焦点を当てて、そこで見出した景色、そこから生まれたものを描いていく。
「自分の内側にあるものを、純度の高い状態で外に出したい。もしかしたら、一年前よりも抽象的な表現が増えるかもしれません。以前から知ってくださっている方を驚かせてしまうかもしれないけれど、今の自分にしか描けない、今の自分だからこそ描けた絵をお見せできると思うので、楽しんでいただけたら嬉しいです」
表情だったり、言葉だったり、作品だったり。妃代さんの内側から出てくるもののあまりの嘘のなさに、私はずっと影響を受け続けている気がする。それらは私をやさしく抱きしめてくれたり、不安なときに寄り添ってくれたり、迷ったときに背中を押してくれたりする。それは、妃代さんの絵にしかできないことだと思う。
この先10年、20年と変わっていく妃代さんの表現を私はこれからも追い続けたいから、私もできるだけ長生きしたいなと思いつつ、まずはSISON GALLERyで新しい妃代さんに会えることが、今のいちばんの楽しみになっている。
text by小宮山さくら/Sakura Komiyama








































