Meet the Artist
吉野瞬/陶芸家、井出雄士/服飾作家 RED AND BLUE
RED AND BLUE
SHUN YOSHINO & YUJI IDE
<朱と青>
吉野瞬/陶芸家、井出雄士/服飾作家
瀬戸内、旅人の町
服飾作家、井出雄士さんのアトリエは、瀬戸内海の青を望む、向島の立花という場所にある。向島は、尾道の対岸にある島だ。
「潮待ちの港町」とも呼ばれた尾道は、小津安二郎監督の名作映画『東京物語』や、大林宣彦監督の「尾道三部作」の舞台として広く知られている。『男はつらいよ』の寅さん(車寅次郎)も、尾道を何度か訪れているし、『放浪記』を書いた作家、林芙美子が暮らした町でもある。
つまり尾道は、「旅人の町」であり、それは今も変わらない。あらゆる世代の、いろんな国籍の旅人がこの町へ辿り着き、暮らしている。井出さんも長い旅の果てに尾道へやって来た。拠点として選んだのが、尾道の対岸にある向島だった。
向島は、尾道から渡船に乗って数分で到着する。渡船は、車ごと乗ることができて便利だ。しかも安い。片道100円ほど。尾道の市街地から向島の立花にある井出さんのアトリエまでは、渡船の待ち時間時間を入れて、20〜30分ほどだ。
向島は、広島と愛媛を結ぶ「しまなみ海道」の、最初の島でもある。そして、しまなみ海道で、向島の次の島が、因島だ。陶芸家の吉野瞬さんがかつて暮らし、アトリエを構えていた島である。
「僕のアトリエがある立花と、因島の瞬さんのアトリエは、ほぼ真向かいというか、対岸なんです。もちろん姿は見えないけれど、海辺に立って因島を望めば、『あそこに瞬さんがいて、器を作っているんだな』と思うことができた」と井出さんは語る。
「だから、瞬さんが因島から出ていく話を聞いたとき、最初あの手この手で引き留めようとしたんです(笑)。すぐそこに瞬さんがいて、いろんなことを話せて、相談できる。それは僕にとって、大きかったから」
瀬戸内ブルーと呼ばれる、美しい青の内海にある向島と、因島。吉野瞬さんはなぜ、その豊かな環境から離れることにしたのだろう。
でも、まずはその前に、なぜ吉野さんは因島にアトリエを構えることにしたのか、どうして井出さんは向島で服作りをしているのか、そもそも、井出さんと吉野さんはいつ、どのようにして出会ったのか、そんな話から始めることにしよう。
向島と因島、瀬戸内のアトリエで
――井出さんと吉野さん、二人の出会いについて教えてください。
井出「僕は向島に来て8年くらいですが、瞬さんと初めて会ったのは、確か2017年だったと思います。その前から『陶芸家、吉野瞬』という名前と存在は知っていました。尾道界隈ではすでに有名だったので。僕らの共通の友人が、地ビール(クラフトビール)造りをしていて、向島でその試飲会が開催されたんです。そこに僕と瞬さんがいて、それが、『はじめまして』でした」
吉野「ぼくは妻から、雄士クンと彼の奥さんのことを聞いて、知っていました。二人は当時面白いブログをやっていたんです。『ロン毛とギャルが向島に移住するまで』みたいなブログ(笑)。変わった人がいるな、きっとどこかで会うだろうなと思っていました」
井出「尾道って、変な人がいっぱいいるんです。間違いなく僕は、そんな変な人たちのひとりです(笑)」
吉野「ぼくは、人付き合いが苦手な人間ではないけれど、すごく仲良くなる人はそんなに多くないというか。大人になると、本当に仲良くなる人というのは少ないと思うんですよね。雄士くんとは、仲良くなったんです。フィーリングが合ったというか。彼の、もの作りに向かう真剣さ、仕事への熱量、デザインのセンスなど、いろんなところにぼくは共感できたんだと思います」
井出「完全に同意です。8〜9年くらい前に尾道に来て、向島に拠点を構えて、刺激的な出会いは数多くあったけれど、ずっと大切にしたいなと思う人は、そう多くはない。瞬さんは、その大切なひとりです」
――どうして因島、向島だったのでしょうか。
吉野「たまたまなんですよね……。僕は栃木県の益子で修行していたんですが、それを終えて故郷の広島へ戻ってきて、個展を開催しました。そのときの自分の作品を見せようという個展でした。その会場に、因島から来ている人がいたんです。ぼくは独立する場所が定まっていなかったけれど、広島の別の場所に候補地はあった。ところが、因島から来たその人の話を聞いているうち、そこに惹かれていった。修行で何年間も住み込んだ栃木県は、海なし県だったので、瀬戸内の島や海、しまなみ海道というワードに引きつけられたというか」
井出「20歳からバックパックで世界中を旅していて、その旅を7年くらい続けました。ずっと『服をやりたい』と思いながらも、服を作ったことはなかった。
旅の最中、自分のノートやスケッチブックに、いろんなデザインを描いていたから、じゃあまずひとつ作ってみようかと。それが、裾が広がったデニムパンツで、お尻の辺りから膝の裏までビビッドな色のラインやドットがあるというデザイン。
そのとき『デニムと言えば岡山だ!』ということで、実家のある群馬から岡山へ陸路で向かおうとした出発前夜、インドで知り合った女性がSNSに『尾道に移住します』とポストしているのを見たんです。『尾道って、どこだ?』と調べていたら、彼女から『尾道デニムプロジェクトで尾道に行く』と連絡が来て、『尾道に来たら?』って誘われたんです。あのとき、尾道と尾瀬の違いもわからないくらい無知だったけれど、それが最初に尾道をめざしたきっかけでした」
僕と瞬さん、ぼくと雄士クン
――二人は互いを、どのように見ているんでしょう。
井出「近くに瞬さんがいたのは、とても勉強になっていました。僕はものごとを重く考えがちな人間です。根がシリアスで(笑)。自分の服作りが、よくいえば信念だけど、ほぼ怨念みたいになっている。服はアートじゃないのに、アートのように考えてしまうんです。本当は『エグみ』みたいなものを削いでいって、シンプルに作りたい、重くならないようにしたい。瞬さんの陶芸を見ると、『重すぎない』。そのバランスはどうとっているのかなっていつも思いながら瞬さんの器や皿を見ている。瞬さんから、いろいろ教わったと思いますね」
吉野「これはあらゆる作家、芸術家に言えることですが、もの作りをしている人は、『作っているものにその人が出る』と思うんです。だから、雄士クンが作るものは、すべて雄士クンそのものです。ただ彼の場合、ストイックな修行僧のようで(笑)。彼はものすごく考えながら服を作っている。命がけで何かを生み出そうとしている、というような感じ。雄士クンは、服のデザイナーというよりも、アーティスト、作家という気がします。彼が、大いに悩んでいる今の時期を終えたとき、どう変化するのか、それがぼくは楽しみでもある。ぼくもまた、自分の『生業』というものを確固たるものにしようともがいていた時期があった。だから、雄士クンの未来にとても期待しているし、楽しみですね」
――吉野さんが、因島のアトリエを畳んで、広島市へ移った理由を教えてください。
吉野「いろいろあるんですが……、一番は、9年間瀬戸内の島に暮らして、環境はとてもよかったのですが、自分が『島の人にどんどんなっていく』という感覚が、あるとき、自分の可能性を狭めているかもしれない、と思ったことです。
因島はのんびり暮らせます。そこでできる仕事の量や質は充分です。あるときからぼくは、それが少し違うというか、面白さが減ってきてしまったというか。(島にずっといることで)自分の考え方が狭まってきているかもしれないなという思いがありました。少しずつ『そろそろ場所を変えてもいいんじゃないか』という思いが大きくなっていった、ということでしょうか」
井出「僕もその気持ちがよくわかる。尾道はとても開いていて、いろんな人と出会えるオープンさがあるのだけれど、逆に、島や人の内側深くに入っていく雰囲気は、あまりないというか。尾道とか向島は、(自分の)内側をのぞき込んで何かを作る、ということには、もしかしたら向いていないかもしれないなと僕も思うことがあります。良くも悪くもポップになるというか。だって僕は、もともとこんなに明るい人間じゃなかったですから。群馬にいるときには『闇の住民』でしたから(笑)」
もの作りに目覚めた頃
――子供の頃、そして、もの作りに目覚めた頃、話を聞かせてください。
吉野「父はサッカーを、母はバレーボールをやっていたので、うちは文化系というより、体育系でした。ぼくもサッカーをやっていましたが、気合いとか根性とか、ちょっと違うなぁという思いがありましたね(笑)。中学の頃には、美術の授業が大好きでした。絵はもともと好きで、絵画の教室に通ったりもしていました。そして、美術の強い高校に進学した。
叔父さんが焼き物を好きで、おばあちゃんは家に焼き物を飾っていたりと、陶芸が身近にあったと思います。油絵、日本画もやって、木彫への興味もあったけれど、最終的には陶芸を選びました。
益子に修業しに行こうと思ったのは、民藝に興味があったからです。濱田庄司、棟方志功、バーナード・リーチなどが好きでした。
結局、8年間、修業していたわけですが、その師匠の窯元に入って、後から人に、『一番キツいところに入ったな』と言われましたね。もちろんぼくは、そんなこと知らなかったんですが。
厳しい日々でしたが、こうして独立して12年目、修業したときに培ったものが、今は確かに生きていると思います」
井出「群馬の田舎町で育って、高校一年生の秋、隣の席の女の子が『装苑』を持っていて、パラパラ見ていた。そこに、現在パリを拠点に活躍する日本人デザイナー、瀬尾英樹さんが出ていたんです。2005年のアントワープ王立芸術アカデミーでの卒業コレクションでした。それを見て、『これが自分のやりたいことだ』と思った。
ひとまず東京の服飾専門学校へ入ったけれど、数日でイヤになってしまった。みんなでこれを作りましょう、みたいな課題を出された瞬間に、これは違うと思って。だから毎日アントワープの学校のWEBサイトを開いて、卒業生たちの作品をつぶさに見たり、図書館に通って、世界中のファッションの本を読みふけっていました。
旅に出ようと思ったのも、瀬尾さんがきっかけでした。瀬尾さんはアフリカを放浪してファッションの世界に入った人。だったら自分もそうしようと思い、専門学校はやめて、旅に出たんです。
7年間、世界各地を巡りました。
いろんな場所に行って、いろんなことがありましたが、その旅の果てに辿り着いたのが、インドで出会った女性のSNSで知った尾道だったわけです。
最初は尾道にいて、ある日、自転車でぐるぐるまわっていた。で、渡船に乗って向島に渡った。島で一番高い山に上がって、多島海の風景を眺めて、坂を下りて海辺に出て、ある場所に着いたとき、『ここだ!』と思った。それがここ、立花の、今僕がいるアトリエなんです」
シソンギャラリーの二人展に向けて
――今回のシソンギャラリーでの展示、二人はどんなイメージですか。
吉野「最近ずっと、個展が多いんですね。で、毎回たくさんの器、皿などを作って、並べていました。だから今回のシソンギャラリーでは、それとはちょっと視点を変えて、数を絞り、ひとつに時間をかけたものを出していこうかなと考えています。昨年5月の『G7広島サミット』の初日、宮島にある老舗旅館でのワーキング・ディナーのために作った朱色の皿がありましたが、今回も朱色のものは出したいなと思っています。ただ、ぼくは毎回デザインを大きく変えるので、今回もどうなるか、作り始めてみないとわからないですね」
井出「僕も同じです。ちょうど昨日の夜、少し考えていたんです。デニムを4、5タイプと、和っぽい羽織。ハンドルミシンで刺繍して。あと、ベージュのリネン生地のワンピースと羽織……、そんな感じでやりたいなぁって、考えていました。自分は最近、頼まれてやっている仕事にずっと追われていたので、この個展はそういったルーティン仕事ではなく、楽しみとしてやります。瞬さんの朱色は、僕のデニムや羽織の青に、とても合うと思うので、二人で一緒に展示できるのが、とても楽しみです」
text by Eiichi Imai
SHOJI MORINAGA 盛永省治/木工作家
“Going back to the basics and improving the quality of each piece sculpture, mainly stools, bowls and vases.”
SHOJI MORINAGA
木という生き物に対峙する
鹿児島県の中央部に位置する自然豊かな日置市に、木工作家・盛永省治さんの工房はある。急カーブが続く県道沿いには樹木が生い茂り、近隣に目印となるような建物はないものの、無造作に転がる丸太が表札以上のサインとなっている。
盛永さんの朝は早い。
鹿児島市内の自宅を朝5時に出発して5時45分に工房着。メール対応などの事務処理を終え、毎朝7時に盛永さんの創作活動は始まる。VANSのスニーカーを履いた今どきの姿も、フェイスシールドを身につけると纏う空気が一変。ウッドターニング技法を用いて、木の表情を読みながら削り出していく。
ウッドターニングとは、円柱状に切った水分を含んだ柔らかい生木を回転旋盤に固定し、回転させながらチェーンソーで削り出していく技法のこと。一般的に「木工」といった時に思い浮かべるような机などとは異なる、自由な曲線を作ることができるのが特徴だ。削り出した後に乾燥させることで、水分が抜けて木が歪み、それが作品の表情となる。
全ての工程が確かな技術と研ぎ澄まされた感性が必要なのはもちろんのこと、体力勝負ともいえるため、昼寝を含む休息を適宜挟みつつ、夜7時まで創作活動は続けられる。帰ってビールを一杯飲み、一日が終わるのだという。
用途がありそうでないもの
「休日も娘とスケートボードをするくらいで、これといった趣味がないんですよ。工房には週6で通っていて、ずっと作業しています。たくさん作っているうちに自分っぽいのができてくればいいかなと思って。あんまり無理してオリジナリとかを考えちゃうと作れなくなっちゃうので。本当はサインも彫りたくないくらい」
作業の手を休めながら言葉少なに語る盛永さんのこれまでの道のりは、偶然と必然が入り混じっている。大学時代にプロダクトデザインを専攻したものの、時代がちょうど深刻な就職氷河期だったこともあり、卒業後は地元鹿児島県へ戻った。今でこそ鹿児島には自由な発想を持つ作り手が多く存在するが、当時は幕開け前夜。昔気質の木造建築の大工の元で2年間働いたという。
その後は、ランドスケープ・プロダクツの立ち上げメンバーであり、現在はDWLL名義で活動する川畑氏に頼み込み、見習いとして修行を開始。店舗の什器や個人宅の家具の作り方を実践の中で学んだ。
そして、徐々に湧いてきたのが「一から自分で作ってみたい」という気持ち。仕事時間外にアトリエを使わせてもらって、自由な制作に勤しんだ。
「ランドスケープ・プロダクツがアメリカの買い付けに行く際に同行させてもらって、その時に見たものから影響を受けましたね。ヴィンテージの家具屋さんでキャビネットの上にさりげなく置かれたウッドボウルだったり、オブジェだったり。用途がありそうでない、生活に溶け込むアート、木工作品みたいな領域に惹かれたんだと思います」
実用家具からウッドボウルへ
川畑氏の元、7年間の修行期間を経て独立。オーダー家具制作等に明け暮れる傍ら、空き時間を見つけてはウッドボウルを作り始めた。
「今でこそ木の器を作る作家はたくさんいますが、当時はまだほとんどいなくて、海外のYouTubeを見て必要な道具を揃えたりしていました。家具だと発送するのが大変だけれど、木の器なら自分一人で発送までできるし、色々な人に見てもらえる機会が増えるかなと思ったんです」
その時々で手に入った木材の厚みから形を考える面白さに魅了されてウッドボウル作りに没頭していた頃、ランドスケープ・プロダクツの中原氏より、カリフォルニアの彫刻家アルマ・アレンの仕事を手伝いに行って欲しいという依頼を受ける。
「結果的にとても有難い経験になっていますけれど、『もう話はついているから行って欲しい』って言われて(笑)。3ヶ月間でしたが、今まで独学でやってきたことに対する答え合わせも含め、たくさんの学びがありましたね」
カリフォルニア修行中には、日本人が経営する雑貨店で初の個展も経験。今まで一人黙々と作ってきたものが「繊細で美しい」と評価されたことも、木工作家として進む後押しになった。
スツールは実用性も備えたオブジェ
カリフォルニアから帰国後、大きく変わったのは丸太を仕入れるようになったこと。そして、アルマ氏と同じ機械も購入し、今や盛永さんの代名詞となっているスツール作りもスタートした。
「アルマのスツール作りを見ていたものの、一年を通じカラッと乾燥したカリフォルニアと湿度の高い九州では勝手が違い、トライ&エラーを繰り返しました」
次のステップに進めないと悩んでいた矢先、鹿児島県の工業技術センターが木材を乾燥させる大きな窯を持っているらしいという情報を入手。すぐに相談に行き、使わせてもらえるようになった。そして試作、経過観測を幾度も繰り返し、温度、時間共にベストな組み合わせに辿り着いたという。今では約2か月で完成させられるようになったという。
家具という実用に始まり、ウッドボウルで注目を集め、スツールで作家性をさらに開花させた盛永さん。木工作家として今後向かう先を尋ねると、その回答は「ギリ一人で発送できるやつです、かね」と至極明快。制作から発送まで自分一人で完結できるサイズ感の、実用性も備えたオブジェが今後のバロメーターになっていきそうだ。
盛永省二の世界
木の個性を見極めて導き出されたなめらかな曲線と、唯一無二のフォルムが魅力の作品たちは、その場の空気を変えてしまう大らかな強さを秘める。極めて静的でありながら、どこか生き物の気配を感じさせるのは、木の個性を大事に、木そのものの生命活動が尊重されているからではないだろうか。
今回の展示では、バリエーションがさらに増えたスツールを中心に、スカルプチャー、ウッドボウルやベースなど幅広くラインナップ。世界にその名を知られるようになったウッドターナーの生み出す作品に触れ、その温度、そして鹿児島の現在地をぜひ感じて欲しい。
盛永省治
1976年鹿児島生まれ。家具メーカーで職人として勤務ののち、
2007年に自身の工房を始める。同時にウッドターニングを独学にて開始。
その後アメリカを代表するアーティスト、アルマ・アレンに師事。
現在はウッドターニングによる作品を主に国内外での個展や合同展を中心に作品を発表している。
http://www.crate-furniture.net/
文:本間裕子
写真:チダコウイチ
WOMEN WITH SOMETHING ON HER HEAD YUKA SAKAMAKI
猫のいる部屋で描かれた絵 坂巻弓華/画家
頭に「何か」をのせた女性たち
かれこれ1年ほど前、坂巻弓華さんの絵を初めて見た。
ときどき立ち寄る、とあるセレクトショップの二階がギャラリースペースになっていて、いろんな作家の展示がおこなわれている。その日もいつも通り、一階にある生活雑貨、衣服、植物などをゆっくりと見て、それから二階へ上がると、絵の展示がおこなわれていた。
ほぼ正面から描かれた女性のポートレイトがいくつもあった。多くは上半身のアップで、視線はどこかを見るともなく見ているという感じ。女性たちは黒髪のショートカットで、頭の上にシロクマをのせていたり(クマは、そこにいるのが「あたりまえ」という感じだ)、右腕に猫をのせ左手で縫いぐるみのクマをつれていたり、動物がモチーフになったトンガリ帽子をかぶっていたり。なんだか、おもしろい。
最初、油彩画と思ったが、近づいてよく見ると、アクリルのようだ。ただ、かなり分厚く塗られている。人物の背景はいろんな色で描かれているが、基本的にモノトーンで、一見すると静謐な肖像画という感じ。風景画、静物画もあった。
どれも、ちょっぴり不思議な感じがする絵で、なんとなく頭に浮かんだのは、マグリット、有元利夫。
それから、吉本ばなな、村上春樹という名前も連想した。というのは、どれも「物語」を感じる絵なのだ。小説、絵本の、さし絵か表紙のようでもある。あるいはこの画家は、何か物語を自分で創作して、それに合わせるように絵を描いているのではないか、などと勝手に想像した。とても魅力的な絵ばかりだった。
描かれている女性たちの顔が、どれも同じようにも見えた。画家自身の顔、つまりこれはセルフポートレイト(自画像)なのだろうか。いったい、どんな人が描いているのか。
坂巻弓華、という名前を、このときに知った。坂巻弓華さんとは、どんな人なのだろう? 坂巻さんが描く絵に物語があるならば、それも読んでみたいなと思った。
それから一年ほど経って、シソン・ギャラリーで坂巻弓華さんの個展が開催されることになり、坂巻さんにお会いしてインタビューすることになった。
春の少し冷たい雨が降る午後、坂巻さんの住居兼アトリエを訪問した。一緒に行ったシソン・ギャラリーの女性オーナーの上着の裾が、雨の中を歩いてきたからだろう、少し濡れていて、それを見た坂巻さんはすぐ、「あ、濡れちゃいましたね」と言って奥へ行きと、タオルを手に戻ってきた。
アトリエは二階だった。天井がとても高い、広々とした部屋で、その一画に、小さなアトリエがある。
座り心地の良さそうなソファに、ふわっとブランケットがかけられていて、その下に猫がいることはすぐにわかった。絵の中で女性の頭の上に丸くなっていた猫だろうか。(姿は見えずとも)そこに猫がいる、ということが、なんだか嬉しかった。今、猫がいる部屋にいるのだ。
床には、描き終わったばかりの絵が何枚か壁に立てかけてあった。そこにも、あの女性がいた。一年ほど前の個展で見た女性だ。
女性たちはみんな、こちらを向いている。視線は、こちらをじっと見ているようにも見えるし、どこか違うところを見つめているようにも見える。頭の上に一本のニンジンをのせた女性もいる。緑の葉がたっぷりついた大きなニンジンだ。
女性たちはみんな、大人のようでもあり、少女のようでもある。絵を見てから、円いテーブルを挟んで坂巻弓華さんと向かい合うようにして座った。やっぱり絵の女性と同じ人だ、と思ったので、(そのことをどう訊けばいいか、迷っていたのだけれど)最初の質問はこうだった。
「絵の中の女性たちは、みんな坂巻さん自身ですか」
誰でもない、どこかにいる人
「ときどき、そう訊かれるんですが、違います、私じゃないです。特に「誰か」と決めてないんです。でも、たまたまみんな似た顔になっていて。手癖で同じような顔になってしまうんだと思います。もちろん、参考にするために自分の顔を鏡で見ることはありますが、自分を描いているわけではありません」
――この女性たちには、モデルがいるのですか。
「私、すごいくせっ毛なんです。だから、「さらさらロングヘアーの女性は描かないぞ」というのは、どこかで決めていました(笑)。くせっ毛の人を描いてあげようって思って。モデルはいないのですが、うっすらと「定義」のようなものがあります。若いのか若くないのか、どうもよくわからない女性です。子供っぽく見えるんだけど、子供じゃなくて。私よりきっと年上なんだけど、どこか幼いところもある人」
頭にのせるもの、絵と物語
――最初に描いた「頭に何かをのせた絵」、覚えていますか。
「いつ頃から頭の上に何かをのせているんだろう? 二年くらい前でしょうか。何かのイベントのときに、頭に何かのせて描いたら、「もっとそれ描いて」って言われたんです。「(何か)頭にのせている絵が欲しい」って。それで描くことが多くなりました。
何でもいいというわけじゃなくて、たとえば魚は生臭いから頭にはのせたくないなと。魚は私の好きなモチーフのひとつなんですが、魚を描くときは手に持たせます」
――タイトルが、物語のような、短歌のような。
「タイトルは、詩を作るような感じです。先に決めたりはせず、絵を描き出してから、どんなタイトルにしようかな?って考え始めます。描いていると、テーマみたいなものが現れてくることもあるし、描き終わってからタイトルを考えることもあります。もともと文章を書くのは好きでした。十代のころ、何かを書きたくていつも書いていたんだけれど、でも書けなくて、以来しばらく(書くことを)封印していました。二十代後半になって、また書き始めた感じです」
――好きな作家、好きな本はありますか。
「好きな作家さんはたくさんいます。吉本ばななさん、堀江敏幸さん……、新しい作品が出たら買ってすぐ読む、というタイプでなくて、好きな作家の好きな作品を繰り返し読むことが多いかな。牧野伊三夫さんの文章は好きですし、大竹伸朗さんの文章も読んでいましたね」
――今回の個展のDMにもなっている絵の女性は、頭にニンジンをのせていますね。俳句のようなタイトルは、「マヨネーズの美味しさに気がついた17のあの夏」
「最初ニンジンはなくて、この人の絵を描き始めて少ししてから、どんなタイトルにしようかな?って考えていたら、「マヨネーズっぽい色の服にしよう」というのが決まったんです。で、マヨネーズに合うものは?と考えたときに、ニンジン(笑)」
画家として生きること
――ずっと絵が好き、描くのが好きでしたか。たとえば幼い頃とか、よく絵を描いている少女でしたか。
「確かに子供の頃にも絵は描いていたと思いますが、夢中で絵を描いていたとか、そこまでではなかったように思います。というか、子供の頃何をしていたか、わりと記憶が希薄です。ただ、親や親戚の影響もあって、何か「描く」という行為が近くにあったと思います。画家になりたいとか、そういうふうにはまったく考えていませんでしたね」
――今は日々、何かを描いていますか。たとえば、朝、起きて、どれくらい描いているんでしょうか。
「朝、ふつうに起きて、歯を磨いて、コーヒーを飲んで、猫のことをやって、そして描き始めます。あんまり家事とかもせず、なんとなく絵を描き始めます。展示が近くなると、朝から夕方、夜になるまで描くこともあります」
「ここ一年、一年半くらいかな、急に忙しくなってきた気がします。展示が次々あるので、いつも絵を描いているという感じになっています。なんだか、毎日ずっと描いていますね(笑)。その前までは、のんびりしていたと思います。販売員などのアルバイトをしながら描いていたときは、時間が空くと描く、というペースでした」
「五日間くらい続けて休みたい!って思うこともあるけれど、今こうして(絵に)集中できるのは嬉しいです。そもそも絵で生活できるなんて考えたこともなかったから。周りの人たちも、「絵で食べていくなんて無理」って言っていたし(笑)。ラッキーだなって思います」
「絵の仕事を始めたばかりの頃は、駆け出しだから、自分のことを「画家」と名乗るなんて、という気持ちがどこかにありました。何かしら描いて仕事にするならイラストレーターかなとも思いましたが、私は技術があるわけではないし、発注されて注文に応じてイラストを描くというのが、自分には向いていないなーと思って」
「あるとき、小さな個展をやっているときでしたが、人から「イラストの仕事をしているんですか」と訊かれたんです。そのとき、わりとはっきりと「いや、イラストはやっていません」と答えたんですね。そうしたら、気持ちがすごく楽になりました」
「注文されても、自分には難しい絵もあるし、できないと思うテーマもあると思うんです。でも、今のスタンスなら、自分が描きたいものだけ描けばいいから、楽です。締め切りは大変ですが、やっていることは大好きだし、描きたくないものは描かなくていいから。ただ、自分にもっと技術があればなぁって思うことはあります」
「私の絵には、哲学的なこととかは一切なくて、あるのは感情です。私が描いている女性は、たとえば、「私は傷ついている、けれどわかってもらえてない。気づいて欲しい」って思っているとか。私にとって絵は、「感情」ですね」
――坂巻さんの漫画も好きです。四コマ漫画、三コマ漫画、ひとコマだけというのもありますが、漫画はどんなときに描くのですか。
「四コマ漫画みたいなのが好きで、昔から描いています。自分でバカ漫画って呼んでいます。これはあくまで私の漫画の描き方ですが、だらだらやるのが楽しくて、好きなんです。夜にお酒とか飲みながら、自由に描いたりします。漫画を描くときは、自分が楽しい気持ちのときですね。ただ、「アイツが憎い!」とか思いながら描くときもありますけど(笑)」
猫のいる部屋で生まれる絵
坂巻さんのアトリエは、こぢんまりとした空間だ。意外に小さなスペースですね、と言うと、坂巻さんは、「狭いですよね。テーブルの上に台を置いて、その上にキャンパスを立てて描いています。(その場所では)大きな絵は描けないから、いつか大きいのを描くときは、どうしようかなって思ってはいるんですが」と言った。
壁の高いところに、正方形の窓がある。その下に、高校生の勉強机くらいのサイズの(けっして大きくはない)デスクがあり、その上にアクリル絵の具がたくさん置かれている。かわいい木の椅子もこぢんまりとしたサイズ。三方は白い壁で、手を伸ばせば届くくらいの距離感。つまり、小さな、狭い空間なのだ。そこで坂巻さんは絵を描いている。
頭にニンジンやシロクマや猫がのっている女性たちのポートレイト画が、「この空間で生まれている」と知ると、すっと納得できた。そこはまさに、あの女性たちの絵が生まれている場所にぴったりだからだ。イーゼルが置けないから、確かに大きな絵はここでは描けないけれど。とても大きく描かれたあの女性の絵(頭に何かがのっていても、のっていなくても)も、いつか見てみたい。
坂巻さんが、猫がすうすうと寝ている部屋の片隅にあるこのアトリエで、小さなキャンバスに向かっている姿を想像する。
くせっ毛でショートヘアの坂巻さんが、くせっ毛で黒髪の女性のポートレイトを描いている。頭には、次は何がのるのだろう。あるいはもう、何ものらないかもしれない。
猫が起きて足下にやって来るまで、机に飛び乗って描くのを邪魔するまで、坂巻さんは描き続けているだろう。やがて、遅かれ早かれ猫はやって来る。
そのようにして画家・坂巻弓華さんは、日々、絵を描いているのだ。
text by Eiichi Imai
photography by Koichi Chida
奥山泉/陶芸家、彫刻家、画家、木工作家 NEVER STOP MAKING 「作る人。」
「あれもこれもやってみたい」
「子供の頃から、何か作っているのが大好きでした。ぜんぜん器用じゃない、でも、何か作っていると落ち着くというか」
奥山泉さんのその気持ち、姿勢は、今もまったく変わらないようだ。
「いつも、何かしら作っています。いつだって手を動かしている自分がいる。材料はなんだっていいんです。なんなら場所もどこだっていい。素材は無限にあると思っています。この世のあらゆるものを試したいという気持ちがあるんです。木工だけ、陶芸だけ、というようにひとつの素材やジャンルに向かうよりも、私は、あれもこれもやりたいんですね。願わくば全部試してみたい、というか」
奥山泉さんにインタビューしているとき、その「あれもこれも」という奥山さんの気持ちがあふれてくることが幾度もあった。
奥山さんは、木彫について話しているのに、ふと気づくと陶器の話に変わっていて、ところが途中で山羊の話をしていて、それもどこかで絵の話になっている、という具合なのだ。夢中になることがたくさんあり過ぎ、あふれ出てしまうので、話の対象もどんどん変わる!
山形と沖縄の二拠点で創作活動を続けている奥山さんだが、そのどちらの家、工房も、「いろんなものがあり、途中の作品もたくさんあって、いつまでも片付かない」と困ったように笑う。その家に行ったことはないが、奥山さんと話していると容易にそのカオスな様相が想像できる。
要するに、あれもこれも、なのだ。そして奥山さんは、夢中になると他のことを忘れてしまうし、作ることが大好きだから、次々と、そしていつまでも、作り続けてしまう。
奥山泉さんは、無限に、永遠に、「作る人」である。
山形の菓子屋と骨董屋で
「生まれは山形県の天童市。実家はもともとお菓子屋でしたが、途中から骨董屋もやっていました。駅のデパ地下に店があって、両親は一年中働いていて、私も小さい頃からいろいろ手伝っていました。袋に詰めたり、配達したり。
並行していつの間にか骨董屋が始まっていて、父親がどこかから仕入れてきた絵画、掛け軸、剥製、彫刻、焼き物、楽器まで、家にはどんどん謎のモノが増えて、カオス状態になっていきました」
「茶の間にはいつもたくさんの人がいました。煙草の煙で部屋はもくもく真っ白。私が「ただいまー」って学校から帰ると、「おかえり」ってお客のおじちゃんたちが迎えてくれることもありました。家の人はお菓子屋の仕事が忙しいので、お客さんで来たおじさんがお客さんにお茶を出したり、相手をしていましたね。
幼い私は、父親が仕入れてくる絵や彫刻に興味を持ちました。後から思えば、父親の骨董品収集の影響を受けているのかもしれません」
「父も母も美術への興味はあったと思います。ただ、日々の仕事が忙しくて、趣味とか持つ時間はなかったですよね。二人とも文学が好きで、家には本もたくさんありました。夫婦で文学談義していました」
「戦後の大変な時代を生きていた人たちです。父はきっと「小説家になりたい」と思っていたはず。一度家族に秘密で東京へ行き、大学受験をして合格し2年ほど東京に暮らしました。家の都合で山形へ戻らなければならなくなり、やがて母と父は結婚した。
父は、親が作った借金を返したら大学に戻るつもりでいただろう、と母は言っていました。簡単に返せる額ではなかった、とも。
父は、ずーっと東京へ戻りたかったはず。(家を離れて)行かなければという気持ちがあったように私は思います。父には、いつも「何処かへいなくなる雰囲気」があった。何かがやりたい、という思いが心にあったんでしょうね。
父はいつも何かを書き、歌なんかも作っていた。私には作ったものを見せてくれたんです。あるとき私が、父ちゃん、これどこかに出した方がいい、と言うと、「他人様の前に出すようなものじゃないんだ」と言われましたね」
「画家になならなければいけない」
「子供の頃から何か作っているのが好きで、あるときから「画家にならなければいけない!」みたいな思いを持つようになりました。
その頃、TVアニメで『フランダースの犬』が流行っていて、その影響か?なんて思ったりもするんですが、子供の頃のイメージだと、画家や芸術家は不安定。もっと堅実な道を歩まなければならないという気持ちがありつつ、一方で、「画家、芸術家にならなければ」という思いもすごくあった子供時代でした」
「でも、学校でたとえば、将来なりたいもの、というテーマがあっても、画家になりたいとは絶対に書かなかったし、「それは書いてはいけない、言ってはいけない」と考えていたというか。そう簡単に「画家になりたい」とか、おいそれと言ってはいけないと思っていたんでしょうね。「将来なりたいものは、美人」とか書いていましたね(笑)」
「私はラジオっ子でした。あるとき聞こえてきたのが沖縄の島唄でした。独特の音階、知らない楽器の音色(三線)など、とても神秘的に感じられて。「オキナワって、どんなところなんだろう?」って思いました。インターネットのなかった時代ですから、雪深い山形にいた私は、遠い異国を思うように、音楽に導かれるようにして、沖縄について毎日想像を巡らせていたんだと思います」
「心の芯の部分で画家になりたい、芸術家になりたいという思いがあったけれど、「もの作りしながら生きるならデザイナーかな」って思って、浪人しました。
美術予備校の先生にも高校の美術の先生にも、高校の美術の先生にも、私はファインアートの方が合うんじゃないか?と言われていましたが、私は、芸術家になるよりも、仕事に繋がりそうなデザイン科に入らなければ、と当初思っていたんです。
ところがその頃、心を動かされる彫刻を見たんですね。ブロンズで、すごく感動して。なんだろうこれ?と思って」
「沖縄、彫刻と調べたら、沖縄県立芸術大学というのがあるとわかった。受験内容が、彫刻家はふつう粘土とかの実技があるものなんですが、その頃の沖縄芸大は素描とデッサンだけでした。これならいけるかもしれないと思って、受けたんです」
「沖縄は受験で行ったのが人生初でした。すぐ好きになりました。4年で帰るつもりが、気づいたら35年です。故郷の山形と共通点があるんですよ、懐かしい雰囲気とかね、ぜんぜん気候は違うんだけれど。でも私、どこに行っても合いそうで。自分があまりないというか(笑)。どこでも合うし、どこでも作れるし、素材は何でもいい。技能は高くないんです。ただ、私は「しつこい」。しつこくやり抜く技術は一際高いと言えるかも」
ままならない二人
「沖縄と山形と、1年の半分ずつくらい過ごしています。シソンギャラリーの展示前は、2か月ほどずっと山形の実家にこもって、作品作りに集中しています。
ここ(山形)にいると、すごく沖縄のことを思う。沖縄にいるときは、すごく山形を思う。意識はしませんが、土地も影響し合っているのかなーって思います」
「吉田さん(奥山さんの夫)は大学の同級生でした。彼は東京の人。沖縄で出会って、ずーっとつきあっていたんですが、結婚したのは最近です。ままならないふたりだったので、結婚せず、それぞれ創作活動に励み続けてきた数十年でした。
夫婦でアーティストですが、創作に関して相手のことは特に気にならないですね。向こうが寝ている横で私が木をホリホリしていることもあります。ただ、こっちが休んでいて、向こうが(創作を)やっているのを見ると、「やばい、やらなきゃ!」って思ったりします。
二人に共通しているのは、「これが好きだからやっている」ということ。私も彼も、これが仕事という意識がほとんどなくて、好きなことをやっているんです。私たちにとって、作っているときが一番楽しくて、嬉しいとき」
「集中して、時間かけてやって、「思ったものができましたか?」と問われると、うーん……と腕組みしますね。でも、「思ってないものができた!」という驚きや喜びやしょっちゅうあります」
奥山泉の世界
木も粘土も、ブロンズも石膏も、油も水彩も日本画も、「この世にある、あらゆる素材や材料を試したい」と奥山さんは言う。「ひとつを極めるより、あれもこれも」
木を彫って彫って、掘り続けて、木の方から形が現れてきて「こうだ!」と気づくこともあるという。
猫の形を彫っていたら、木の残っている部分に何かを掘りたくなって気づいたらそっちを掘っているということもある。
そうやって、どんどん変わっていく奥山さんの創作世界。今回シソンギャラリーで展示するのは、皿など「陶芸」がメインで、「木工」も少し入るという。そんなふうに、今回の個展の話をしていたら、気づくと奥山さんは「山羊のこと」を話している。
あれ、いつ話が変わったのか?
「沖縄で、近所に山羊を飼っている寡黙なおじさんがいるんです。山羊小屋があって、山羊をとっても可愛がっている。沖縄の人は山羊を食べますが、おじさんは山羊を食べない。「山羊を育てて、一緒に生きるのが喜びだ」って言う。
私の木彫や絵に山羊がよく出てくるのは、おじさんの山羊がいるからです。おじさんの山羊小屋のある場所の風景がすごく好きなんです。それで、山羊を描く、その場所の景色を描く。……って、あれ、何の話、してましたっけ私?」
集中して、作って、作って、しつこく作り続ける人、奥山泉さんの個展。奥山さんの「世界」が、垣間見られるはずだ。
text by Eiichi Imai
photography by Koichi Chida/ Izumi Okuyama
長谷川有里/人形造形家、ぬいぐるみ作家、アーティスト 「人形たちのいるところ。」
WHERE THE WILD PUPPETS ARE
YURI HASEGAWA
人形たちのいるところ。
長谷川有里/人形造形家、ぬいぐるみ作家、アーティスト
大塚「ボギー」
ミュータント・タートルズ、シンプソンズ、ブルース・リー、OJ・シンプソン、ジャバ・ザ・ハット、MC・ハマー、ヒッチコック、アインシュタイン、オビ=ワン・ケノービ、ギズモ、考える人、プレイボーイ(のロゴ)、ラコステ(のロゴ)、マイケル・ジョーダン、パブロ・ピカソ、アンディ・ウォーホル、フリーダ・カーロ、チャーリー・チャップリン、毛布を手にするライナス、ラーラ(黄色のテレタビーズ)……
自分が好きな長谷川有里さんの作品を挙げていくと、きりがない。他にもたくさん、「あ、いいなこれ」「ほしい!」というものが続く。
ちなみに、上に並べた人物やモノはどれも、「それそのもの」ではない。
長谷川さんが生み出す作品は、「すごくホンモノに近いけれど、ちょっと違う」「そうじゃない、でも、とってもそうだよね」という存在である。
長谷川さんの作品は、ワイルドなパペット(人形)たちだ。
スパイク・ジョーンズはきっと長谷川さんの人形を大好きになるだろう。スパイク・ジョーンズの自宅やオフィスに長谷川さんの作品がさりげなく置いてあっても、驚かない。もし彼が、『かいじゅうたちのいるところ(WHERE THE WILD THINGS ARE)』の続編を撮ろうとしたら、長谷川さんに仕事の声がかかるかもしれない。「よかったら一緒にやらない?」と。もしそうなっても、驚かない。もし、そんなことが本当に起きたら、それこそとってもワイルドなことだ。
ぬいぐるみ作家、フェルトの人形造形家、アーティスト、長谷川有里さん。1978年三重県生まれ。2002年に東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻を卒業した。
長谷川さんがインタビュー場所に選んだのは、JR山手線と都電荒川線の大塚駅から歩いてすぐの喫茶店「ボギー」。カフェではなく、喫茶店と呼びたい場所。でも店の看板には「Coffee House」と書いてある。ナポリタン、ドライカレー、カレーライス、ショウガ焼き定食なんかもあって、煙草が吸える(長谷川さんも僕も煙草は吸わないけれど)。
長谷川有里さんと会って、彼女の作品について話を聞くのにこれほどパーフェクトな場所は、なかなかないだろうなと思う。この店を選んだのはもちろん長谷川さん自身だ。
というわけで、大塚の「ボギー」の窓辺の席に座って、おいしいアメリカンを飲みながら、長谷川さんの話に耳を傾ける。
ひとりが好き、“良くないもの”が好き
「大塚に17年、住んでいました。地蔵通り、ずっと同じところです。
生まれ育ちは三重県で、伊勢神宮まで自転車ですぐのところ。生き物が大好きな子供でした。犬猫はもちろん、昆虫、両生類、何でも大好きな子供でした。家のまわりには田んぼや畑が広がり、川や海も近かったし、遊べるところがいっぱいあったから、いつも外で遊んでいました。父親には釣りに連れていってもらったり。
でも、友だちと一緒に出かけたりということが好きだったわけじゃないんです。基本ひとりでいるのが好きな子供でした」
「実家は、アートとは無関係、ぜんぜんフツーの家。父親は映画が好きで、映画館に連れていってくれたけれど、それくらいかな。家族誰も絵なんて描かないけれど、私は絵を描くのが大好きで、いつもめっちゃ描いていました。習ったりしたことはなくて、ただ自由に、ひとりで。
高校まで地元(三重)で過ごし、進路を決めるとき、両親は、私が絵とか好きなことを理解してくれていたから、「迷っているなら、そっち(芸術)の方面に進めば」とアドバイスしてくれたんです」
「浪人中に東京藝大の藝祭に行ったんです。それが、もう最高に楽しくて。そのとき、私はここ(東京藝大)しかない!と思ったんです。藝大を志したのは、「〜教授の授業を受けてみたい」とか、「〜を学びたい」とか、そういうことではなくて、学園祭(藝祭)が面白かったから。東京藝大に進学した主な理由はそれです。
日本画には興味なかったから、油絵専攻。映像にすごく興味があったけれど、その頃にはまだ映像を教える科がなかったので。
当時自分が描いていた絵を見返すと、めちゃくちゃ抽象画やっているんですが、今見ると何も面白くない(笑)。
その頃の私が好きだったのは、ゲルハルト・リヒター、エドワード・ルシェ、ジャスパー・ジョーンズとか。でも、だんだん“良くないもの”から強い影響を受けるようになっていったんです」
「つまり、スケートとか、音楽とか。自分の興味の対象がそっち方向に行き始めてしまった。学校で絵をやるよりずっと楽しいことと出会ってしまったんです。
私の理想は、ビューティフル・ルーザーズ。トーマス・キャンベル、マーク・ゴンザレス、ハーモニー・コリン、シェパード・フェイリー、マイク・ミルズ、彼らのように生きられたら最高だろうなって思っています。ビューティフル・ルーザーズのアーティストたちは、ずっとDIYでなんでもやっていて、それがカッコいいなって思う。
彼らはもともとスケートボード・カルチャーから始まっていますよね。みんな“居場所のない人たち”だった。だから、外の世界、街の路上とか、公園とかに集まっていた。私もそういう子供だったから感覚的にわかります。
ただ、彼らと私は、暮らしている場所も何もかも違う。向こうはアメリカ西海岸、カリフォルニアのストリート。私が属しているのは日本の美大。真似だけしても、説得力がない。でも、強い憧れはありました。だから、もっと後になってからだけれど、アメリカへ行って、1年ちょっとロサンゼルスに暮らしました」
STRANGE STORE、人形作りの始まり
――なぜ、ぬいぐるみ、フェルトと手縫いの人形だったのでしょう。
「現代美術家の加賀美健さんがやっていたSTRANGE STOREを初めて見に行ったとき衝撃を受けたんです。自分が行きたかった方向がある!というような気づきを与えてくれた場所であり、出会いでした。
STRANGE STOREは展示もできる空間だったので、無謀にも即効で、「私にも何かやらせてください!」と加賀美健さんに伝えました。それである日、自分の作品を持っていき、見てもらったんです。
そのとき私がやっていたのは平面で、まだ人形は作っていません。ただ、今やっている人形に繋がるコンセプトがすでにありました。私がそのとき描いていた絵は、「小さな孫が、おじいちゃん、おばあちゃんに向かって、これ描いて、と頼んで、それでおばあちゃんが描いたシンプソンズ」という設定の作品でした。
今、人形で私は、そういった「設定」をいつもあれこれ考えて、それで作っているんですね。そこには「物語」があるんですよ。私の場合、物語、設定というのかな、それが大事なんです。
で、加賀美健さんに、「これの展示をさせてほしい」とお願いしたら、やらせてもらえることになったんですが、そのとき健さんは私に、「絵だけじゃなくて、人形を作ってみたら」と言ったんです。で、同じようなコンセプト(設定、物語)で人形を作ってみた。これがすべての始まり。2014年のことでした。
フェルトと手縫いの人形の始まりはSTRANGE STOREでの展示で始まったんですね。ちょうど10年前に」
「それで、最初に作ったのはやはりシンプソンズ。小さなサイズで、今の半分くらいの大きさかな。STRANGE STOREで展示したら、みんなが買ってくれて嬉しかったですね」
――人形ですが、作業は絵の下描きから始めますか?
「はい、A4の紙に下描きします。それをトレースして、布を切っていく。製作過程は意外に面倒くさいんです。縫うところまで、何工程かあります。
下描きはなるべくサクサクっと描くようにしています。時間をかけると沼にハマってしまうから。そうなると時間がかかる。1分くらいで描けちゃうものもあるし、できたと思って翌日にあらためて見ると、これは本物に似すぎていてダメだ、となったり」
――いろんなキャラクター、モノがあるますが、「何をモチーフにするか」というのは、どう決めているのですか?
「最初の頃は、シンプソンズのように、もともと自分がよく知っているキャラクター、好きだったものを作品にしていました。でも、途中から探すようになりました。いろいろ検索していって、「これ、自分の人形にしたら面白そうだな」というものと出会うとストックしておく。ただ、キャラが面白いとか、キャラが有名とか、そういう理由では選びません。
私の作品では、「設定を作る」ことが大切なポイント。すべての人形にそれぞれの物語がある。だから、物語のためにキャラクターを選んでいますね」
――自分が作ってきた中で、特にお気に入りのキャラクター、好きな人形というのがありますか?
「それもよく聞かれるんですが、ぜんぜんないんですよ。作りやすい人形、わかりやすいキャラというのはあります。でも、自分が特に大好きというのは、ほとんどなくて。
私は、どんな作品でも、できあがったらポイッとしちゃうタイプなんです。完成したら終わり、という感じ。買ってくれたらもうそれはその人のもの。自分の作品に愛着はあまりないですね」
――それでも、長谷川さん自身が「これが作りたいな」と感じるものだけ、ですよね。
「そうですね。私がピン!と来なければ、それは作る対象にならないし、そもそも物語が生まれてこないです」
――たとえば、『ツイン・ピークス』のドーナツはどうですか?
「いいですね(笑)。そういう小物はとってもいいです。自分が忘れているものも多いので、けっこう面白いものがあるから、いつも探しています」
――音楽ネタはどうですか。
「最初から、ビースティ(ボーイズ)はよく作っていました。あとは、エルトン・ジョン、RUN DMC、レッチリのフリーも初期の頃に作りましたね。ラモーンズ、KISS。
映画だと、『ビッグ・リボウスキ』でジョン・タトゥーロが演じたジーザス。『ビッグ・リボウスキ』は傑作、最高の映画ですね。主役のデュードも音楽もすべて最高だと思います。『ファイトクラブ』の坊主頭のブラッド・ピットも作りました。あれはブラピが坊主だったから作ったんだと思う」
――すべての人形が、限りなく本物に近いわけですが、そのさじ加減というか、リアルとフェイクの境界線はどのように引くのですか。
「それが難しいところのひとつですね。下描きの段階で、ものすごくがんばって描くと本物になってしまうので。無意識に描いてはいけないというか。
たとえばピカソは、牛を描くとき、自分の中で正解を見つけようとしていたはず。キュビズムや、変形した牛が生まれても、ピカソは自分の中で「正解を見つけよう」としてやっていて、その過程で変形した牛の絵が生まれる、というか。
私はそうじゃなくて、すでに正解があるものから始めている、という感じ。ピカソと比べるなんて恐れ多いですが(笑)」
――(作品作りで)大切にしていることはありますか。
「ユーモア。ユーモアがないものはダメです。笑いがないものは、私の作品には必要ない。きれい、美しいよりも、私にはユーモア、笑いが最重要。私がコーエン兄弟やスパイク・ジョーンズの映画を大好きなのは、彼らが「ユーモア第一主義」だと思うから。彼らの作品を通して、私はユーモアを教えてもらったと思います」
私はスパイク・ジョーンズでできている
「今の私はスパイク・ジョーンズでできているようなもの」と長谷川さんは言う。「自分が作る作品も、生き方も、すべてスパイク・ジョーンズがベースになっている、という気がします」
長谷川さんは学生の頃に、ビースティボーイズの「サボタージュ」のミュージックビデオを見て、「なんてカッコいいんだろう!」と思ったという。
そのビデオを作ったのがスパイク・ジョーンズだった。
その後、自分が好きな映像をあれこれ調べて観ていくと、好きな映像は、どれもこれもスパイク・ジョーンズと繋がっていたという。
長谷川さんは言う、「スパイクは私にとって神のような存在なんです」
長谷川さんは、アメリカ西海岸ロサンゼルスに住んでいたとき、映画学校のワークショップに参加した。それは8週間のプログラムで、モノクロ16mmフィルムで短編を撮るという課題だった。
そのとき、長谷川さんはあらためて、「映像を撮るのは面白い」「自分は映像を撮って作品を作ってみたい」と強く思ったという。
「でも同時に、短くても良いものを作ろうとすると、けっこうお金がかかる、ということも知りました。30分くらいの短編であっても、映画を撮るとなるとめっちゃお金がかかる。そして、ある程度お金をかけないと、いいものにならない。
誰でもスマホで撮って、自分で編集し、YouTubeで流せるけれど、私が撮って作りたいのは、そういう映像じゃない。自分は「こういうものを撮りたい、映像作品を作りたいのだ」ということを再確認できたLAでの日々でした」
その頃、長谷川さんは、ハリウッド・ハイスクールの界隈でときどき映像を撮っていたという。
ハリウッド・ハイスクールは、ロサンゼルスの一大観光地、ハリウッドにある公立高校だ。たくさんの観光客が往来し、アカデミー賞の授賞式が開催されるドルビー・シアターのある目抜き通り、ハリウッド・ブールヴァードの、すぐ裏の辺りにその高校はある。
校舎建物の壁に巨大なペインティングがあり、その下のストリートには、よくハイスクール・キッズたちがたむろしている。
「あのハイスクールの辺りの道や公園でスケートしているキッズたちを、よく撮影していました。学校が終わる時間に行くと、スケートボード持って何人か出てくるんですよ。私が「撮ってもいい?」と聞くと、「うん、いいよ」という感じで撮らせてくれた。みんないい子たちでしたね」
ガス・ヴァン・サント監督の映画には、スケートボードを小脇に抱える少年少女がいつも登場する。だいたいカギっ子で、家に帰っても誰もいなくて、学校でも友だちは少ない。不良ではない。そのキッズたちはみんな、一般的な世界の境界線からほんの少しはみ出しているのだ。
スケートボード・パークのある公園に行くと、自分と境遇の似た少年少女たちがいる。スケートボード・パークが、キッズたちの心安らぐ庭なのだ。
自分も境界線からはみ出していたガス・ヴァン・サントは、とてもやさしい視線でそういった少年少女たちの日常をフィルムに撮り、物語として表現してきた。
スパイク・ジョーンズが撮るのも、はみ出し者たちだが、そこに出てくるのは「自ら選んではみ出した」というタイプのキッズや大人たちである。ガス・ヴァン・サントの映画のはみ出し者は内省的で静かだが、スパイク・ジョーンズのはみ出し者たちはワイルドで、活力があり、遊びの中から何かを生み出そうというエネルギーを持っている。
長谷川有里さんが作るパペット(人形)たちにも、それと同じようなワイルドさがある。境界線の向こう側の世界からやって来たワイルドなパペットたち。
本物に似ているけれど、ちょっと違う。長谷川さんが、そこにワイルドさを加味しているのだ。
JR大塚駅の改札前に佇んでいた長谷川さんは、フツーの女性に見えた。でも、一緒に歩いて話していると、ちょっと違うなとすぐ気づいた。彼女が喫茶店「ボギー」に入っていくのを見て、それを確信した。彼女もまた「WILD THINGS」のひとりなんだと。境界線のちょっと向こうに住んでいる人なのだ。
その小さな身体には、ふつふつと創作の微熱が常にあって、何か面白いことを探している。彼女の両手によって生み出されるパペット(人形)たちがワイルドな理由が、会って話して、よくわかった。
もうすぐシソン・ギャラリーに、そんなワイルドな人形たちが集結する。
text by Eiichi Imai
photography by Koichi Chida