Meet the Artist
Twilight, Midnight, till Dawn KARIN 残照、真夜中、夜明けまで。 花梨/コラージュアーティスト、モデル、俳優
<夜の時間>
「夜をテーマにしようと思いながら、今、作品を作っています」
新緑の頃、シソンギャラリーの庭に春の光が注ぐ中、今回の個展のテーマはどんなものですか?と訊ねると、花梨さんは、彼女が書いている途中の絵本か短編小説のストーリーの一部を物語るように、話を聞かせてくれた。
「たとえば、『よあけ』という絵本は、今回の夜のイメージにしようと思ったときに、最初に思い浮かんだ本です。いつもふと開いて読む、手に取って見る本のひとつですが、もともと私が幼い頃に、母が読み聞かせてくれていた絵本のひとつです。読み聞かせてくれた絵本はすべて私の一部になり、私の記憶の情景となっているので、自分の絵や作品に影響します。そういう大好きな絵本も、参考にしています」
ユリー・シュルヴィッツの『よあけ』。まわりを山に囲まれた湖。鳥がさえずる前の、夜の終わりの静かな時間。木の小舟に孫を乗せ、祖父はオールを漕ぐ。やがて辺りには薄明かりがさし始め、水面に靄が立ち、カエルが水に飛び込む音が響く。刻々と変わっていく夜明けの風景が、ページを繰るごとに描かれる絵本の古典だ。
「夜といっても、いろんな色がありますよね。たとえば日暮れの後の濃い青も夜だし、新月の夜の濃い闇の夜もある。『よあけ』に描かれている、朝に向かって次第に明るくなっていく空の色も夜の一部。夜にはいろんな色彩がある。日暮れから翌朝まで、夜のグラデーションは刻一刻と変わっていく。夜は私にとってファンタジーの時間でもあるんです。夜は、どこか別の世界に繋がっているような気がするから」
「日が暮れた直後の時間を、残照(ざんしょう)と言いますよね。いなくなった太陽が残していった青の色が、まだ空にある時間。ちょっとグレーがかったブルーの空。太陽は地平線の向こうにすっかり落ちて、だんだん暗くなるんだけれど、西の空にはまだ光が残っている。反対側の東の空からゆっくり夜が降りてくる。東の空は、濃いピンク色から淡いブルーに、やがて濃い青に変わっていく。そんな時間の空の色がすごく好きです」
「残照の時間は、人間の世界と魔界との、境界の時間のようにも思えます。完全に夜になって、辺りが真っ暗になると、魔の力は最大になる。やがて朝が近づいてきて、明るくなってくると、魔界の力は弱まり、人間の力がまた戻ってくる。まだきちんと文字にはできていないんですが、そういう夜の物語が私の中にはあって、今回それを作品にしています」
「月の光を準備している人の話とか、月の光の雫を拾う話とか。創作するときは、自分の中にある言葉と一緒に絵を作っていく感じです」
これが、花梨さんがこの春に聞かせてくれた話。それから二ヶ月ほど経ち、今は初夏。シソンギャラリーでもうすぐ花梨さんの個展が始まる。
<コラージュアートとの出会い>
花梨さんの両親はデザイナーで、祖父は現代アートのコレクター、祖母も絵が好きな女性だったという。
「まわりに、芸術好きな人が大勢いました。親戚が集まると、みんなでアートの話をしたり、一緒に絵を描くなんてこともありました。だから私も、小さい頃から絵を描くのが好きでした」
「父の仕事の関係で、父と母はドイツに住んでいたんですが、母はそこでシュタイナー教育と出会ったんですね。日本に戻って私が通ったのがシュタイナーの幼稚園で、そこで自由にいろんな絵を描く楽しみを知ったと思います」
「私の家は、テレビ禁止でした。両親が買ってくれた絵の具とスケッチブック、絵本と児童文学の本、積み木や木製のオモチャが、子供の頃の遊び相手でした。外で遊ぶのも大好きで、木登りしたり、公園を駆け回っていました。外で触れる樹木や草花、目にする鳥や動物と、絵本の中の世界が合わさって、ファンタジーの世界に生きていました。この世界には妖精や魔女が本当にいると信じていましたから。今もそう思っていますけれど。私はとにかく好奇心旺盛だったので、(家で観ていない)テレビ番組の話題にも、なんとかついていっていたように思います」
「中学生くらいのときには美大に行きたいなって考え始めていました。高校生のとき、授業で出された課題のひとつがコラージュでした。私は、フィリップ・K・ディックの有名なSF小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』をテーマに作品を作ったんですが、それを先生がすごく褒めてくれた。コラージュ自体は以前から、中学生の頃からやっていましたが、褒められたことで背中を押されたような気がします。自分の絵と、すでにある写真や他の絵などと組み合わせ、ひとつの別の世界を生み出すコラージュという技法が、とても面白いと思いました。以来私はずっとコラージュアートを作り続けています」
<作品が生まれるとき>
「私がコラージュ作品を作るとき、まず描いてみようではなく、しっかり物語ソースと構図、ラフ画を作ってから着手します。今、即興性と計画性のバランスをどうするのがいいか、何が合っているか?をすごく考えていて、正解は、展示して絵を見ないと私もわからないという境地にいます」
「コラージュの面白みというのは、ミックスメディアであること。すでにあるものを違うものに置き換える、その物の概念を変えていくという面白い作業なのですが、そこで扱うメディアを考えすぎてしまっている時期があって、そのときはなかなかうまく作れませんでした。だから、(計画なく)どんどん衝動的に作っていく人に憧れます。私はすごく計画してから絵を描いていくので。アナログで素材を作り、デジタルに取り込み、調整し、アナログに戻る、という三段階を経て自分の作品にしていきます」
<好きなもの「旅」>
「休みが少しまとまってとれそうだな、とわかると、パッと旅に出ます。この前は、インドに行ってきました。
バラナシとジャイプール。親しいヘアメイクさんがインドへ行くと言っていて、同じタイミングで1週間だけですが、ポンッと空きができたんです。インドには憧れがあり、ずっと行きたかったし、最初に行くとき現地に詳しい友人と行けたらいいなと思っていました。だから、あ、今、インドに行こうって」
「私は、旅に出るとき、事前に計画をきちんと立てる方ではありません。計画を決めすぎない旅が好きというか。決めすぎると、それをしなくちゃいけないって考え始めて、それで疲れてしまうので」
「旅は、自分のインスピレーションの栄養になるものだと思います。旅をしているあいだは気づかなくても、家に帰ってきてから、その旅が自分の中に広がったり、心の深いところに響いたりすることもあります。旅とは、行く前、準備しているときに始まっているし、家に帰ってきた後の余韻も、旅の一部だと思います。その余韻が長く続くと嬉しい、楽しいですね」
「行きたいところはいつもたくさんあります。今は、北欧に行きたいし、クロアチア、ギリシャ、ジョージア、トルコ……。東と西が出会うところ、文化や歴史がミックスしている場所には、いつも心ひかれますね」
<好きなもの「大島弓子」>
「大島弓子は昔から大好きです。家ではテレビもマンガも禁止でしたが、大島弓子は母が好きで、家にありました。大島弓子のマンガに出てくる女の子になりたいという憧れがありましたね。大島弓子の、ときに詩的な、散文的な文章に、強い影響を受けていると思います。大島弓子の作品は、今でもよく手に取ります」
「好きな絵本はたくさん、影響を受けた絵本作家や画家は何人もいます。アトリエの壁にはマティスのポスターが貼ってあるし、たとえばエルサ・ベスコフの絵が大好きで、よく絵本を手に取って見ます。ベスコフはスウェーデンを代表する絵本作家、イラストレーターで、花や植物が擬人化された絵のタッチで知られています。彼女の絵の世界は、そのまま私が子供の頃から空想していたワールドなんです。自意識が芽生える頃からベスコフの絵本を見ていたので、現実の世界で樹や草、花を前にすると、それらがみんな自分と同じ感情を持っていて、今にもしゃべり出すような気がしていました。それは、実は今も変わりません」
<好きなもの「音楽」>
「音楽も、私にとってなくてはならないもののひとつ。前はライブにもよく行っていましたが、最近は行く回数が少し減っているかな。今よく聴いているのは、エレクトロニカ、激しくないテクノ、自然環境音を使ったアンビエントものとか。たとえば、LAの老舗レーベルが出した、Anna Roxanneのアルバムとか、よく聴いていますね」
<コラージュするライフ>
大島弓子の『バナナブレッドのプディング』、イシュトバン・バンニャイ『Zoom』、Anna Roxanneの、『Because of a Flower』、リコーのカメラGRⅢ、ピアス、サングラス、旅すること、妖精の存在を証明すること……。彼女が好きなことや気になることはほかにもたくさんある。
レコーダーに録音した花梨さんとの対話をあとから聞き返していると、まるで言葉と話のコラージュのように感じられる。いろんな話に飛び地して展開し、広がって、でもどれも関係し合っているし繋がっている、というか。花梨さんの(少なくとも今の)日々や人生は、コラージュライフのようだな、と思ったり。彼女の個展が、とても楽しみである。
text by Eiichi Imai
photography by Mariko Kobayashi
THE SOUND OF DISTANCE YOKO TAKAHASHI 高橋ヨーコ/写真家
<被写体との距離感>
高橋ヨーコさんに、今回のシソンギャラリーでの個展について話を聞くと、展示予定の写真は、1990年代から最近までの中からセレクトしたものだという。
「いくつかの場所のものたちです。いろんなところですね。場所や年代で選んだわけではなくて。しばらくの間、被写体との距離感について考えていたんです。写真の距離感というか。撮る私と被写体とのディスタンス。まったく違った時代に、違った場所で撮った写真を並べて見たときに、「あれ、距離感が同じ?」と感じることもあって。それで今回タイトルを、ザ・サウンド・オブ・ディスタンスとしたんです」
マサチューセッツ。自転車で隣町に行く時に撮ったもの
「背景も時も違うのに、同じ距離感で撮っているなって思う写真がたくさんあった。もちろん、距離感がまったく異なる写真もたくさんあります。一度距離感をテーマにした展示はやってみたいと思っていたので、今回そうしようと」
「音楽を聴く感じにちょっと似ているかも。たとえば、音をよく聴きたくて前の方に出ていったり、逆にちょっと離れたところで楽しみたい音楽もありますよね。同じ音楽でも、イヤフォンで聴くのと、運転する車の中で流しているのとでは、印象は違う。そのときの自分の気分も大いに関係するし。遠くで流れているのを聴ききたい気分のときもあれば、近くで音をたっぷり浴びたいときだってありますよね」
「たとえばバスターミナルを撮るとき。東欧の古いバスターミナルは、デザインも建築も独特なんです。すごく広くて大きい。白っぽい光。全容を撮ろうとしてどこか後ろに引いて撮る。一方、ベンチに座っている人にすごく引きつけられて、こっそり、ゆっくり近づいていく。撮るときの距離感がいろいろある」
トランスニストリア(沿ドニエステル共和国)
「昔、周りからよく、ヨーコは鼻で写真撮っているね、って言われていた。実際に、知らない場所でも知っている場所でも、どこかへ行くと、匂いをかいで、あっちに行ったらなんか面白そうなものがありそうだぞって、そんな具合に匂いをかぐようにして動いて撮っていた」
「戌年だからって言う人もいたけれど、とにかく鼻を利かせて写真を撮ることは多かったかも。今も旅先ではくんくんしますよ。とはいえ、基本的に臆病者なんで、あんまり被写体に接近はしないですけどね。そうっと近づいていって、聞き耳を立てて、もうちょっと大丈夫かな、みたいな感じ(笑)。だんだん精度は上がっている感じがします」
<家を出たい少女ヨーコ>
高橋ヨーコさんは、どんな子供だったのだろう。たとえば絵を描く、何かを作る、というようなことが好きな子供だったのか。あるいは外で遊ぶのが好きだったのか。そのような質問をすると、ヨーコさんは、ちっちゃい頃からずっと「一刻も早く家を出たいと思っていた」と言った。ちっちゃい頃から? 「そう、4歳か5歳くらいのときには家をどうやって出るか考えていましたね。早く一人になりたいと思っていたので」
「父は研究者でした。生まれる前まで、両親と兄はアメリカに暮らしていたんです。母は一度日本に帰ってきて自分を産み、今度はドイツに引っ越すという話でしたが、急きょ別の仕事先が見つかったらしく京都に住むということになった。だから京都でずっと育つわけですが、とにかく家を出たくてたまらなかった。早く一人暮らしをしたい。厳格な両親だから、子供には家の居心地が良くなかったんでしょうね。だから親に内緒で神奈川の大学を受験して合格した。最初は、そんなところ絶対行かせない、って両親からは強く言われましたが、最終的には折れてくれました。それ以来、けっこう引っ越しの多い人生になりましたね。サイトとかで不動産や物件を見るのが大好きなので。笑」
<旅の話、その1>
高橋ヨーコさんは、2010年から10年近く、アメリカに暮らしていた。北カリフォルニアのバークレー、マサチューセッツ州の大西洋に突き出た小さな半島の先っぽの港町、そしてサンフランシスコ。
「一度、海外に暮らしてみたいという気持ちがありました。自分のことを知っている人が誰もいない街に。撮影で西海岸には何度も行っていたけれど、LAはクルマ社会だから、ちょっと違うかなと思っていたら、知り合いから、バークレーはいいサイズのタウンだよって聞いて」
アメリカ中を旅している時にいろんなところで撮った愛車のブロンコ
「アメリカに暮らしているときは、たくさん旅していましたね。ちょっと休みができれば、車で1週間、2週間とか走るんです。気に入った中古車を買って、メンテしながら乗っていて、素晴らしいその相棒は、最終的に日本に連れて帰ってきて、今も一緒です。アメリカ中を何百キロ、数千キロ、という感じで移動しましたね。アメリカにいるときが一番よく旅していたかも。南部、北部、真ん中、東部、全州は走破していないかもしれないけれど、それに近い感じだと思います。車に撮影機材と、寝袋とかキャンプ道具一式を積んで」
「バークレーからサンフランシスコに引っ越して間もない頃に、たまたま仕事で一緒になったフードスタイリストのようなことをやっている人から、アフリカに一緒に行かないか?って訊かれたときがあって」
「彼女は、マリ共和国に小学校を建てるためのNPO活動をしていた。あるときそのNPOに寄付をしたんです。そうしたら、一緒に来ないかって。100%ボランティアです、渡航費から何もかもすべて自分持ち。おまけに事前に注射を何本も打たなくちゃいけない。それで、いろんな教科書、古書、まだ使える文房具とか、持てるだけ持って行った。彼女からは、自由にしていていいけど写真は撮って欲しい、と言われた。村には幼い子供が大勢いるんですが、親のいない子供も多く、彼らの記憶になるよう写真をたくさん撮って欲しいと。こういう誘いがあると、すぐ「行く!」って言っちゃんですよ。せっかく誘ってくれたのだから、まずは行ってみようと。いつもだいたい、あまり細かく考えずに行動しちゃいますね。すごく遠かったですけど」
<旅の話、その2>
アフリカのマリの小学校にて
「そのボランティアで行ったマリ共和国で、あるアメリカ人と知り合ったんです。彼女はそのときちょうど、ハウスメイトを探していて。場所が、マサチューセッツ州のかなり端っこの方にある家で、期間は半年くらい。端っことか大好きなんですよ。それで3秒後には「ハウスメイトやります!」って手を上げていた。実はサンフランシスコの家を借りたばかりだったけれど、まぁでもサブレットに出せばいいかって思って。これもほとんどその場の思いつき(笑)」
「それで、アフリカからカリフォルニアへ戻り、車に撮影機材、プリンター、半年くらいの生活のものあれこれ、自転車などを全部積んで、西から東へアメリカを横断しました。このときの移動がけっこう楽しかったですね。あえて1日5〜6時間しか走らないと決めて、かなりゆっくり時間をかけて東海岸へ向かったんです。たくさん寄り道しました。ネブラスカの方に古いデイリークィーンがあると知って、店の写真を撮るためだけにその町に寄ったりとか。あちこち寄り道して、遠回りしながら東海岸へ向かいました」
旅を共にした車 ブロンコ
「ハウスメイトの家は、マサチューセッツ州の小さな半島で、ケープコッドというところにありました。アメリカのニューカラーの大御所写真家ジョエル・マイヤーウィッツの有名な写真集『CAPE LIGHT』の舞台になっているリゾートタウンです。マイヤーウィッツは今もその辺りに住んでいるらしくて。ただ、その写真集とそこへ行ったのは無関係で、それは後から知ったくらいで。地図を開いて見るとわかりますが、ほんとうに端っこにあるスモールタウンなんです。目抜き通り一本くらいの。西の果てとか東の果てとか、そういう場所にひかれるんですよね。半年間くらいいましたが、居心地がすごく良かった。本当に気持ちのいい日々でした。今回の写真展にも2点、そこで撮影した写真があります。本当に気持ちのいいところで、夢のような時間を過ごしました。そこを旅立つ日はちょっぴり悲しくなったのを覚えています」
マサチューセッツのcape codで暮らしていた家の母屋
<旅の話、その3>
「旅が好きというより、撮りたいからそこへ行くんだと思います。あるいは、撮りたくなるものに出会いたいから出発する、というか。自分が見慣れていない風景、初めて見る景色とか、実際に自分の足で行ってみないと真実はわからないですよね。でも、撮影しなければ行くことはないと思うから、やはり撮るための旅なんだろうなと思います」
「旧ソビエトの国や共産圏を旅して撮影するようになったのは、最初、ずっと鉄のカーテンで見ることができなかったものを見せてもらえると思ったから。その旅は、過去をのぞき見しているような感覚もあって、面白くて。私はバス・ターミナルとか、駅とか大好きなんですが、旧共産圏のそういった場所には独特の光、色、気配があって、撮影がとても楽しかった。そういった場所への撮影の旅は今も続いています」
「基本ひとり旅で、現地のバスや列車など公共交通機関に乗って移動して、あとはひたすら歩き回って、撮る。パブリックの乗り物が大好きなんですよ。観光はしないし、美味しいものを特に食べるわけでもなく、カメラを持って、鼻をクンクンさせて、徒歩で移動しながら人や町を観察する。そして、撮る。カメラを持っていなかったら旅をしないとまでは言えないけれど、でも、カメラを持たずに旅をするのは想像できないです。ある意味で、撮りたいものに出会いたいから仕方なく旅をしているというか。まぁでも、旅はやめないでしょうね、これからも」
アトリエにて
今回の写真展は、過去30年間くらいにヨーコさんが旅した場所の写真たちだ。個展のため、膨大な写真をふり返ったと思うが、過去に自分が撮った写真を見ていて、懐かしく感じたりするのだろうか。
「懐かしむというより、もう一度旅をしている気持ちになりますね。昔は暗室でプリントしながら、今はテストプリントした写真で仕事部屋の壁を埋め尽くして、それらの写真を見ながら、そうやって何度も旅ができるっていいなと思います。昔の写真を見て選びながら、そのときの場所、時間をもう一度旅している感じ。いろんなことを思い出すし、昔撮った写真をふり返るのは楽しい時間です。懐かしさより、また旅をしている気持ちになっている」
text by Eiichi Imai
photography by Yoko Takahashi
PAINTNG IN HIDEAWAY KIYO MATSUMOTO 隠れ家のようなフィンランドの森で。 松本妃代/fairytale painter、俳優
<フィンランドの森で、living like a local>
松本妃代さんは、昨年(2024年)の9月から3か月ほど、北欧フィンランドに滞在していた。3か月というと、1年の4分の1だから、けっこう長い期間だ。拠点はずっと同じだったそうなので、それは旅行というよりも、短く「住む」という感じだろうか。
フィンランドは美しいところだ。「森と湖の国」と呼ばれ、ムーミンやスナフキンがいる。アキ・カウリスマキもいる。サンタクロースの故郷があり(ロヴァニエミ)、サウナを愛する人々が暮らしている。コーヒーとシナモンロールがとっても美味しくて、人々は野営と焚き火を日常的に楽しみ、アルヴァとアイノのアアルト夫妻など、個性あふれる建築やデザインがある。
とはいえ松本妃代さんは、観光を目的に訪れていたわけではない。3か月間、living like a local、そこに暮らすように滞在し、絵を描いていた。首都ヘルシンキから北へ2時間ほど列車で行った、湖畔の森の一軒家で。
「最初、スウェーデンに行こうかなと思っていたんですが、滞在する部屋を探していたらピンとくる場所がなくて。フィンランドで探してみたら、すぐにいい家が見つかったんです。本当に何もない田舎ですが、湖のすぐそばの家」
「3か月だから、住むところがとても大切。部屋の居心地はもちろん、眺め、キッチンがあるか、周囲の環境はどうか。近くに水辺があるといいなとか。今回、気持ちのいい場所が見つかってよかったです」
<外へ向かう夏の北欧、内省的な秋の北欧>
フィンランド、スウェーデン、ノルウェイ、デンマークという、北欧4か国には、「二つの季節がある」と言われる(つまり、季節が二つしかない、という意味だ)。短い夏と、長い冬の二つ。夏至をピークにしたおよそ2か月が夏で、残りの10か月は冬。北欧の人たちは微笑みながら自虐的に、「わずかな夏と、あとはずっと冬なんだ」などと言う。
夏至の頃、北極圏は白夜となり、ヘルシンキでも夜遅くまで明るい。午後11時を回ってからやっと日没、午前1時を過ぎるともう白んでくる。6月、7月、北欧の人々は短い夏をとことん楽しむ。森や湖畔のサマーハウスで過ごし、夜遅くまで外で活動する。寝不足なんて気にしない。
でも今回、松本さんは9月からの滞在だったから、季節は冬へと向かっている頃。滞在中の写真を見せてもらうと、樹木の葉は紅葉している。11月に入ってからの写真には、地面に少し雪が積もっている。彼女が暮らした森には、北の冬が駆け足で近づいていたようだ。
「前、デンマークに行ったときが初めての北欧だったのですが、春から夏にかけての滞在だったので、光がたっぷりで明るくて、人々は陽気で、居心地がいいなと思いました。夜は9時、10時まで明るくて。夜にハイキングしている人たちもいました」
「ところが今回フィンランドは、9月、10月、11月と、どんどん暗い時間が増えていって、同じ北欧でも時期によってこんなに違うのかとびっくり。夏とは、雰囲気がまったく違いました」
「滞在を始めた9月はまだちょっと夏の名残があったのですが、10月が過ぎて、11月に入る頃には気温がぐっと下がり、昼間の時間がいっきに短くなって。朝起きてすぐは真っ暗だから、まずテーブルのロウソクに火を灯す感じ」
「だから今回は、寒さと暗さを体験して、おまけに街から離れた森の家で辺りには人がほとんどいないから、なんていうか修行のようでした。夏の北欧とはぜんぜんムードが違ったけれど、でも、森と湖のすぐそばで、静かだから、より自分に向き合えたと思います。それはすごく良いことだったかな」
<苔むした森、生きものたちの気配>
森、湖が見える窓辺のテーブルに、紙やスケッチブック、絵の具を広げている写真がある。ああこの絵は、この場所で、この景色と空気の中で描かれたのかと、思わず見入ってしまう。今回シソンギャラリーに展示される絵のどれが、フィンランドの森の家で描かれたものだろう。
「冬に向かって曇りの日が多くなり、朝からなんとなく暗い感じの日が増えていき、もともと静かな場所なんだけれど、静けさの密度がどんどん濃くなっていく。でもそこで絵を描き始めると、自分の中に別の意識が流れ始めるというか。日本で描いているのとはぜんぜん違うものが生まれました。目の前にある自然を、いつもとは違った視点で見ている、外側から眺めるのではなく向き合っているという感じがあって……フィンランドに行って、短く暮らして、よかったです」
「私は、フェアリーテイルペインターとして絵を描いていて、絵にはいろんな生きものが出てくるんですが、フィンランドの森を歩いていると、生きものたちの気配を感じました。目に見えている生きものだけじゃないんですよね。姿は見えないんだけれど、いる。気配がある」
「森の中に、苔に覆われている場所があるんです。岩も地面も苔がびっしり。ふかふかの苔の森という感じです。その景色を見たとき、苔がトロール(森の生きもの、妖精)みたいに見えたり。熊は見ませんでしたが、でも、森にいると、冬眠の準備をしている動物たちの動きというか、気配のようなものを、姿は見えなくても感じました」
「そういう気配を感じていると、生きものの存在が、自分の中に入ってきて、気がつくとそれが絵になっていました。姿は見えなくても、自分の中にインスピレーションが通ってくるというか」
<始まりの絵、動物たちの絵>
「小さい頃から絵を描くのは好きでした。でも、その頃は、絵の具を使って描くとかはなかったです。本格的に描き始めたのは、20歳くらいの頃かな。けっこう大人になってからですね」
「子供の頃は、どちらかと言えばインドアというか。でもダンスは好きでしたね。何かに絵を描いたり、本を読んだりするのが好きな子供だったと思います。絵本が大好きでした。父が仕事の関係でよく外国に行っていて、いつも絵本をお土産に買ってきてくれたんです。絵本から絵というものがインプットされたんだと思います。子供の頃に開いた絵本の世界が、フェアリーテイルな絵を描いている今の自分に繋がっているのかもしれません」
「兵庫県で生まれ育って、大学で横浜に移りました。役者の仕事もその頃に始めて。20歳前後の頃って誰でもそうかもしれませんが、自分って何だろう? 自分の個性ってどんなことだろう?って考えたりしますよね。役者を始めて、役と向き合ったときに、『私は自分のことを知らなすぎる』と思ったんです。だから、自分を知るためにいろんなことにチャレンジしようって思って、何が得意なのかわからないけれど、そのとき始めたことのひとつが、絵だったんです」
最初の頃に描いた絵、覚えていますか。
「実はよく覚えています。そのとき落ち込んでいて。自分に自信がぜんぜんなかったし、たぶんいろいろ苦戦していたときでした。役者の仕事もそうだし、学校にも馴染めない。自分には何ができるんだろう?って悩みながら描いた絵だから、すごく暗い絵なんですけれど、でもその分、生々しさがあって。技術はまったくないけれど、勢いがある絵。私は、そのときに描いた自分の絵、すごく好きです。誰に習ったわけでもないから、絵の具の使い方とかも自己流だし、でも、その絵のこと、勢いのこと、よく覚えていますね」
「日記みたいに絵を描いていました。毎日のように描いていたというか。そうやって3年くらい経った頃、絵がけっこうたまってきていて、知り合いに見せたら、これ展示した方がいいよ、って言われたんです」
「その頃は、今よりもっとリアルな感じで動物の絵を描いていました。写実的だけど、色はぜんぜんリアルじゃなくて、実際とはまったく異なった色で描いていました。表現したい根っこの部分は昔も今も変わらないと思うんですが、表現方法が変わったんですね」
「動物は、好きだということもあるけれど、もともと『自分の中にあるもの』なんです。たとえば熊、ヘラジカとか、自分の中にいる。そんな心の中にいる生きものたちの存在が私を安心させてくれていて。私にとっては守り神のような存在なのかもしれません」
「フィンランドの森で、すごく大きなシカの死骸を見ました。滞在していた家の飼い犬と一緒に歩いていたんですが、その犬が突然走っていって、ついていったら、そこに大きな死骸があった。怖い感じはまったくなかったですね。なんだろう、やっぱり、生命(いのち)ですよね。生命は、こうやって土に還っていくんだな、その土からまた草が生えて花が咲くんだなって。循環しているんだって思いました」
「ずっと描いている絵は、自分の中から出てくるものがほとんどです。だからそのインスピレーションをできるだけ素直に表現したいと思っています。すべて私に入って、私を通って出てくるものたちなんです」
<Hideaway、隠れ家のような場所で生まれた絵>
フィンランドの湖の水温は低い。真夏でも、とても冷たい。フィランドを旅していると、湖畔には必ずサウナ小屋があり、小屋の煙突から煙が出ていればそれは、「サウナが始まるよ」という合図だ。フィンランドを旅しているとき、サウナ小屋の番人からこう言われたことがある。「人はサウナ小屋で生まれ、サウナ小屋で親子の時間を過ごし、サウナ小屋で初体験をし、サウナ小屋で出産する。サウナ小屋で秘密を打ち明け、サウナ小屋で泣く。そうしていつか、サウナ小屋で死ねれば最高だ」。フィンランド人にとってサウナ小屋とは、礎であり原始。そしてサウナ小屋のそばには冷たい水の湖がある。
松本妃代さんが、フィンランドの冷たい湖で泳いでいる写真がある。フィンランド人は、湖で泳ぐことも愛している。松本さんは、フィンランドの人たちの気持ちになっただろうか(きっと、かなり冷たかっただろうと思うけれど)。
一軒家の部屋に暮らし、日に日に弱まっていく光を集め、日ごと強まっていく夜の力を感じながら、窓辺のテーブルに道具を広げて絵を描いていた。キッチンで料理をしてひとりで食べる。その部屋の時間があり、あとは、森の小径を歩いて、ときには道から外れて苔の絨毯の上を歩き、湖に出て、湖畔に佇む。そうやって、非日常の旅の中に、自分だけの日常ができあがっていく。その中で作品作りをする。自分に向き合いながら。自分の中からわき出てくる「何か」をつかもうとする。
「3か月、海外にいたと言うと、びっくりする人もいるんですが、自分をいったん無の状態に戻すのって、私は1週間ではできないんですよね。1か月でもまだ足りない。知らない場所で、その日その日、直感的にこれをしたい、あれをやりたい、というのを、突き詰めてみたかったんです。3か月そういう暮らしを、知らない土地で、森の中でやったら、自分はどうなるのかなっていうことに興味がありました。ほとんど人に会わず、森と湖と絵を描くことに向き合う。静かでクローズドな環境でそうやって3か月過ごしたら、どこまで変化できるのか、という実験でもありました」
「3か月いましたが、部屋に自分のものは一切ないんですよ。ほんとにスーツケースに入っていたものしかない。だから、ただ箱の中にポツンって入れられたみたいな、世界の果てに落とされたみたいな気持ちになる瞬間が何回かあって、怖いって、こういう感じなのかなって思ったりもしました」
「誰とも言葉を交わさない、ひと言も喋らない日もたくさんありました。そうすると、面白いのが、人間って喋ることでアウトプットをしていると思うんですけど、私は一人っきりでぜんぜん喋らないから、じゃあ何かでアウトプットしようと思って、それで絵を描き始めるんです。するとそこに全部アウトプットが集中しているから、なんか、作品がとっても濃くなるっていうか、濃度が高いものになる感じがあって……。それが面白いなって思いました。北欧に行って、絵の雰囲気が変わったし、あの北の森で、自分の中にある世界がより鮮明になった感覚がありますね」
「北欧にいるときに、Hideawayっていう言葉がずっと頭の中にあったんです。隠れ家、というのかな。Hideawayというのが、次の自分の展示のテーマなのかもしれない、何となくそう思いました」
text by Eiichi Imai
THE JOY OF CREATING KUMI KOSUGE 祖母の家で育んだ、心躍らせるもの作り。 小菅くみ/アーティスト、刺繍作家
餃子/ハピネス/三日三晩
画家が絵を描くのも、作家が小説を書くのも、それはきっと孤独な作業だろう。ひとりキャンバスに向かって描く、ひとりラップトップに向かって書く(あるいは原稿用紙に万年筆で)。「作品」とは、一人きりの創作活動から生まれてくる。
刺繍もまた、とても孤独な作業だろう。布の上に刺繍針を刺し、無数の刺繍糸を通して装飾していく。一人きりの時間だ。
孤独という言葉から人は、「寂しさ」や「厳しさ」を連想するものだが、小菅くみさんの刺繍作品から、そのようなことは感じない。小菅さんの作品を見た人たちが抱くのはきっと、「楽しさ」「喜び」「温かさ」。
楕円形の皿に乗った餃子はとてもおいしそうだし(瓶ビールと小さなグラスがほしくなる)、かぼすと大根おろしが添えられた秋刀魚の塩焼きからは、湯気と香りが立ち上がってきそうで思わずウキウキしてしまう。大谷翔平もマイケル・ジャクソンも笑顔を浮かべている。
小菅さんの作品には、総じて「ハピネス」や「スマイル」があるのだ。
「テーマによって違いますが、人なら、いつも楽しそうなところを描こうと思います」と小菅くみさんは語る。「写真を見ながら下絵を描くことが多いですが、笑っていない顔の写真をベースにしていても、私の作品ではその人の口角を少し上げたりします。笑顔を描きたい、ハッピーでありたいというか。私の作品を見てくれた人が楽しい気持ち、嬉しい気持ちになってほしいと思うので」
「小さい頃から、おばあちゃんと料理をしていて、いつもおいしく食べていました。食べることも、自分で料理することも、どちらも大好きです。自分にとっての理想の餃子が頭の中にあるんだと思います。一応写真を見るけど、自分が食べて美味しかったときの味や匂い、熱々できたての皿の上の餃子とビールがある光景、みたいなのがあって、それを作品にしたかったんでしょうね。餃子もハンバーグも、食べたくなる作品に仕上げようと思って刺繍しました」
「孤独な作業ですか?と訊かれたら、はい、そうです、と答えます。今日もこの後、家に帰ったら作品作りします。夜派なんです。夜は、電話もかかってこないし、静かだし、集中できるので。昼間ガーッとやって、夜はきちんと寝る方が健康に良いのは知っていますが、三日三晩、というのが自分のペースなんです」
小菅さんが言う「三日三晩」とは、とりあえず三日間、根を詰めて刺繍をして(もちろん短く睡眠はとるし、ご飯も食べるし、猫の世話もする)、四日目に一度作業から離れ、小菅さんいわく「大きく寝て」、そして翌日から再び三日三晩、創作に集中するということ。今回シソン・ギャラリーに展示される作品たちは、そんな数多の三日三晩を経て生まれてきたものたち、ということになる。
「自分がノっているときは、休まず延々やっていたい方なんです。終わりが見えてくると、もう勢いを止めずに続けますね。間を置くともっと良くなるという人もいるけれど、休むとサボり癖がつきそうで怖いんです。あと、私、暇な時間があるのが苦手で(笑)。常に何かやっていたい人なんです。だから移動中もチクチク(刺繍のこと)やっています」
小菅さんは、たとえば列車やバスでの移動中も「チクチクやっている」という。「バスの方が、より時間がかかるから、列車じゃなくてバス移動を選ぶことも多いです。その分刺繍に没頭できるから」と小菅さんは言った。
「たとえば、京都へ行くときは、のぞみで二時間少しと決まっていますよね。飛行機で沖縄へ行くときは3時間くらい。その移動時間に合わせて本を選ぶ人がいるように、私はその時間に合わせた刺繍をします。でもこの前、羽田で飛行機に乗るとき、機内持ち込みバッグにハサミが3つ、針が何本も入っていて、止められて、あ!ってなりました。日本だったから結果的に大丈夫でしたが、海外の空港だったら危険人物と見なされて奥の部屋に連れていかれたかも(笑)」
もの作り/初めての刺繍/祖母の家
幼い頃、初めから刺繍をしていた、という人はあまりいないのではないか。誰でも最初は、裏紙とか、ノートの端っこに落書きし、絵を描き、マンガの好きなキャラクターを真似して描いたり、あるいは、新聞紙のような身近なもので何かを造形してみたり。小さな頃のそういう「遊び」が、多くの人にとって「アートとの出会い」「最初のもの作り」だろう。ほとんどの人はあるときそれをやめてしまうが、アーティストになる人はそれをずっと続けて大人になる。小菅くみさんの場合は、どうだったろうか。
「私は東京生まれ、東京育ちですが、宮城県仙台市に母方の祖母がいます。今も健在で、この11月に103歳になりました。祖母は去年も、東京のギャラリーに油絵作品を出展したり、日展に出したり、アマチュアですが創作活動が旺盛な女性です。祖母は手を使っていろんなことをする人でした。私はおばあちゃんが大好きで、幼い頃から、夏休み、冬休みと、いつも遊びに行っていて。今も行きます。東京生まれの私にとって、仙台のおばちゃんの家は故郷のようでもあり、いつもワクワクできる楽しい場所でした」
「私と祖母は、親戚の人に『おまえはおばあちゃんの生き写しだ』と言われるくらい仲良しで、絵はもちろん、粘土、切り絵、木彫り、全部おばあちゃんから教わったというか、おばあちゃんと一緒に『もの作り』をして遊んでいた、という感じでした。私が料理を好きになったのも、おばあちゃんが料理好きで、いつも台所で一緒にいたから。おばあちゃんの周りには常にもの作りがあって、私は何でも自然に好きになりました」
「絵を描くのは特に好きだったから、私はいつも何か描いていて、母親は、『くみは、ペンと紙があれば、何時間でも大人しくしているから、楽だったわ』と言っていましたね。幼稚園の頃は、見たものを描いていたと思います。鳥とか、花とか、何でも。その後マンガに夢中になったので、キャラクターの模写をしたり。ずっと動物の絵は描いていました。今も動物は好きだから、刺繍でもいろんな動物をモチーフにしています」
「最初の刺繍のことをよく覚えています。ちっちゃな私がおばあちゃんの隣に座っている。おばあちゃんはたぶん粘土をやっていて、私はその横で、家にあった布の切れ端にチクチク(刺繍)やっている。おばあちゃんの家にウサギのマスコットがあって、それを刺繍している。できあがったとき、おばあちゃんにそれをあげたんです。すると大喜びして、すっごい褒めてくれて、『これ、飾らなくちゃ!』と言ってくれたのが、とっても嬉しかった。このときの嬉しさ、喜びが、ずっと私の創作活動の根底にあるんです。『創ることは、いいこと』『何か創ると、人は喜んでくれる』『私が創ったものが人を笑顔にする』、その気づきを最初にくれたのが祖母でした。そしてそのときに抱いたハッピーな気持ちを、今も変わらず持っています」
遊び/ワクワクすること/心躍る刺繍
小さな小菅くみさんが、仙台の祖母の家にいて、おばあちゃんの横にちょこんと座って「遊んで」いる。その遊びとは、絵を描くこと、木を彫ること、粘土で造形すること、刺繍をすることである。それは幼い小菅さんにとって一番楽しいこと、幸せな時間でもあった。彼女が何かを仕上げると、おばあちゃんは必ず褒めてくれたし、わからないことがあれば教えてくれた。
昨今「民芸(民藝)」がブームだが、もともと民芸とは、生活の中で生まれてきた道具であり、装飾品である。そういう意味では、仙台の祖母の家で、おばあちゃんと幼い小菅さんがしていたもの作りも、ある種の民芸だと言えるのだろう(もの作りの精神として)。
昔の日本では、父親と母親が畑などで働いている間、祖父母が子供たちの面倒を見ていた。夜、囲炉裏のそばに家族が座り団らんがある。両親は縄を編んだり、来る次の季節のための準備にも忙しい。そんなとき、小さな子供が両親の作業の邪魔をしないよう、祖母や祖父が昔話を聞かせたのだ。だから言葉は隔世遺伝のように、おじいちゃんおばあちゃんから孫へと伝わり受け継がれてきた。民芸=もの作りの土台も、そこにある。
小菅くみさんもまた、おばあちゃんから「手で創ること」を教わってきた。小菅さんの刺繍作品には、たとえマイケル・ジャクソンやサッポロの赤星が刺繍されていたとしても、そこに「おばあちゃんとの幸せな時間」が流れているのだ。だから小菅さんの作品を見ると、人はハッピーになり、ほんわかした気持ちになり、笑顔が浮かぶ。
「毎回、個展を開くときは楽しくて仕方ないんです」と小菅さんは笑顔で言った。「ここに展示していいよって言ってくださるギャラリーの人たちと過ごす時間が楽しいし、どうやろうか、どう飾ろうかと話し合うのも嬉しい時間です。そしてついに展示が始まると、大勢の人たちが来てくれて、その皆さんが笑顔で作品を見てくれ、喜んでいるのを見るのが、私にはスゴく楽しい」
「おかしな言い方かもしれませんが、個展をやるときはいつも、『自分の生前葬』みたいだなと感じていて。だってみんなが私に会いに来てくれて、私が創ったものをじっくり見てくれるわけだから。楽しい生前葬がいいじゃないですか。みんな集まって楽しく過ごす時間、それが私にとっての個展です。私がワクワクしているから、来てくださる皆さんもワクワクしてほしい。来てよかった、楽しかったよ、って言ってもらえたら嬉しい。喜び、楽しさ、笑顔を持ち帰ってほしいから、そういう感情をギュッとまとめた感じにして、心が躍る展示にしたいなと思っています。今回のシソン・ギャラリーのテーマがそれなんです。自分の刺繍作品で、みんなの心を躍らせたい」
text by Eiichi Imai
FROM KAZUKO TO KAZTERRAMORI KAZUKO HAYASAKA 森と海、光と雨、樹と土 早坂香須子/メイクアップアーティスト、植物療法士
旅/着ぐるみ/心象スケッチ
人は何かを探して、旅をするのだろうか。たとえば自分にとっての理想の場所、定住地とか。
メイクアップアーティストで植物療法士の早坂香須子さんは、モロカイ島からフィンランドまで、これまで国内外いろんな土地へ旅をしてきたが、近年、長野県のある森に、「自分の居場所」を見出したという。
人は、何かをかぶって生きているのだろうか。そしていつかそれを脱ぎ、素の自分になるのだろうか。
早坂さんは「カズテラモリ(KAZTERRAMORI)」の名で絵を描く。カズテラモリのinstagramには、絵日記のように、たくさんの絵がアップされている。2月13日にポストされた絵は、大きな熊に背中から抱かれた早坂さん自身のポートレイトだ。ポストされた多くの絵には言葉が書かれていないが、この絵には短くこう記されている。「はい、熊の着ぐるみを着ていたのは、私です」
宮澤賢治が「心象」と呼んだ心の光景。時に淡く、時に鮮やかな色彩で描かれるカズテラモリの絵は、早坂さんの心象スケッチなのかもしれない。
「絵を描くとき、ノープランです」と早坂さんは語った。「多くの場合、完成図はなく、最初の色を描きます。もちろん、家にチューリップがあって、それを描きたいと思って始めることもあります。植物は雄弁です。植物から出てくるもの、精霊のようなというか、そういうものから描き始めることも多いです。この前、20年くらい愛用してきた靴下に穴が空いてしまったんですが、それはヒマラヤの山岳民族の人たちが履いている靴下で、私はそれがとても気に入っていました。どうしよう、いよいよ捨てなくちゃいけないのかな、と悩んだその日にできた絵があります。それは、その靴下の柄の服を子供が着ている絵。何が出てくるのか、自分でもわかりません(笑)」
9月のある夜、早坂さんの長年の友人宅にお邪魔し、その家の主が心を込めて作ってくれた夕食に舌鼓を打ちながら、早坂さんの話に耳を傾けた。森や海のこと、旅の話、土と草木、美容、幼い頃の自分のこと、そして、ジョージア・オキーフまで、話は大きく広がりながらも、やがて小さなひとつのことに集約していった。
大好きな場所/暮らしたい土地
「大好きな土地はいろいろあります。ハワイのマウイ島は、『本当にここに住みたい』と思った場所です。その隣にあるモロカイ島も私にとって大切な場所ですが、こちらは『第二の故郷』という感じ。モロカイには、ある時期何度も通いました。
フィンランドもフランスも大好きだし、忘れがたい土地、何度も行きたい場所が、他にもたくさんあります。
日本も、オーガニックコスメブランドのディレクターをしていたとき、北は北海道から、南は沖縄の池間島まで、各地の生産者の人々に会い、それぞれの土地の植物を求めて、旅していました」
「ジョージア・オキーフの世界に触れたくて、アメリカ・ニューメキシコ州サンタフェの、ゴーストランチにも行きました。私が今暮らしている森の家は、オキーフが暮らした家と、フィンランドの建築家アルヴァ・アアルトの邸宅を参考にして、イメージを建築家に伝えていきました」
「私は山形県生まれ、山育ち。月山の近くの田舎町で、二歳半まで過ごしました。裏が山で、家の前に小川が流れているようなところ。近所の家では二階でお蚕さんを育てていました。海は大好きですが、自分の心象風景には山と森と川があると思います」
「友人夫婦が、東京から車で5〜6時間、列車とバスをうまく乗り継いでも4時間ほどかかる、長野のとある湖畔の森に引っ越したんです。初めてそこを訪れたとき、『え、ここは何処?』と思いました。それまで見たことのないような風景でした。フィンランドの森のようにも見えるし、スイスと言われたらスイスのようだし、カナダ人がそこへ来たときは『カナダみたい』と言ったとか。
何処にも似ていないその場所に、私はすぐ『住みたい!』と思ったんです。
コロナ禍の頃、東京とは別の場所にもうひとつ拠点を持ちたいという思いが強まっていました。軽井沢、八ヶ岳の麓、いろいろ見ましたが、どうもピンとこなかった。でも、その森は、『今すぐ住みたい』と思った。友人夫婦は、『いい場所、探しておくね』と言ってくれました」
森の時間/森と共に生きる
「2022年の浅い春の頃、その森にはまだ雪が残っていました。木々の葉は落ちたままだから光がたっぷり入ってきて、『明るい森だな』と最初思いました。夏になると葉が茂ってきて、濃い影を落とす森になりました。
原生林のような土地かと思っていたんですが、実はそこは50年くらい前に植林された人工林でした。その後、人の手が入らなくなり、ずっと放置されたままになっていたらしい。それで古い森のように見えたんです。
ところが、間伐したら、なんだか丸ハゲのようになってしまって、ショックを受けて。自分を責めていたら、林業をしている友人や森の専門家が、『ぜんぜん大丈夫、もっと切っていいんだよ』と言ってくれた。『手を入れたら、100年後には素晴らしい森になるよ』と。そこから私とその森との対話が始まりました」
「森には森の時間が流れています。東京のペースで仕事をしてきた私には、森の時間のことが最初わかっていなかった。
ずっと放置されていたところに人の手が入り、土も最初はびっくりしている。2年目になると、草木がどんどん顔を出してきました。よし、私はここに、100年後に美しくなっている森を育てようと思いました。森と一緒に生きてこう。その森に今、暮らしながら、日記を書くように絵を描いています」
言葉より饒舌なもの/自由になれること
「小さいときは、毎日のように絵を描いていました。絵というか、落書きですね。家に届く新聞には広告の紙がいっぱい挟まっていて、裏が白かったから、そこに自由に落書きしていたんです。図書館大好き少女だったので、何か読んで家に帰ってくると、裏紙に、読んだ話に感化された絵を描いたり」
「大人になり、私は看護師になって、その後ファッションと美容の世界に進みました。私の周りにはアーティストがたくさんいました。メイクアップアーティストの仕事をする私は裏方でした。私は技術者であり、表現者ではないと思っていました。表現者というのは、選ばれた人、大学を出ていたり、アカデミックな勉強をしてきた人だと私は決めつけていたんです」
「コロナ禍の夏に、岐阜県美濃市の友人宅に泊まっていたとき、『描いてみたら?』って言われたんです。最初私は、いやいや、私は表現者じゃないから、絵なんて描けないって答えました。でも、友人は、『そんなことない、カズちゃんが思ったことを自由に描けばいいんだよ』という感じで言ってくれた。私は、そのとき心にあった光景を小さなキャンバスに描いてみた。ものすごく拙い絵。ところが周りのみんなが、『かわいい!』『すごくいいね』って言ってくれたんです。
それは、言葉にならないような思いを絵にしたものでした。言葉より絵が饒舌に語ってくれたんですね」
「私は、一度言葉を失ったんだなって思っていました。それまでメイクアップアーティストとして忙しく働いていて、イベントに呼ばれて喋ったり、インタビューを受けたり、いろんな場所で多くの人たちに語ってきました。オーガニックや、美容のこと、植物療法士として大切なことを女性を中心にたくさんの人たちに伝えてきた。
でも、あの森と出逢ってから、なんだか言葉が出てこなくなったというか。『どんな森なの?』とよく訊かれましたが、その度に「え、えーと……」みたいな感じで、うまく伝えられない自分がいた。
森がスゴすぎて、そこで起きていることが大きすぎて、言葉にならない。自分の声では表現が足りないというか。それが、絵を描いた瞬間、自分の中で腑に落ちたという感じでした。言葉で伝えられなくてもいいんだ、自分が描いた絵で見せられる、これでいいんだ、と思えたんです。安心できました」
「あのとき、『描いてみなよ』って言われて、小さなキャンバスにふと描いたとき、そこにいた誰も茶化さないでくれた。じっと見て、『すごくいいね!』と言ってくれた。その出来事が、私の背中を押してくれたような気がします。それ以来、ほぼ毎日、絵を描いています」
「メイクの仕事はチームワークで、みんなで作り上げるもの。モデルさんタレントさんがいて、カメラマンがいて、編集者がいて、セットを作っていく。みんなで作り上げる世界です。楽しかったし刺激的でした。
絵は、自分だけです。他の誰も関わらない。自分だけの宇宙。子供の頃、広告の裏紙に自由に落書きしていた気持ちと同じ。とっても自由。誰にも見せなくてもいい、『わーい!』という感じかな(笑)」
熊を脱いだら/自然との繋がり
早坂さんに話を聞いたその家には、何点か早坂さんが描いた絵があり、そのひとつが、先に書いた「熊の着ぐるみを脱いだ早坂さんのポートレイト」だ。その絵を手がけた頃、早坂さんは体調を崩し、ゆっくり治っていたときだったという。
「いつも身体のことを一番に考えて、健康の大切さを人に語ってきた自分が、体調を崩して、一か月半くらいの間、熱が出たり下がったり、咳が出たりを繰り返していました。それが少しずつ良くなってきた頃にこの絵を描いたんです、描きながら、一枚一枚、自分が背負ってきたもの、羽織っていた余計なものを脱いでいくような感じがしました。自分の身体と心に向き合いながら描いていた。『私が脱いだものって、何だろう?』って思ったとき、『あ、熊の着ぐるみだ』って思ってできあがったのが、これ(笑)」
長い間、「がんばってメイクアップアーティストをやっていた自分がいた」と早坂さんは言った。
早坂さんは、たくさんの女性たちを輝かせてきた。それはもしかしたら、自分を差し出すような作業でもあったかもしれない。
熊の着ぐるみを脱いだとき、自分が生まれ変わった、あるいは、新しい自分が現れた。絵を描く人、表現者としての早坂香須子、カズテラモリだ。
「でも、脱いだら、上手に言葉が出てこなくなっちゃった」と早坂さんは笑った。「一方で、すごく楽になった。かわりに絵が、語ってくれるから」
今の(ここ数年の)早坂さんの思い、心象スケッチが込められた絵が、シソンギャラリーに展示される。それらは時に饒舌に、あなたに何かを語りかけるかもしれない。
「私が暮らす森には小川が流れ、その水は湖へ流れていきます。山に雨が降り、川となって流れて、水はやがて海へと至る。山の水を私は飲んでいるから、私は山を飲んでいるとも言えるし、雨は空から降ってくるから空を飲んでいるとも言えますよね。つまり、私たちはみんな自然の一部なんだなって。そういう意味では、私の絵は、そんな“自然との繋がり”についての絵なのかもしれない。あ、今、そう思いました」
そう言って、早坂さんは大きく笑った。
text by Eiichi Imai
photography by Koichi Chida