Meet the Artist
今泉敦子 / 画家 「your garden〜旅の最後に歩く花園〜 」 Atsuko Imaizumi
鬱蒼と繁る植物。木立からこちらを見つめていたり、森の中へ誘う動物。
自然界のワンシーンを切り取ったようなマイナスイオンを感じる今泉敦子さんの作品を観て、緑豊かな庭のあるアトリエで描かれているんじゃないかと想像する。しかし、それは安直な発想で、実際は都心に近い住宅街に建つマンションで制作されていた。
敦子さんの自宅兼アトリエは、陽当たりのいい角部屋。お邪魔すると猫のララちゃんが迎えてくれた。
リビングの隣にある部屋が敦子さんのアトリエで、奥には何枚も大きなキャンバスが立てかけられている。キャンバスに向き合うように作業テーブルがあって、その上には整然と画材が並ぶ。「ものが多いでしょ」と本人は笑っていたけれど、丁寧に描かれている敦子さんの作品のイメージを裏切らない、整ったアトリエだと思った。
他者に同化していく翻訳の仕事と
自分を表現する作品制作
画家である一方、翻訳者としても活躍する敦子さんの自宅には、アトリエとは別に壁びっしりに本が並んだ書斎がある。部屋が違うとはいえ、仕事と、作品作りと、生活を全て同じ場所で行っていて(しかも、猫2匹と暮らしているのに、抜け毛の気配がない!)こんなに綺麗な部屋を保たれているなんて、同じ自宅仕事をする者として、自分の自堕落ぶりを少し反省した。
「敦子さんにとって、翻訳のお仕事と作品作りはどう違いますか?」と聞くと、こんな答えが返ってきた。
「翻訳の仕事と作品制作では、使ってる脳が違う感覚ですね。翻訳の仕事は、他者が書いたものを、出来るだけ本質を変えずに別の言語に置き換える作業なので、常に著者の意図を推察し、読者の受け取り方を想像しながら進めていくんです。著者が日本語ネイティブだったらどんな風に表現するかな、と絶えず考えて作業しています。ひとつの作品を翻訳している間は、著者と同化しているようなところもあるかもしれません。
一方で、作品制作はむちゃくちゃ”自分”です。翻訳と違って制限はないから、とても自由ですが、自分の内側をさらけ出す作業なので、思いきり無防備になります。怖くなって、つい控えめにしたり格好つけたりしそうになっちゃうけど、いかにそうせずに解放できるか、というところで自分との戦いがあります。ただ、ここ数年だんだんと、肩の力が抜けてきている感じもしていて。好きなように描けばいい、ちょっと格好つけたものができたら、それもまた“自分”ということで……と考えるようになりました。これがいいことが悪いことかはまだわからないけど、いまのところ、純粋に描く楽しさが、前より増している気がします」
転校生だった子どもの頃
映画館とデッサンの記憶
インタビュー中、アトリエを撮影していたチダさんから、敦子さんの実家が素敵だったという話を聞き、子供の頃の思い出に話題の矛先が向く。
生まれは茨城県水戸市だったが、転勤族だった父親と共に、子どもの頃から土浦や大阪、札幌などを転々としてきた。転校が多かったけれど、新しい土地へ行くことを楽しめる子だったという。
チダさんが素敵だと言った実家は、水戸にあった父親が育った家で、夏休みなどの長期の休みごとに祖父母が暮らすその家で過ごす時間が、敦子さんの原風景となっている。広い庭があって、縁側があって、和洋折衷の調度品を品良く飾ってある、古き良き日本の家だったそう。やがて祖父母が亡くなった後、両親がその家で暮らし、庭いじりが好きだった母親によって広い庭はさらに素晴らしく作り込まれた。
母親は結婚前、小学校の教師だった。図工が専科で、自宅でもよくデッサンをしたり、絵を描いていたため、絵を描くことは当たり前の環境で育った。母親が描く美しいデッサンに憧れて「なんでも描けてしまう母はかっこいい、私も描けるようになりたい」と、母親からデッサンを教わり、絵の素養を深めていった。
父親の思い出というと、洋画好きでしょっちゅう映画館へ連れて行ってくれた。一緒に観た作品で印象に残っているのは『禁じられた遊び』や『スターウォーズ』。その影響か、いつの頃からか海外へ行きたいと思うようになった。
話してくれるひとつひとつの内容が、現在の敦子さんを作るパーツとなっているのだと、腑に落ちる。
国内外を転々とする日々
ここではないどこかを求めて
札幌で高校生活を送り、アメリカの大学へ入学。3年次にはフランスへ留学し、卒業後は日本の外資系企業で通訳兼秘書として就職した。2年で会社を辞めて、インドを旅したのち、ワーキングホリデーでオーストラリアへ行き、現地の日本人向けのウィークリー新聞の編集者として働く。ずっと転校生だった敦子さんは、大人になってからも転々と暮らしていた。
「私が就職した頃はバブル景気の始まりで、仕事を辞めてもすぐに次の仕事が見つかるような時代。環境が変わることが当たり前だったからか、働き始めてからも、ずっと『自分のいるべき場所は別のどこかにある』という気がしていました。どこへ行ってもしっくりこなかったんですね。仕事を辞めて海外に行く人も多かったです。色々な場所で色々と仕事をしたけど、自分が地に足がついていない感覚でいるのは、やりたいことをやれていないからなんじゃないか、とも思っていました。その後、日本に帰って翻訳の仕事を始めたんですけど、その傍で絵を描くのはずっと好きだったから、共同アトリエに通い始めたんです」
何度かグループ展への参加を経て、初めて個展を開いたのは2000年だった。その頃の作品は、今とは違い人物画ばかり。自分は人物画しか描けない、とさえ思っていたという。空を飛ぶ女性や、消えていく女性。どの作品も、今いる場所からどこかへ行ってしまうイメージを描いていた。
変わるきっかけは
北の果てにある花園だった
2016年ごろ、なんとなく観ていたNHKのBS番組で現在の作風につながる出会いを果たす。
それは色々な庭を紹介する番組で、北海道の道東にある陽殖園という広大な庭園の映像に目を奪われたのだった。園主の高橋武市さんが、父親から譲り受けた山を60年以上かけて整備し続け、今では8万平方メートルの敷地に約8000種以上の花が季節ごとに咲き誇るという。1960年代には化学肥料を使わず、完全無農薬に切り替え、園内の花の管理や品種改良、草刈りなどすべて高橋さん1人で行っている。
実際に足を運んでみると、最初からそこにある自然の花園……のように感じた。
「陽殖園に最初に行ったのはTVで知ってから3、4カ月後ぐらいだったと思います。NHKのアナウンサーをしている、中学生の頃からの親友と一緒に8月の下旬ごろに訪れたのが最初です。私が『すごい花園が北の果てにある!』という話をしたら、なんと、彼女は陽殖園のことを取り上げた別の番組のナレーションを担当したことがあり、花園はもちろん、園主の高橋武市さんに会ってみたいと思っていたと言うので、2人で陽殖園へ行くことになりました。それから、ほぼ一緒に行っています。彼女は花園に対して感じるものが似ているので、一緒にいて心地いいんです。
初めて訪れたときは、ちょうど台風の直後で、花をつけたままの植物が、軒並み倒れていて、それがなぜかとても美しく見えたのを覚えています。特定の花というより、花園全体に生と死が混在している様がとにかく強烈で印象的でした。茶色く立ち枯れた植物が、今まさに咲き誇っている花に勝るとも劣らない美しさで、神々しくさえあると感じたんですよね。
与えられた命を生き切って、運命を受け入れ、淡々とそこにある姿が清々しくて、同時に、ある種の凄味も湛えているんです」
以来、毎年、少しずつ時季をずらして陽殖園へ通っている。
草木が茂り、様々な種類の花が咲き誇る花園は、いつ訪れても一度として同じ風景だったことがない。一日の間にも刻々と姿を変えていくという。午前中のつぼみが午後には開花して夕方には萎む。さらに、そのままの自然環境のため、高橋さんには「熊除けの鈴を持って歩いてね」と鈴を渡され(さすがにまだ出会ってはいないそう)、園内を歩くと、エゾリスやキタキツネを見かける。何度通っても飽きることがない。
作品で描いているのは、具体的にここの風景というわけではないけれど、確実にインスピレーションの源となっている場所だ。
陽殖園との出合いから、果たして敦子さんの作品に、どんな変化があったのだろうか?
現在の作品を観るとわかるように「自分は人物画しか描けない」どころか、徐々に画角から人物の存在感は無くなっていった。
「陽殖園に行った後もしばらく人物は描いてましたが、花園の中に人物のシルエットだけとか、シルエットの中にも花々を描いて、まわりの花園と一体化している作品へと変わっていきました。人物を画面の中心に据えて、ある意味 ”主役”として描いていた頃は、きっと自分の中にある、うまく言語化できないけど、どうしても無視できない私的な思いをなんとか表現したくて絵を描いていたようなところがあったんですよね。あの人物たちは、作品によって姿は色々と違うけれど、結局“自分自身”だったんだと思います。
それが年齢とともに……なのかわからないけど、少しずつ個人的なものから、より普遍的な『死という締めくくりを含めた生きること』や『命』そのものに関心がシフトしていったんでしょう。この、どちらかというと抽象的な概念が、ものすごく具体的なビジュアルとなって存在している花園に出会って、だんだん絵の中に“自分の姿”がなくてもよくなったという気がします。もちろん私が描く以上、作品に作家である私自身は入り込んでしまうのですけど、具体的な姿でそこにいなくてもいい、という意味です」
コロナ禍と母の死によって
解像度があがった作品のテーマ
陽殖園への訪問は敦子さんの作品制作において大きな転機となったが、2021年、またひとつの転機を迎える。
ある画廊で開催されたコロナ禍をテーマにした企画展に参加した際の作品は、人の気配が一切ないものだった。パンデミックで亡くなった人たちに“最後の花道”を捧げたいという思いで描いた作品で、完全に他者のためだけに絵を描くという作業を初めて意識的に行った。
同じく2021年にシソンギャラリーで開催した前回の個展のテーマは『gateway 〜帰る道〜』。木漏れ日が射す森の中、生い茂る緑の中の轍やどこかへ誘うように見え隠れする動物たちにサウダージを感じた人も少なくないのではないだろうか。
そして、今回の個展のテーマ『your garden〜旅の最後に歩く花園〜』は、昨年亡くなった母親との別れが大きく影響したのだという。
「コロナ禍になってからずっと帰省できなくて、母には2年ほど会えてなかったんです。そんな中、末期の胃がんと宣告された母の介護のため、久しぶりに再会しました。同じく東京で暮らす妹と交代で水戸へ通い、看病生活を送っていました。
84歳と高齢だったのと、転移が進んでいたこともあって、結局8ヶ月ほどで亡くなってしまったんですけど、こんなに母と一緒に、濃密な時間を過ごすことって子どもの頃以来だったんですよね。病床の母が薬の影響もあってうわ言のようなことを言うようになったとき、印象的だったのが庭の話をしたことでした。『種を蒔いてきたよ』とか『草取りしなきゃ』とか。実家の庭は、母にとってとても大切な場所だったんでしょう。人生の終わりにどんな風景が見えるのか。それがもし庭なら、その人の生き方や、見てきた景色で、それぞれ違う庭になると思うんです。こんな道を歩いてゴールの門をくぐりたいな、とか、自分が最後に歩くのはどんな花園だろう、とか、何か思いを巡らすきっかけになったらいいなと思っています」
人生には、いくつもの選択があり、その都度関わるコミュニティがある。そうやって選び、築いていくたびに、一輪の花や植物が芽生えるのだとしたら。
帰る途、最後の花道、そして人生という旅の最終盤に歩く庭。
『your garden〜旅の最後に歩く花園〜』では、悲喜交々入り混じった庭から、そこへ辿り着いた人の人生、ひいては自分自身の人生を想像する。そんな観方をするのもいいかもしれない。
文:西村依莉
写真:チダコウイチ
奥村乃/現代美術作家、サーファー、骨董屋 「世界をリミックスして生きる。」
I am a surfer, an antique dealer and a contemporary artist.
DAI OKUMURA
水曜日の午後、浅草ホッピー通り
9月の水曜日、午後3時過ぎ。
地下鉄銀座線の終点(始発でもある)、浅草駅に着いて、地上をめざす。慣れない場所だと、どの出口から出ればいいか迷ってしまうが、これだけ観光客、旅行者が大勢いると、「みんなが向かうのと同じ方向へ」というのが、間違いないのだろうなと思う。多くは外国人だ。中国語、韓国語、スペイン語、英語、他の言語も耳に入ってくる。
異国の人々の流れに乗って地上に出ると、もうすぐそこが仲見世通りの入り口だ。
それにしても、すごいにぎわいだ。平日の午後なのに……と思いつつ、旅行者にとっては平日も週末も関係ない。そして、アーティストやサーファーにとっても。
通常なら仲見世通りを抜けて浅草寺へ行き、お詣りして、となるが、今日は目的があって浅草へやって来た。午後3時半に、「ホッピー通りへ来い」という指定である。
長く東京に暮らしていても、浅草の「ホッピー通り」のことはよく知らない。そもそも浅草に来るのは久しぶりだ。ここには親しい知人、古い友人が住んでいるのだが、もう長く逢っていない。
Googleマップに「ホッピー通り」と入れれば簡単なのだが、とりあえず浅草寺の境内を見ていこうと思い、仲見世は人がすごいので脇道を歩く。
「ホッピー通り」というのは、浅草寺境内の西側にある、百メートルにも満たない通りのことで、「酒場通り」とも呼ばれるそうだ。その名の通り道の両脇に酒場がずらっと軒を連ねている。
ちなみに、同じ通りの入り口付近には、ノルウェイ、オスロ発祥の、CASA BRUTUS的なコーヒーショップ、「フグレン」がある。フグレンと、ホッピー居酒屋が並んでいるわけで、そのランドスケープは浅草らしいなと思う。
吉田類さんはこの通りが大好きだと思うけれど、太田和彦さんには庶民的過ぎるだろうか。
そんなどうでもいいことを考えながら、指定された店をめざして歩いていく。平日の午後3時台なのに、もうすでに満席状態の店も。カウンターでひとり静かにグラスを空けている中年や初老の常連客も多い。平日の昼間の時間の酒呑みたち。いったい、何をしている人たちなんだろう? 中には、明らかに「もうできあがっているな」という若者たちもいる。
ホッピー通りの店を指定した友人と、インタビューをするアーティストが「まだできあがっていない」ことを密かに願いながら、歩いていった。
いすみに暮らすサーファー
奥村乃さんは、古い和紙に水墨で絵や文字を描く現代美術作家であり、ほぼ毎朝海に入るサーファーであり、WEBサイトを通してインターナショナルに売買する古道具商&骨董屋だ。
午後3時半の浅草ホッピー通りで、ビール、ハイボール、焼酎のオン・ザ・ロックなどを飲みながら、奥村さんの話を聞く。
当初、千葉県いすみ市に住む奥村さんの自宅兼アトリエを訪問しようとしていたのだが、同居する老猫の体調がすぐれず、家族以外の人を「今は迎えることが難しい」ということで、浅草で会うことになった。
ではなぜ、代わりの場所がフグレンではなく、ホッピー通りの呑み屋だったのか。
聞くと、奥村さんはほぼ毎日、午後になると酒を呑むらしい。そんなわけで、「だったら呑み屋で会いましょう、ということになったんです」とコーディネイトしてくれた友人はマトコシヤカに語った。
毎日昼を過ぎると呑み時間だと聞いたのですが、本当ですか、と聞くと、奥村さんは笑顔で、「本当です!」と即答した。
「一応、正午までは呑まないようにしているんですが、自分の中では12時を過ぎたら(酒を)呑んでもいいということになっていて。
僕が住んでいるのは千葉県いすみ市の大原というところで、海のすぐそばです。有名ないすみ鉄道も走っています。田舎だから、1週間に一度、車でスーパーに行って、必要なものをまとめて買い込むんですね。そういうのはアメリカの田舎と同じ生活スタイルで。だから“今日は午後に車で出る”と決まっている日は、そんな早くから呑みません(笑)。でも、出かける用事がないなら(車を運転する必要がない日は)、昼から呑みます」
奥村さんはサーファーだから、朝は早起きだ。ただ呑んで寝るだけの男ではけっしてない。
「朝はすごく早起きです。僕がいすみに暮らすようになった一番の理由が波乗りなんです。四季を通じて波がとてもいい。早朝に起きて海に入るのが僕の日課です。車にはロングボードとショートボード、両方積んであって、その日の波のコンディションによって使い分けています。
いすみは、日本の中でも、波乗りについては最高の場所だと僕は思っています。いすみ以外で僕がいいなと思うのは、九州の宮崎ですね。とにかく1年365日、毎日(波に)乗れます。骨董もやるし、アンティークの商売もあるし、アート活動もあるけれど、自分のベースはやっぱりサーフィンです」
そんな奥村さんは、海なし県である埼玉県の生まれ育ちだ。海、サーフィンとの出逢いはいつ、どんな感じだったのか。
「18くらいのときですが、鵠沼に友だちがいて、サーフィンをやっていて、見ていたらかっこいいなと思って、それで僕も始めてみたんです。最初はすごくミーハーなノリでした。高校卒業後、アメリカ西海岸に留学して、向こうで本格的に波乗りをするようになったんです。ロサンゼルスのヴェニスビーチ界隈に住んでいました。ヴェニスは、俳優でアーティストのデニス・ホッパーが住んでいたところです。
サーフィンの多様性が好きです。競技としてストイックにやる人もいるし、日々の遊びとして乗ってもいい。ハワイへ行くと、お腹がでっぷり出たハワイアンのおじさんが、のんびりロングボードに乗って海の上を滑っています。いろんな楽しみ方がある。そういう自由な感じが、僕は気に入っているんですよね」
朝早く奥村さんは海へ行き、ショートかロングか、その日のコンディションで決めてボードを持って海に入り、波に乗る。「だいたい2時間くらい。波がよければ3時間くらいかな」
そして家に帰ってくると、コンピューターに向かって古道具商、骨董屋としての仕事をする。個展や展示が控えているときには、作品作りをする。そして、午後に車で出る用事がなければ、「昼を回ったら、呑みます」
アンティーク、骨董、古道具
奥村さんが骨董やアンティーク、古道具に興味を持つようになった経緯はどのようなものだったのだろう。
「15〜16年前、僕はリサイクルショップでアルバイトをしていたんですが、仕事の一環で骨董の市場にも通うようになり、そこで興味を持ちました。僕はコレクターじゃありません。基本的には直感で、茶碗、陶器、壺、仏像など、興味を持って見るようになったんです。
その後、自分でWEBサイトを開いて、インターネット上で骨董を中心に、自分でいいなと思うモノを販売するようになりました。当初ひとりでやっていたんですが、もっとバリエーションがあるほうが楽しいし、商売としてもいいだろうと思い、仕入れのときに顔を合わせていた同業者で、海外でも受けそうなモノを扱っている人たちに声をかけたんです。これが、「コンテンポラリーアンティーク集団tatami antiqueの始まりです」
「畳」こと、「tatami antique」に所属するディーラーはいろいろだが、特徴としてサイトはすべて英語だけの表記になっている。「tatami antiques is an independent online marketplace for “Contemporary Antique” as the remix selection from applied mingei folk art pieces, high-end traditional antique items or other uncategorized unknown awesome stuff presented directly from Japan to you・・・」といった感じで説明が続く。
「畳アンティークは、オンライン上の、インディペンデントなコンテンポラリー・アンティークの市場です。民芸の作品、骨董から、ハイエンドなアンティーク品、あるいは、どこにも属さないけど最高なモノまで、幅広くリミックスしてセレクトしています。全部、日本のモノです……」といった感じだろうか。
「最初は売れなくて、ぜんぜんダメでした」と奥村さんは笑った。
「食べていけないから、アルバイトをしながらやっていました。自分でもきっかけや理由はまったくわからないのですが、そのうち、人の紹介だったり、偶然見つけてくれたりして、お客さんが増えていきました。あと、SNSの発達や広がりは大きかったと思いますね」
「日本語と英語と、両方表記があるといっきにメジャー感が出て、離れてしまうお客さんが多いんです。中には、“俺だけがこのサイトを知っている”というマニアの方も外国にはいるので、英語だけの方が安心感があるようです。また、日本人で購入してくれる方はとても少ないので、だったら英語だけでいいだろう、と思って」
「今では、tatamiは完全に海外向けに発信していて、お客さんはほぼ外国人です。買ってくれる人の中には、もの作りをしている作家、アーティストも多い。彼らの多くは骨董の知識は持ち合わせていなくて、まるでアートを選ぶように、感覚的に商品を選び、購入します」
ではそもそも、「コンテンポラリー・アンティーク」とはどんなものなのだろう。
「コンテンポラリー・アンティークとは、ひと言で言うと“ごった煮”、あるいは“チャンプルー”です。メンバーの中には昔ながらのスタイルの、つまりオールドスクールな骨董屋もいれば、新しい感覚で「これ骨董?」というようなものまでセレクトするニュースクールな人もいます。その幅の広さ、多様性自体が現代的で、そうやってセレクトされているモノを“コンテンポラリー・アンティーク”と呼んでいる。で、そういうメンバーが入れ代わり立ち代わり減ったり増えたり流動的なところもtatamiの特徴のひとつです。
また、tatamiのメンバーのモノ選びは完全に自分本位です。お客さんが何を欲しいのかは、読めないので。ただ、たとえ近くにいなくても、世界中のどこかにはきっと、誰か自分と“同じ、あるいは似通った、共通するモノ”が好きなお客さんいるはずと思ってやっています」
現代美術作家として
サーファーであり、古道具商&骨董屋である奥村さんのもうひとつの顔が、現代美術作家だ。きっかけは古い和紙だったという。
「何年か前に、古道具の仕入れをしていたとき、古い和紙が大量に出たんです。紙は風合いや色合いがそれぞれあって、好きな人はたくさんいる。最初は売ろうと思って仕入れたんですが、かなりの量があったので、あるとき、“ちょっと自分で何かここに描いてみようかな”と思いました。
書の経験があるわけではありません。どちらかというと、ギターを弾いたり、音楽を創るのに近いというか。僕は墨汁と、一番太い筆を買ってきて、まず日本の平仮名を書いてみた」
「SNSに書いたものを載せると、tatamiのニューヨークのお客さんのひとりが興味を示してきた。“売って欲しい”という。それで、もっとちゃんと描いてみようと思いました」
奥村さんは、子供の頃に絵を描いていたとか、アーティストになりたいと思っていたわけではない。では、自分が影響を受けたカルチャーや、アートの分野があるのだろうか。
「大きな影響を受けたと自分が感じているのは、1980年代のカルチャー、音楽です。自分の10代や青春時代と重なるわけですが。特に、子供の頃にテレビで『ベストヒットUSA』を観ていて、そこで紹介されたアーティスト、ミュージックビデオには、強い影響を受けたと思います。デヴィッド・ボウイ、デヴィッド・バーン、プリンス、マイケル・ジャクソン、そんな時代ですよね」
Instagramで奥村さんは、自分の作品を時々アップしている。墨で描かれた、書かれた、いろんな作品がある。文字もあれば、絵もある。猫もいるし、ダース・ヴェイダーもいる。
「一応、自分の中のルールのようなものがあって、それは、“気持ちいいか”ということ。気持ちがよくないなというものは描かないですし、書いていてそういう気持ちになったらダメですよね。作品を作っているとき音楽を聴いています。音楽、音からは一番インスパイアされるかもしれません。何かモノ作りしているとき、音を、音楽を、聴きます」
もう何杯呑んだだろうか。ホッピー通りもすっかり夜になったが、人通りは絶えないどころか、夜になって増えている。一度、通り雨が降ったのだが、もう上がって、少し空気が涼しくなった。
ここへ案内してくれた友人が、奥村さんを別の店へと誘った。裏通りから裏通りへと小径を歩いて辿り着いたのは、初老のゲイ・カップルが営むカラオケ・スナックだった。着物を小粋に着こなした70代のオーナーが我々を迎え入れ、カウンターの向こうにいるもうひとりの男性が小料理を作って出してくれる(どれも、とても美味しい!)。
友人と奥村さんは順番に歌を歌い、さらにハイボールを重ねた。
いすみでは、こんなふうに店に行って呑むんですか、と奥村さんに聞くと、「いや、外では滅多に呑まないです」と答えた。
「地元では家呑みと、誰かの家に集まって呑む、みたいな。町のような感じではないし、持ち寄って誰かの家や庭で呑むのが一番いいですよね。今度一度、ぜひいらしてください。いすみ大原、すごくいいところですよ」
文:今井栄一
Dai Okumura 奥村乃
千葉県いすみ市在住のサーフィンを愛する古道具商にして現代美術家。コンテンポラリーアンティーク集団「畳」のリーダー。年に数回個展やグループ展 を行っている。
奥村乃 個展 2023. 10.20 Fri-29 Sun
つちやまり/陶芸家 LIFE, DAYS AND BRICOLAGE MARI TSUCHIYA
暮らしの中の器。
日々の営みと共にある皿。
「おもいっきりガーリーな器だと思いますが、
あえてそこに肉じゃが、めざし、茹でた枝豆とか・・・
そういうのを盛りつけてもらえると、嬉しい。
私の器と、意外な食べ物との化学反応が、楽しい。
お母さんはみんな忙しい毎日だから、ご飯を作れないときもある。
そんなときはコンビニやスーパーのお惣菜でいいと思う。
パックから出して私のお皿に載せて食べてほしい。
それだけで、いつもの夜が、なんだか楽しく、豊かになります」
つちやまり/陶芸家
夏が来た日の午後
東京に夏が来た日の午後、文京区の住宅地にある、陶芸家・つちやまりさんのアトリエを訪問した。
地下鉄の駅を出て、Googleマップに少し助けてもらいながらの徒歩7〜8分。小径や裏通り、坂道のたくさんある街だ。道の途中、上のエリアに行くための長い階段があって、なんだかパリとか、ストックホルムを思い出して、心がうきうきする。
坂と階段を上がって、少しばかり汗をかいて住所の場所に到着すると、明るい煉瓦色の建物からちょうど、つちやまりさんが外に出てきた。手にはじょうろ。
「この子たちにお水をあげようと思って」と、つちやさん。この子たち、というのは、玄関脇の植物だ。「なんだか急に、暑くなりましたね。中へどうぞ」
窯とクレイとミントティー
三階建ての建物の、二階がアトリエで、一階ガレージの一角に窯がある。つちやさんは、かつて三浦半島に暮らしていたとき、25歳という若さで自分自身の窯を開いた。以来ずっと同じ窯を使っているという。「これは二代目だけれど、同じメーカーの同じ窯。日本製です」と教えてくれた。
近くに窯内部の温度を示すデジタル機器があり、793度を示している。「今ちょうど中に、シソンさんで展示する作品が入っています」
窯が置かれたガレージから階段を上がって二階へ行くと、そこは窓のたくさんある白くて明るい部屋だ。
「ここがアトリエですが、我が家は私も息子たちも、ほぼ寝る直前までずっとここにいることが多いです。三階が居住空間でソファやテレビがあるけれど、息子たちもゲームをやるとき以外は、だいたいここにいます。私は昨日も、午前2時少し前まで、その作業机で仕事をしていました」
絵付け作業をする机の正面の白い壁に、葉や花、木の実、キノコ類などが描かれた紙が貼られていた。古いポストカードのようにも見えるが、近づくとそれらはどうやら、(古い)植物図鑑か雑誌のページから切り抜かれた絵のようだ。とても雰囲気のある植物絵の紙切れ。つちやさんの器や皿には植物が描かれているものが多いが、そのモチーフだろうか。訊くと、「違います」とつちやさんは答えた。
「それはずっとそこにあって、ふとしたときにちょっと眺めたり、という感じ」
ではそれらの絵は、つちやさんにインスピレーションを与えてくれるものですか、と訊くと、
「うん、そんな感じかもしれませんね。ずっとそこにあって、もう部屋の風景の一部になっている」
そんなふうに、アトリエ空間のあちこちに、「気になるモノ」「気になる光景」がいくつもある。興味深くあれこれジロジロ見ていると、三階から白と黒のハチワレ猫が降りてきた。クレイとミキ、つちや家に二匹いる猫の、こちらはクレイ。人懐っこいクレイは誰でも触れるが、もう一匹のミキの方は、知らない人の前には絶対姿を見せないという。
つちやさんがよく冷えたミントティーをグラスに注いでくれた。ミントの香りがすごい!とびっくりしていたら、「オーガニックのミントなんですよ。たっぷり入れたから香りがいいでしょう」とつちやさん。
涼やかなグラスに注がれた、少し色のついたミントティー。その近くに置かれた器や皿には植物が描かれていて、そこに地中海のような青が入っているから、「なんだかモロッコのようですね」と思わず口にすると、つちやさんは、「そんな風に考えていなかったけど、言われてみれば」と笑った。そしてこう続けた。
「イスラムもいろんな文化、伝統が混ざり合って、今の姿になっている。私もいろんなものが混ざって今がある。その青も、地中海的な色にも見えるけれど、日本の染め付けです。描く絵柄によっていろんな見え方ができる。私は、良くも悪くも自然体なんです。作る器もすべて、気づいたら自然にそうなってきた」
なるほど。植物を育てることも描くことも大好きなつちやまりさんの、「気づいたら自然にそうなった」物語を、聞いてみよう。
葉山、海、初めてのクラフト
「生まれたのは千葉の市川ですが、その後すぐに神奈川県三浦半島の葉山の方に引っ越してそこで育ちました。いつも海で遊んでいる女の子でした。勉強しなさいと言う両親じゃなかったから。子供は海や山で遊んでいる方がいいと考える親でした。
葉山の家から長者ケ崎の海岸まで歩いてすぐという最高のロケーション。周りには、いわゆるアーティスト的な人たちが何人もいた。彫刻家、油彩画家とか。小学生の女子にとって謎の大人たちですよね(笑)。
ある画家のおじさんと私は仲良しで、いつも遊んでもらっていた。一見ただの得体の知れないアーティストを名乗る大人なんだけれど、その人の家に遊びに行くと、すごく素敵な和風別荘建築で、シンプルかつモダンな設えで暮らしている。何もない空間にイームズの家具が置かれてたり。アフガンハウンドが二匹いて。実はオシャレな、すごいアーティストだったみたいです。
その人は油絵を描きながら、ビーズや貝殻、小石などを使ってブローチとかアクセサリーを手作りしていた。彼が使わなかったビーズとかクラフト用の粘土とか、私はもらって、それで自分でもネックレス作ったり。もしかしたらそれが、自分にとっての最初のクラフト=もの作りだったかも。
中学生になると吹奏楽部に入って、私はフルートを吹いていました。音楽はずっと好き。もうずっとやっていないけど、最近また習い始めようかな、なんて少し考えています。
その頃はまだ、将来何になろうとか、そういうこと考えていなかったと思う。唯一、エレベーターガールへの憧れはすごくありましたね。私くらいの世代では、いわゆるエレガーに憧れる女の子、けっこういたみたい」
カナダ、アート、陶芸
「高校時代、父から、カナダに行くけどどうする?と訊かれ、じゃあ一緒に行くと答えました。
外国への憧れがあったし、一度は異国に住んでみたいとも思っていました。葉山もカナダも、自分で選んで住んでいたわけじゃないけれど、結果的にそこでの時間や出会いが、後の自分の人生に大きな影響を与えていると思います。
カナダは、最初に行ったのがブリティッシュ・コロンビア州のバンクーバー。冬季五輪が開催され、今ではすっかりきれいになったようですが、私が行ったのは1990年前後のこと。その頃バンクーバーの街にはホームレスがたくさんいて、ドラッグの問題もあり、そこで高校に通うのは不安がありました。それで、バンクーバーから1時間ほど離れた田舎町に住み、そこの地元の高校に通いました。最初は英語もできないから大変だったけれど、負けず嫌いな性格が強く出て、とにかく頑張りました。
一番頑張ったのがアートのクラス。絵を描くのが大好きだったから、とにかくアートのクラスだけは卒業するとき首席をとろうと思って、一番頑張っていた。アート・クラスでは、今でも名前をしっかり覚えているんだけど(笑)、ジェイソン・スパージャーという男の子が私のライバルだった。課題が出るたび、どっちの作品が一番か常に競い合っていた。
ジェイソンは、たとえば建築とか、立体の課題に強くて、水彩画とか平面だったら私が勝つという感じだった。最終的に先生も、私かジェイソンかどちらかひとりに決めることができず、アートのクラスは首席が私とジェイソンの二人ということになった。私は不満だったけれど(笑)。
アートのクラスには陶芸もあって、そのときにロクロを回したり、その後に繋がることに触れていましたね。
私はその頃、トリシア・ギルドというインテリア・デザイナーに憧れていて、彼女のようになりたいと思っていたんです。それで、帰国後、画塾に入ってデザイン工芸のクラスを専攻しました。いろんな工業製品のデッサン、石膏デッサン、コカコーラのボトルを描くとか、そういう世界。すると、私はそういったものがうまく描けないんです。植物を描くのは得意なのに、プロダクトもの、いわゆる工業デザインになるとぜんぜんダメで。
ある日、講師に呼ばれ、「つちやは、デザインは無理だ。工芸なら行けるかもしれないから、そっちに替えないか」と言われてしまった。私の中に工芸というチョイスはまったくなかったんだけれど、美大に行きたかったし、(美大の入学試験に)合格するとしたら「工芸しかない」と断言されちゃったら、もう仕方ないなって思った。そのとき私はもう20歳で最後のチャンスだと思っていたから、それなら陶芸でいってみよう、と心を決めたんです。
京都精華大学に帰国子女枠というものがあると知り、それならいけるかもしれないと思った。多摩美か武蔵美と思っていたけどそっちは難しそうだった。
さらに調べてみたら、京都精華大学の陶芸は、入ると1年生から土をいじれるということもわかった。他の大学は最初の2年間はいろんな勉強があって土をいじれるのは3年生から。私は、陶芸をやると決めたときから、1年生から土を触りたい、もう思いっきりやってみたいという気持ちが強くなっていた。それで京都精華大学を受験し、無事合格したんです」
私にしかできない器を探して
「結果的に、陶芸を選んだことも、京都の大学に進んだことも、私には正解でした。京都は陶芸の本場だし、学校には名だたる先生が何人もいましたから。
ただ、本場だけに、現代陶芸バリバリの世界なんです。私のように「器をやりたい」という人はいなくて、授業ではなるべく立体大物作品を作るよう促されました。ハイアートとしての陶芸であり、美術品として極めている先生ばかりだったから。今、世の中は器ブームというか、益子でも波佐見でも、陶芸の器や皿が人気で、いろんなお店で扱っているし、展示販売なんかも多いけれど、当時は陶芸の器はとてもマイナーな時代でした。
織部でも備前でも、その世界で素晴らしい焼き物を作っている人たちが、すでに大勢いる。そんなところに自分が入れるとは思えなかったし、私がやりたいのは現代陶芸じゃなくて、「生活の中にある器」でした。
私は魯山人から入って「食べ物と器の化学反応」に興味があるんです。
だから、大学の4年間を終えたら、こっちに帰ってきた。先生からは「大学院に来なさい」「(京都に)残りなさい」と言われたけれど、自分の器をやりたかったから「帰ります」と言って、戻ってきました。
それで、アルバイトでお金を貯めて、母親からもお金を借りて、三浦半島に自分のアトリエを構えて窯を持った。25歳のときです。
当時、その年代で自分の窯を持つというのはとても珍しいことでした。そもそも陶芸で王道を進みたければ、大学に行くよりも有名な先生に弟子入りする方がいいだろうし、技術を得たければ職人のいる工房に入るのがいい。でも私は、「自分にしかできない器、生活と共にある器」を作りたいと思っていた。
子供の頃住んでいた場所からも遠くない三浦半島の住居兼アトリエにこもって、ひたすら「自分にしか作れない器」を探し求めていました。その頃の私は外界をシャットダウンして、内面に入り込んでいた。自分の殻に籠もっていた。自分の中から出てくるものを作るしかないって思っていた。自分にしかできない器ができるはずだと信じていた。
その頃はロクロを回していました。葉山の海辺の砂を土に混ぜたりして。そのときの作品がこれです。(と言って、つちやさんは昔作っていた皿をいくつか出してくれた) 今もふつうに使っていますよ。
夢中で作品を作っては、車に載せて東京へ行って、焼き物を扱う店やギャラリーで見せるんです。どうですか、置いてもらえませんか、って。で、断られてばかり。でも、断られるんだけれど、「あなたセンスはすごくいいから、やめずに頑張って続けるべきだ」と言ってくれる人がいて、そういう言葉にすがって、ひたすら作っていましたね」
ブリコラージュ、新たに生み出すこと
美術館に展示されるハイアートの現代陶芸ではないのかもしれないが、つちやまりさんの作った器や皿は、今や高い人気を持ち、出せばすぐに売れる、完売する。
カナダのハイスクールのアート・クラスで学んだことも、小学生の頃、近所の得体の知れないアーティストの家で目にしたイームズの家具も、京都の大学で学んだ技術や伝統も、葉山の海辺で遊んだ記憶も、全部が今のつちやまりさんを形づくっている。「いろんなものが混ざり合って今の私がある」とつちやさんは語った。
一枚の紙のようにした土を型にはめ、叩いて成形する「タタラ作り」に、草や花の絵付けを施していく、つちやまりさん。
今の作風に到達したのは「27か28くらいのときかな」と語る。
「要するに、ブリコラージュですよね。近くにあるもので、何かを創り出す、身近なものから別の何かを生み出す、ということ。最初の頃やっていた、オリーブオイルで顔料を溶くとか、消しゴムで印判を作るのも、これでやってみたらどうだろう?という気づきから始まるわけです。もの作りって、基本はみんなブリコラージュだと思います。私は大学で陶芸を学んだけれど、アカデミックな世界に進むのではなく、生活に根ざした陶芸作品を生み出したかった。日々の食卓にあって、ご飯を食べたり、お茶を飲んだりする器を」
フランス語の「bricoler」に由来する「bricolage(ブリコラージュ)」とは、もともと、「その場にあるものや、手に入るものを寄せ集めて、あれこれ試行錯誤しながら、より便利なものを創り出す」ことだ。
フランスの文化人類学者で、『悲しき熱帯』を書いたクロード・レヴィ=ストロースは、アフリカ、アジア、島や辺境を旅し、「端切れや余り物を器用に使って、生活に必要なものを作ったり、寄せ集めからとても高度な道具や生活用品を作っている普通の人々が世界各地にいる」ことを発見し、そういった名もなき人々の生活のクラフト(日常のもの作り)を「ブリコラージュ」と呼んだ。レヴィ=ストロースは、近代化されたエンジニアリングや設計などと対比させる形で、ブリコラージュを「野性の思考」と呼び、それこそが普遍的な知恵の在り方だと説いた。さらに、世界各地に伝わる「神話」や「呪術」、民族の伝統文化もまた、ブリコラージュだと語った。
「私は、良くも悪くも自然体。私も、作品も、自然にこうなってきた」とつちやまりさんは素直に、微笑みながら言った。
そう、とても自然体な女性である。
「私の器は、一見とてもガーリーな器だと思うけれど、あえてそこに、肉じゃが、めざしとか、載せてほしい。ケーキもいいけれど、他にもいろいろ試して盛りつけて使ってほしい。きっと化学反応が起きて暮らしが楽しくなると思う。気取って使うのもありだけど、スーパーのお惣菜をパックから出して盛りつけたら、すごく素敵なディナーになったりとか、そういうのもあり。自然体で、私の皿や器を使って、ご飯を食べてもらえたら嬉しい」
文:今井栄一
写真:チダコウイチ
つちやまり
Mari Tsuchiya
1974 神奈川県三浦郡葉山町生まれ。高校の時にカナダに留学。帰国後、京都精華大学にて作陶を学ぶ。葉山町の隣、秋谷にて築窯、長く葉山で活動し2016年東京都文京区へ移転後も精力的に作陶を続けている。
つちやまり 個展「アスター」 2023. 7.15 Sat-23 Sun
寺井ルイ理/画家 “おもちゃ箱をひっくり返したような”アトリエ"
ー“おもちゃ箱をひっくり返したような”アトリエで、モノの価値観もひっくり返しながら遊ぶように創作するー
「美しい」「すごい」「ヤバい」「かっこいい」「面白い」―――。
アーティストの作品を観て、それぞれが、それぞれの感想を抱く。
正直に言うと、ルイさんの作品を初めて観た時の感想は「???」だった。
よくわからない。わからないから余計に引き込まれて観入ってしまう。
これ、なんだろう?
わからない。
わかるはずもない。
彼はきっと、人がわかるものを作って、わからせようなんて思っていない。
だけど観ているといろんな発見がある。ひとつの作品の幾重にもなったレイヤーが化学反応を起こしている、とさらに引き込まれる。不思議な吸引力だ。
そして創作の風景を想像する。
彼のアトリエは、ごくふつうのマンションの一室。元工場とか元問屋とか、生活感がない場所で描かれていそう、と想像したのに、肩透かしをくらう。
しかし一歩部屋に足を踏み入れると、生活感なんてまるでなかった。それはそうだ、何せアトリエだしね。2DKの2室共にキャンバスが並び、無造作(のように見える)に置かれた画材と作品と大きなスピーカー。
外観とのギャップにくらくらして、置いてあるモノ、飾ってあるモノ、全てが気になって視点が定まらない。
「銀座で働く友人が『おもちゃ箱をひっくり返したみたい!』って言ってたよ(笑)。それってさ、すごい褒め言葉じゃない? おもちゃがそこら中にひっくり返ってるんだもん、そんな楽しい状況ないよね。」
と彼は涼やかに笑う。
大切なことは“上の学年の人”との交流で覚えた
アートの道に足を踏み入れたきっかけは、なんと消去法だった。
11歳で渡英し、サフォークにある全寮制の学校で10代を過ごしたルイさんは、ハイスクールへの進学試験のために必要な単位を取る際、“英語が得意じゃなくても評価に影響が少ない科目”として、アートを選んだ。
「英語はネイティブの人たちも参加してくるわけだから、多分、あんまり勝ち目がないわけです。テストってパーセンテージ制でしょ? 何人受けてどれぐらいできたのがいて、その中で合格っていうラインを決めるじゃないですか。なるだけ語学力に動かさないのがいいな、って。数学と生物学とアートが語学力は関係ないかなというところで、アートを選んだんです。それで進学後、先生からも『君はアートやった方がいいよ』と言われて。その後、セントマーティンに進学するんですけど、進学先もどこがいいんだろう〜と思って。その頃は今みたいにインターネットもないし、リサーチもアナログだったんだよね。一番有名な学校って理由で、受験したんです。『絶対入れないよ』ってみんなに言われちゃったけど(笑)。そこしか知らないからとりあえず願書を出して、面接に行って。で、後日『合格です』って手紙が来て。こう言っちゃなんだけど、自分ではあまり頑張ったって感じがしないんですよね(笑)」
飄々とした口調で朧げな10代の記憶を語ってくれる彼からは確かに“努力”“根性”“ガッツ”というような熱気や泥臭さは感じられない。頑張った、と言うよりも楽しんでいたんじゃないだろうか。
ふわふわ、ゆらゆら、柔らかくしなやか。セントマーティンではどんな交流や出逢いがあったのだろうか。
「セントマーティンでは同学年にも友達はいたけど、それよりも上の学年の人たちと話してるほうがよっぽど面白かったです。日本みたいに先輩・後輩っていう概念はないんだけど、彼らの制作スペースにはいろんな人が集まってて、いろんな事を教えてもらったし、その空間が心地よかった。たとえば、当時ジェフ・クーンズがアメリカの雑誌のページを買って、彼自身が笑顔で子豚を抱えてる写真に“Jeff Koons”と書いて自分の広告を打ち出したページを『アートだ』って教えてもらったり。その時は意味がわからなかったですけど(笑)。でも『ウォーホルの次は彼だ』とか、そういうことを教えてくれたのは、先生じゃなくて上の学年の人たちだった。そういう意味ではセントマーティンに行ってよかったと思います」
かつてアンディ・ウォーホルは、広告をテーマに作品を生み出したが、ジェフ・クーンズは広告を打つことをアートにしてしまった。アートは概念である。
広告はアートではないけれど、広告をアートにすることができるように、彼はプロダクトはアートではないけれど、プロダクトをアートにしている。
「僕は千利休が好きなんだけど、彼が最初に使っていた茶碗なんて、朝鮮半島の『高麗茶碗』と呼ばれる素朴な感じの、ごく一般的な器だったんですよね。利休は美しさを価値があるもの、としてではない、雑器を茶室に持ち込んで、その無作為な美を評価したことで、価値観に変化が起きた。すごく面白いですよね。僕も陶器の作品を作ったんですよ。廃棄されてる器に取っ手を付けてマグカップにしたものです。萩焼や益子焼、いろいろあって、安ければ安いほどアートにした時、面白いんですよね」
そう言ってユニークな形の取っ手を付け、釉薬をかけて焼き直したマグカップを見せてくれた。中にはファミリーレストランで使われているような、ベーシックな形なのに、違和感のあるテクスチャーに仕上げられているものも。
彼のセンスと手間ひまの下にアップサイクルされたマグカップで飲むコーヒーは、その付加価値のせいか冷めていても妙に美味しく感じた。
相反する組み合わせだからこそ、楽しい
価値をアップデートする彼の柔軟性は、セントマーティン卒業後に、ロンドンのセレクトショップでスタッフとして働いていた頃、ちょっとした記録を打ち出した。
1990年代のロンドンは、音楽、映画、ファッション、様々なカルチャーの発信地で世界中が注目する街だった。ルイさんがクロムハーツを身につけて店に立つと、日本人のバイヤーからウケが良く、月に1000万円、多い時は2000万円も売り上げがあった。そこでクロムハーツの社長から「ルイの欲しいものを作るよ!」と話があり、コンバースの金具をクロムハーツにしたものをリクエスト。これが話題を呼び、後々オフィシャルにコンバース×クロムハーツのコラボレーションを実現、今やプレミアムアイテムとなっている。今でこそ様々なブランドがリリースするコラボアイテムの先駆けでもあるのだ。
「当時、鞄などの革製品をクロムハーツに持ち込んで改造していたんですけど、あえて誰もが買えるリーズナブルなコンバースのスニーカーでやるっていうのが面白いな、と思ったんです。ラグジュアリーの究極みたいなものですよね。アメリカ人の感覚だと、オーダーで15万〜20万ぐらいするものにお金を払うわけないだろう、っていう考えだったんですよね。でも、日本人って儚いものが好きじゃないですか。だから絶対流行るなと思った。相反する組み合わせだからこそ、欲しくなっちゃうだろうなっていうのはわかったし、自分も欲しかった。日本人でしかない感覚かもしれないけど、カゲロウや桜の儚さみたいなものに通ずるのかもしれませんね。その頃、クロムハーツで作ってた靴って、ファイヤーマンブーツしかなくて、日本人はそんなの履かないから、余計に刺さったんじゃないかな。カジュアルに着こなせるクロムハーツだ、ってね。そんなわけで日本人だけで50足ぐらいコンバースを持ち込んで改造してくれ、ってオーダーが来て、社長がびっくりしてましたよ(笑)」
誰もやっていない事を面白がってやってみる、そのマインドは年を重ねた今も変わらない。いや、むしろ加速しているかもしれない。
一時期、彼のライフワークは「#ファッションブロガー」だった。昨年退任したが、GUCCIのクリエイティブディレクターにアレッサンドロ・ミケーレが着任した2015年はノームコアが主流。ブログなんてやっていないルイさんだが、ミケーレのデコラティブなGUCCIで全身コーディネートした写真に「#ファッションブロガー」とハッシュタグをつけてInstagramに投稿。定期的に発信し続け、シリーズ作品化した。当時の感覚だと一種の皮肉にも思えるかもしれないが、ギリギリのラインを真顔で着こなす絶妙なキッチュさが面白い。
「僕は“価値観の定義の問い”や“価値観の昇華”に興味があって。矛盾や、物事の狭間を考える事が好きだなんだと思います。『トレンドって何?』ということについて考える事とか。お洒落が個性とオリジナルなら、“誰も着こなせないようなトリッキーな服”が1番お洒落っていう答えに行き着いた。それまではマルジェラとかを着てたから、GUCCIを着始めた頃、周りはみんなびっくりしてましたね。『え!?』って(笑)。それがある時から『お洒落ですねー』って言われ始めて、インフルエンサーたちがGUCCIを着てるのを見るようになって、日本にもGUCCIの感覚が浸透したんだな、って感じました。僕はあえて合わない色を探している部分もあって。多くの人達は相性の良い色の組み合わせを探すから、不安になると思うんだけど、僕の場合、色が合わない時が最高なんです。だけどまだ合わない色同士に出会った事ありません」
矛盾から広がるめくるめく世界。彼の作品はミスマッチを探る途中で生まれたものなのかもしれない。
6月末に始まるsison galleryでの展示のテーマは「ハイブリッドドリーム」。“夢は時空を超えて見れるか?”だという。
「ジェラシックパークのティラノサウルスは6800万年前の夢を見るのか? 本当にもし恐竜が復活したら、何千年万年前の夢を見るのか考えてみたんです。フィリップ・K・ディックのSF小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』のタイトルがずーっと好きで、いつも色々な物事をこのタイトルに当てはめて考えてます。現代に復活した恐竜は、現代と何千年前のハイブリッドの夢を見るのか? もしそうなら、夢の絵柄を想像すると楽しい。『アンドロイドは〜』の原題は『Do Androids Dream of Electric Sheep?』なんだけど、好きなのは日本語タイトル。“電気羊”って、電気鰻みたいじゃない? “Electric Sheep”は電気で動く羊だけど“電気羊”は電気を発電してるかもしれない。アンドロイドの羊じゃなくていいわけです。本当は“電力羊”と訳すべきだったんですよね。“電気羊”と訳したことで、イマジネーションの幅ができた。実は元はストレートヘアの羊で、自分の電気でチリチリなのかな、とか(笑)」
すっかり話し込んだ帰り道、アトリエがあるマンションから遠くを見ると、一見遊園地のような、ラブホテルのような建物が見えた。それはサイロをピンク色に塗ったセメント工場だった。
住宅街にあるセメント工場、しかもそれがピンク色。
固定概念にとらわれない彼のアトリエの近くに、偶然にもこんな工場があるのが巡り合わせのようで、面白い。
6月の展示では、どんなハイブリッドな夢を見せてくれるのだろう。
文:西村依莉
写真:チダコウイチ
寺井ルイ理
「ハイブリッドドリーム ”夢は時空を超えて見れるか?”」
2023年6月24日~7月2日
13:00 ~ 19:00 (月曜休廊)
寺井ルイ理 Louis Terai
東京生まれ。11歳より単身渡英。Central St Martins LONDONからWINCHESTER SCHOOL of ART入学後、FINE ART PAINTINGを専攻し卒業。その後展覧会に絵画作品を発表するかたわら、ロンドンを拠点に多数のアパレルブランドに企画、バイヤー(BROWNS)として携わる。30歳で帰国。以降、アブストラクトペインティングを中心に作品を発表、国内外のコレクターに親しまれている。
また伊勢丹新宿本店ウィンドウのジャックや、ルイ・ヴィトン、3.1Philip Lim、CA4LA、開化堂、中川木工芸、風月堂等の国内外のブランドや企業とのコラボレーションなども展開、絵画制作だけにとどまらず、様々なディスプレイデザインやブランドプロダクトディレクションも手掛けている。
https://instagram.com/louisterai
https://youtube.com/playlist?list=PLHwzAmoAlltEtkjrTa3X6gcJYTrYcTku6
Acchi Cocchi Bacchi Saeko Takahashi 高橋彩子/バッチ作家
旅するバッチを身につけて、あっちこっちへ旅をしよう。
旅の香りがする部屋に世界中から集まってくる布きれ。
旅を愛する高橋彩子さんがそこにハサミを入れると、風が流れて、
「アッチコッチバッチ」が生まれる。
『恋する惑星』のような雑居ビル。
みなとみらい線の終点、元町・中華街駅。地上へ出ると、そこは横浜中華街だ。
広東道から長安道と歩いて、横浜中華学院から響く子供たちの声を聞きながら、五叉路を右折して福建路に入ると、右手に古い雑居ビルが現れる。両隣は八百屋で、この辺りは中華街の中でも生活感あふれるエリアだ。
雑居ビルの階段を上がると、異世界が広がる。
ウォン・カーウァイ監督の映画『恋する惑星』の舞台となった、あの重慶マンションのような空間がそこにある。「ここは、日本?」と思わずつぶやいてしまう。1980年代の香港の裏通りにタイムスリップしたような気分。踊り場に立ち、ぐるっと見回すと、今にもドアを開けて警官姿のトニー・レオンが現れ、階段の上からショートカットのフェイ・ウォンが「ホテル・カリフォルニア」を歌いながら降りてきそうだ。
そんな白昼夢に浸りながらブザーを鳴らすと、ドアを開けて迎えてくれたのは、バッチ作家の高橋彩子さんと、愛猫のメー。「ニャー!(訳=あんたら、誰や? 勝手に入ってくんなー)」と大声で文句を言う大猫メーに頭を下げながら中へると、そこに、またまた異空間が広がっている。
アトリエ兼住居というその部屋が、そのまま高橋さんの「作品」のようなのだ。
壁に貼られた無数の写真やカード、イラスト、布きれ、文字やスケッチが書かれた紙。カーテンレールの上に並ぶ様々な人形、仮面。大きなガラス窓から光が注ぎ、観葉植物の緑は熱帯雨林の森のよう。床に置かれた、バッチ作品のような大きなクッションは、メーのベッドだという。体重8kgオーバー(9kgまであとわずか!)のメーは、白地に黒のブチで、とても可愛い。つかず離れずの距離感で、初めて見る来訪者をじっと観察している。
どんと置かれたノースフェイスの黒のトラベルバッグ。高橋さんが、ついさっき旅から戻ったばかりのよう。あるいは、間もなく出発するような。
このあとのインタビューで高橋さんは、「旅するように生きたい」と語るのだが、彼女のこの部屋が、「旅の途中」という感じである。あるいは、高橋さんのこの部屋は、『ハウルの動く城』のように、自在に姿形を変えて何処かへ旅していきそうだ。旅を愛するバッチ作家、高橋さんのDNAがにじみ出て、部屋に浸透しているに違いない。
小さな本棚からも旅の匂いが漂う。ガルシア・マルケスの『予告された殺人の記録』、沢木耕太郎の『天涯』『深夜特急』、使い込まれた『スペイン語文法』、『風の谷のナウシカ』全巻、ゲルハルト・リヒター、フリーダ・カーロ、スーザン・ソンダグ、宮沢賢治、などなど。高橋さんの心の地図を垣間見る。
高橋さんがキッチンで湯を沸かして中国茶を淹れているあいだ、部屋の隅々まで、探偵のように、見入ってしまった。
やがてお茶が入り、夕暮れの光が部屋を照らし、高橋さんの話に耳を傾ける。
アトリエ兼住居。
「ここに来たのは3年前。生まれ育ったのは横浜だけれど、大人になってからはずっと東京で、横浜にまた戻ってくるとは思っていなかった。戻ってきたのは主に猫のため。メーと一緒に暮らすことになって、猫を飼ってもいい物件を探していたとき、このビルのオーナーさんからこの部屋が空いているという連絡をもらったんです。猫も飼っていいということで。
古い建物なので、エレベーターはないし、窓は重いけれど、この雰囲気は気に入っています。
引っ越してきたのはコロナ禍の真っ最中。この辺りもすごく静かだった。今は観光客が増えて、にぎやかな中華街に戻ったけれど、ここは観光の中心からは微妙に外れているから、わりと静かなほう。
そのトラベルバッグはいつも一緒。去年のメキシコもそれで行きました。二回くらいロストラゲージしているけれど、大事な相棒です。
あの奥のデスクが作業用で(部屋の真ん中に短いカーテンのような仕切りがあり、その向こう側のスペースの壁沿いに作業デスクがある。バッチ作品の基になる布きれが山積みになっている)、そのデスクには「上がってはいけない」とメーも理解している。一応あっちのスペースがアトリエ。でも最近は、だんだんこっちのダイニングテーブルでも作業をするようになって、オンとオフの空間の境目が怪しくなっています」
沢木耕太郎と旅の始まり。
「旅とは無縁の家で育ちました。ふつうに(中森)明菜ちゃんとか聞いている女の子で(笑)。ただ、もの作りには強い興味がありました。
昔、NHK教育テレビで『できるかな』という子供向けの工作番組があって、夢中で観ていたんです。何でも作ってしまうノッポさんという人がいて、憧れて。私はノッポさんになるのが夢でした。
高校時代に欧米の映画との出会いがあって、洋画が好きになり、ケヴィン・コスナーと結婚したいと真剣に考えて、まずは英語を話せるようになろうと勉強を開始。
大学生のとき、作家の沢木耕太郎さんの講演会があり、沢木さんと同年代の母親が大好きで、強くすすめられて聞きに行ったら、もうめちゃくちゃ面白くて。早速ハマって『深夜特急』を夢中で読み、私もこんな旅がしてみたい!となって、アルバイトしてお金を貯めるとバックパック担いでタイに行きました。これが、旅の始まりかな。
そのとき、母へのお土産で、象が刺繍された布ポーチを買ってきたんですが、それが、海外で布を買うことの始まり。
その後も、ベトナム、マレーシアなど東南アジアへ何度か旅をして、現地の民族衣装に夢中になり、いろんな布を買って帰ってくるようになりました」
好きな世界、憧れ、作りたい気持ち。
「浪人中に美容室でたまたま手に取った雑誌の、グラビアや誌面デザイン、モデルたちの装いに衝撃を受けて、こういう雑誌作りをしたい!と強く思ったんです。雑誌や広告がとても元気な頃で、そういう世界観に憧れがあったんでしょうね。ただ、時代は就職氷河期だったから、大手出版社にすっと入れるわけでもなくて。
子供の頃から絵を描くことは大好きだったし、写真を見る、アートに触れることも好きだった。自分も何か作りたい気持ちはあったと思うけれど、作家になるというような発想はもちろんゼロ。
小さな出版社に入るものの、途中で辞することになってしまった。そうして、しばらく家にこもってウジウジしていたら、母親が見かねて、「あなた、どこか行ってきたら」と言い、その頃自分の興味が向いていたメキシコへ行こうと思ったんです。
渋谷のBunkamuraでフリーダ・カーロの作品を目にして、書店で『メキシコ骸骨祭り』という本を見つけて衝撃を受けて。私がメキシコの話を夢中でするものだから、母親は「だったらメキシコへ行けば」と言った。それでメキシコへ行きました。1か月くらいの予定で出発して、結果的に1年半ほどメキシコにいました」
サン・ミゲル・アジェンデ、モニカとの出会い。
「オアハカへ行って、目当ての『死者の祭り』(骸骨祭り)を見たら、日本へ帰ってきちんと就職しようと思っていた。そうしたら、グアナファトのドミトリーで同部屋になったアメリカ女性が、サン・ミゲル・デ・アジェンデという街の話をしてくれた。彼女が、「あなたは絶対そこが好きだから行った方がいい」と言って、それならばと行ってみた。
今ではすっかり変わってしまったけれど、当時のサン・ミゲル・デ・アジェンデは、アーティストやクリエイターのような人たちが集まっていて、その周りに本気のバックパッカーがいて、旅の匂いぷんぷんの面白い街だった。今ではアメリカ資本が入り、世界遺産に登録され、すっかり高級リゾート地だけれど、私が住んでいた頃は、旅人の街という感じですごくよかったんです。
欧米からのバックパッカーだらけのドミトリーで、私は、二段ベッドの、巨大なノルウェイ女性の下のベッドで寝ていて、いつ上から彼女が落ちてこないかとヒヤヒヤしながら日々を送っていました。
サン・ミゲル・デ・アジェンデに、カルチャーセンターのような学校があり、そこに「títeres(ティテレス)」と書かれた部屋があった。小さな窓から中をのぞくと、大人と子供が一緒になって、みんなで何か作って動かしたり、楽しそうなことをしている。ティテレスって何?と訊いたら、パペット(人形)だ、って。私は興味がわいて中で見せてもらったんです。
その学校には、陶芸や絵画、ダンスなど、いろんな教室があるんだけれど、その人形の教室は一番地味で人気が薄い感じだった。でも私は、「ノッポさんの世界だ!」と思って、一番強くひかれたんです。
そこにモニカという女性がいた。そこは彼女が教え、人形劇を作る教室なんだけれど、結果的に私はモニカのお手伝いをすることになったんです。モニカはなぜか、初めて会った私に部屋のカギを渡しながら、こう言ったんです。「あなた、明日からここで好きなように遊んでいいわよ」。(モニカ・ホスさんは女優、劇作家。いくつもアワードを受賞し、著書もある)
翌日から私はそこで縫い物をしたり、ミシンをかけたり、張り子を作ったり。毎日通いました。でも、モニカから何か技術を教えてもらったわけじゃなくて、やることは自分で見つけてどんどんやっていった感じ。モニカからは、もっと大切なことをたくさん学びました。モニカには、生き方を教わったと思っています。モニカは私にとって、人生で最も重要な人。彼女に会ったから、今の私がある。
サン・ミゲル・デ・アジェンデは、あの頃の私にとっての「故郷(ホーム)」でした。自分にぴったり合っていた。1年半いるあいだ、一度も日本を恋しく思ったことはなかった。ご飯は合わなかったけれど(笑)」
バッチの始まり。
「帰国後、会社勤めをしていましたが、ずっとモヤモヤした感じがありました。そんなとき、母が病気になり、亡くなって、私は家の片づけをしていました。13年前のことです。
母はすらっと背の高い美しい女性で、服のサイズはまったく合わないから、とにかく遺されたモノはどんどん捨てていった。
古いクッキー缶が出てきて、「サエちゃんのお土産」と書かれたシールが貼られていた。開けてみたら、タイで私が買った布ポーチとか、いろんな国の土産物の布が入っていた。母が遺したほとんどのモノを捨てたけれど、それだけは捨てられなかった。
それらはすべて、誰かが一生懸命作ったもの、誰かの手がかかっているもの。
じっと見ているうち、「これ、捨てられないけど、ここだけ切ってしまおうかな」と思って、ちょっとハサミを入れてみた。そうして切った布きれをテーブルに並べたら、「あら、可愛い!」と思った。
切った布きれと布きれを、簡単に木工ボンドでくっつけてみたりして、遊んだ。そうしたら、私、少しずつ元気になったんです。すごく落ち込んでいたのだけれど、少しずつ。手を動かしたり、身体を動かすと、それだけで気分が変わったりしますよね。そんな感じだった。ボンドでくっつけて何か作っていると、「あ、なんか楽しいじゃん」と思って。そのとき10個くらい作ったかな。それが、バッチの始まり」
アッチコッチバッチ。
「ずっと昔、モニカと出会い、結果的に彼女の人形劇作りを手伝ったけれど、最近になって私は、実は自分が、モニカが作っていた物語のことをまったく理解していなかったんだ、ということに気がついたんです。モニカが作っていたのは、とても個人的な物語だった。彼女はあることに深く傷ついていて、そのことを人形劇として書いていた。私はそれをまったくわかっていなかった。18年経って、やっと私はそのことを理解した。去年メキシコへ行ってモニカと会ったとき、私は彼女に謝りました、「ごめんねモニカ、私は何もわかっていなかった」って。モニカは笑っていた。そんなことずっと知っていたよ、という感じだった。
そしてモニカから、「サエコは、何に傷ついているの?」って訊かれた。「あなたは何のためにバッチを作っているの?」って。
そうか、と私は思った。
モニカは「自分が傷ついていること」について物語を書いていた。そして私は、自分の「寄る辺なさ」に傷ついている、ということに気がついた。
子供の頃からずっとそうだった。ずっと「寄る辺ない自分」だった。どこにも属せず、どこにも入れない。自分は何者なのか、自分は何をしたいのか。私はずっと、そのことに傷ついていたんだ。
アッチコッチバッチの基になっている布きれは、いろんな国や場所の民族衣装です。民族衣装とは自分が「ここに属している」という証のようなもの。どこにも属せていない私は、だから「そういう布きれにひかれるのかな」と思った。その瞬間、自分がなぜ「アッチコッチバッチを作っているか」がわかったんです。
ここに一枚の布がある。私は物事が停滞するのがイヤなんです。常に風が吹いていて欲しい。常に動いていたい、動かしたい。だから、布がここに留まっているのがイヤだから、ハサミを入れる。最初にハサミを入れたとき、とても気持ちがよかった。その気持ちよさは今もまったく変わっていない。布にハサミを入れて切るのは気持ちがいいことなんです。古い布に詰まっている小さなゴミやホコリをとってやると、風が通る気がする。
世界のあっちこっちからやって来た布たちに、私は風を通したい。この布たちを自由にして、生まれ変わらせて、何処かへ飛び立たせてあげたい。だからハサミを入れて、糸を通し、編んで、バッチにして、あっちこっちへ旅をさせてあげる。それが、アッチコッチバッチ、なんです」
2023年4月
文:今井栄一
写真:チダコウイチ