Meet the Artist

2023-06-10 14:39:00

寺井ルイ理/画家 “おもちゃ箱をひっくり返したような”アトリエ"

 

ー“おもちゃ箱をひっくり返したような”アトリエで、モノの価値観もひっくり返しながら遊ぶように創作するー

 

「美しい」「すごい」「ヤバい」「かっこいい」「面白い」―――。

アーティストの作品を観て、それぞれが、それぞれの感想を抱く。

正直に言うと、ルイさんの作品を初めて観た時の感想は「???」だった。

よくわからない。わからないから余計に引き込まれて観入ってしまう。

 

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これ、なんだろう?

わからない。

わかるはずもない。

 

彼はきっと、人がわかるものを作って、わからせようなんて思っていない。

だけど観ているといろんな発見がある。ひとつの作品の幾重にもなったレイヤーが化学反応を起こしている、とさらに引き込まれる。不思議な吸引力だ。

そして創作の風景を想像する。

 

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彼のアトリエは、ごくふつうのマンションの一室。元工場とか元問屋とか、生活感がない場所で描かれていそう、と想像したのに、肩透かしをくらう。

しかし一歩部屋に足を踏み入れると、生活感なんてまるでなかった。それはそうだ、何せアトリエだしね。2DK2室共にキャンバスが並び、無造作(のように見える)に置かれた画材と作品と大きなスピーカー。

外観とのギャップにくらくらして、置いてあるモノ、飾ってあるモノ、全てが気になって視点が定まらない。

「銀座で働く友人が『おもちゃ箱をひっくり返したみたい!』って言ってたよ(笑)。それってさ、すごい褒め言葉じゃない? おもちゃがそこら中にひっくり返ってるんだもん、そんな楽しい状況ないよね。」

と彼は涼やかに笑う。

 

 

大切なことは“上の学年の人”との交流で覚えた

 

アートの道に足を踏み入れたきっかけは、なんと消去法だった。

11歳で渡英し、サフォークにある全寮制の学校で10代を過ごしたルイさんは、ハイスクールへの進学試験のために必要な単位を取る際、“英語が得意じゃなくても評価に影響が少ない科目”として、アートを選んだ。

 

「英語はネイティブの人たちも参加してくるわけだから、多分、あんまり勝ち目がないわけです。テストってパーセンテージ制でしょ? 何人受けてどれぐらいできたのがいて、その中で合格っていうラインを決めるじゃないですか。なるだけ語学力に動かさないのがいいな、って。数学と生物学とアートが語学力は関係ないかなというところで、アートを選んだんです。それで進学後、先生からも『君はアートやった方がいいよ』と言われて。その後、セントマーティンに進学するんですけど、進学先もどこがいいんだろう〜と思って。その頃は今みたいにインターネットもないし、リサーチもアナログだったんだよね。一番有名な学校って理由で、受験したんです。『絶対入れないよ』ってみんなに言われちゃったけど(笑)。そこしか知らないからとりあえず願書を出して、面接に行って。で、後日『合格です』って手紙が来て。こう言っちゃなんだけど、自分ではあまり頑張ったって感じがしないんですよね(笑)」

 

飄々とした口調で朧げな10代の記憶を語ってくれる彼からは確かに“努力”“根性”“ガッツ”というような熱気や泥臭さは感じられない。頑張った、と言うよりも楽しんでいたんじゃないだろうか。

ふわふわ、ゆらゆら、柔らかくしなやか。セントマーティンではどんな交流や出逢いがあったのだろうか。

 

「セントマーティンでは同学年にも友達はいたけど、それよりも上の学年の人たちと話してるほうがよっぽど面白かったです。日本みたいに先輩・後輩っていう概念はないんだけど、彼らの制作スペースにはいろんな人が集まってて、いろんな事を教えてもらったし、その空間が心地よかった。たとえば、当時ジェフ・クーンズがアメリカの雑誌のページを買って、彼自身が笑顔で子豚を抱えてる写真に“Jeff Koons”と書いて自分の広告を打ち出したページを『アートだ』って教えてもらったり。その時は意味がわからなかったですけど(笑)。でも『ウォーホルの次は彼だ』とか、そういうことを教えてくれたのは、先生じゃなくて上の学年の人たちだった。そういう意味ではセントマーティンに行ってよかったと思います」

 

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かつてアンディ・ウォーホルは、広告をテーマに作品を生み出したが、ジェフ・クーンズは広告を打つことをアートにしてしまった。アートは概念である。

広告はアートではないけれど、広告をアートにすることができるように、彼はプロダクトはアートではないけれど、プロダクトをアートにしている。

 

「僕は千利休が好きなんだけど、彼が最初に使っていた茶碗なんて、朝鮮半島の『高麗茶碗』と呼ばれる素朴な感じの、ごく一般的な器だったんですよね。利休は美しさを価値があるもの、としてではない、雑器を茶室に持ち込んで、その無作為な美を評価したことで、価値観に変化が起きた。すごく面白いですよね。僕も陶器の作品を作ったんですよ。廃棄されてる器に取っ手を付けてマグカップにしたものです。萩焼や益子焼、いろいろあって、安ければ安いほどアートにした時、面白いんですよね」

 

そう言ってユニークな形の取っ手を付け、釉薬をかけて焼き直したマグカップを見せてくれた。中にはファミリーレストランで使われているような、ベーシックな形なのに、違和感のあるテクスチャーに仕上げられているものも。

彼のセンスと手間ひまの下にアップサイクルされたマグカップで飲むコーヒーは、その付加価値のせいか冷めていても妙に美味しく感じた。

 

 

相反する組み合わせだからこそ、楽しい

 

価値をアップデートする彼の柔軟性は、セントマーティン卒業後に、ロンドンのセレクトショップでスタッフとして働いていた頃、ちょっとした記録を打ち出した。

1990年代のロンドンは、音楽、映画、ファッション、様々なカルチャーの発信地で世界中が注目する街だった。ルイさんがクロムハーツを身につけて店に立つと、日本人のバイヤーからウケが良く、月に1000万円、多い時は2000万円も売り上げがあった。そこでクロムハーツの社長から「ルイの欲しいものを作るよ!」と話があり、コンバースの金具をクロムハーツにしたものをリクエスト。これが話題を呼び、後々オフィシャルにコンバース×クロムハーツのコラボレーションを実現、今やプレミアムアイテムとなっている。今でこそ様々なブランドがリリースするコラボアイテムの先駆けでもあるのだ。

 

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「当時、鞄などの革製品をクロムハーツに持ち込んで改造していたんですけど、あえて誰もが買えるリーズナブルなコンバースのスニーカーでやるっていうのが面白いな、と思ったんです。ラグジュアリーの究極みたいなものですよね。アメリカ人の感覚だと、オーダーで15万〜20万ぐらいするものにお金を払うわけないだろう、っていう考えだったんですよね。でも、日本人って儚いものが好きじゃないですか。だから絶対流行るなと思った。相反する組み合わせだからこそ、欲しくなっちゃうだろうなっていうのはわかったし、自分も欲しかった。日本人でしかない感覚かもしれないけど、カゲロウや桜の儚さみたいなものに通ずるのかもしれませんね。その頃、クロムハーツで作ってた靴って、ファイヤーマンブーツしかなくて、日本人はそんなの履かないから、余計に刺さったんじゃないかな。カジュアルに着こなせるクロムハーツだ、ってね。そんなわけで日本人だけで50足ぐらいコンバースを持ち込んで改造してくれ、ってオーダーが来て、社長がびっくりしてましたよ(笑)」

 

誰もやっていない事を面白がってやってみる、そのマインドは年を重ねた今も変わらない。いや、むしろ加速しているかもしれない。

一時期、彼のライフワークは「#ファッションブロガー」だった。昨年退任したが、GUCCIのクリエイティブディレクターにアレッサンドロ・ミケーレが着任した2015年はノームコアが主流。ブログなんてやっていないルイさんだが、ミケーレのデコラティブなGUCCIで全身コーディネートした写真に「#ファッションブロガー」とハッシュタグをつけてInstagramに投稿。定期的に発信し続け、シリーズ作品化した。当時の感覚だと一種の皮肉にも思えるかもしれないが、ギリギリのラインを真顔で着こなす絶妙なキッチュさが面白い。

 

「僕は“価値観の定義の問い”や“価値観の昇華”に興味があって。矛盾や、物事の狭間を考える事が好きだなんだと思います。『トレンドって何?』ということについて考える事とか。お洒落が個性とオリジナルなら、“誰も着こなせないようなトリッキーな服”が1番お洒落っていう答えに行き着いた。それまではマルジェラとかを着てたから、GUCCIを着始めた頃、周りはみんなびっくりしてましたね。『え!?』って(笑)。それがある時から『お洒落ですねー』って言われ始めて、インフルエンサーたちがGUCCIを着てるのを見るようになって、日本にもGUCCIの感覚が浸透したんだな、って感じました。僕はあえて合わない色を探している部分もあって。多くの人達は相性の良い色の組み合わせを探すから、不安になると思うんだけど、僕の場合、色が合わない時が最高なんです。だけどまだ合わない色同士に出会った事ありません」

 

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矛盾から広がるめくるめく世界。彼の作品はミスマッチを探る途中で生まれたものなのかもしれない。

6月末に始まるsison galleryでの展示のテーマは「ハイブリッドドリーム」。“夢は時空を超えて見れるか?”だという。

 

「ジェラシックパークのティラノサウルスは6800万年前の夢を見るのか? 本当にもし恐竜が復活したら、何千年万年前の夢を見るのか考えてみたんです。フィリップ・K・ディックのSF小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』のタイトルがずーっと好きで、いつも色々な物事をこのタイトルに当てはめて考えてます。現代に復活した恐竜は、現代と何千年前のハイブリッドの夢を見るのか? もしそうなら、夢の絵柄を想像すると楽しい。『アンドロイドは〜』の原題は『Do Androids Dream of Electric Sheep?』なんだけど、好きなのは日本語タイトル。“電気羊”って、電気鰻みたいじゃない? “Electric Sheep”は電気で動く羊だけど“電気羊”は電気を発電してるかもしれない。アンドロイドの羊じゃなくていいわけです。本当は“電力羊”と訳すべきだったんですよね。“電気羊”と訳したことで、イマジネーションの幅ができた。実は元はストレートヘアの羊で、自分の電気でチリチリなのかな、とか(笑)」

 

すっかり話し込んだ帰り道、アトリエがあるマンションから遠くを見ると、一見遊園地のような、ラブホテルのような建物が見えた。それはサイロをピンク色に塗ったセメント工場だった。

住宅街にあるセメント工場、しかもそれがピンク色。

固定概念にとらわれない彼のアトリエの近くに、偶然にもこんな工場があるのが巡り合わせのようで、面白い。

6月の展示では、どんなハイブリッドな夢を見せてくれるのだろう。

 

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文:西村依莉

写真:チダコウイチ

 

寺井ルイ理 

「ハイブリッドドリーム ”夢は時空を超えて見れるか?

2023624日~72日 

13:00 ~ 19:00 (月曜休廊)

 

 

寺井ルイ理 Louis Terai

東京生まれ。11歳より単身渡英。Central St Martins LONDONからWINCHESTER SCHOOL of ART入学後、FINE ART PAINTINGを専攻し卒業。その後展覧会に絵画作品を発表するかたわら、ロンドンを拠点に多数のアパレルブランドに企画、バイヤー(BROWNS)として携わる。30歳で帰国。以降、アブストラクトペインティングを中心に作品を発表、国内外のコレクターに親しまれている。

また伊勢丹新宿本店ウィンドウのジャックや、ルイ・ヴィトン、3.1Philip LimCA4LA、開化堂、中川木工芸、風月堂等の国内外のブランドや企業とのコラボレーションなども展開、絵画制作だけにとどまらず、様々なディスプレイデザインやブランドプロダクトディレクションも手掛けている。

https://instagram.com/louisterai

https://youtube.com/playlist?list=PLHwzAmoAlltEtkjrTa3X6gcJYTrYcTku6

2023-05-24 16:54:00

Acchi Cocchi Bacchi Saeko Takahashi 高橋彩子/バッチ作家

旅するバッチを身につけて、あっちこっちへ旅をしよう。

 

旅の香りがする部屋に世界中から集まってくる布きれ。

旅を愛する高橋彩子さんがそこにハサミを入れると、風が流れて、

「アッチコッチバッチ」が生まれる。

 

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『恋する惑星』のような雑居ビル。

 みなとみらい線の終点、元町・中華街駅。地上へ出ると、そこは横浜中華街だ。

 広東道から長安道と歩いて、横浜中華学院から響く子供たちの声を聞きながら、五叉路を右折して福建路に入ると、右手に古い雑居ビルが現れる。両隣は八百屋で、この辺りは中華街の中でも生活感あふれるエリアだ。

 雑居ビルの階段を上がると、異世界が広がる。

 ウォン・カーウァイ監督の映画『恋する惑星』の舞台となった、あの重慶マンションのような空間がそこにある。「ここは、日本?」と思わずつぶやいてしまう。1980年代の香港の裏通りにタイムスリップしたような気分。踊り場に立ち、ぐるっと見回すと、今にもドアを開けて警官姿のトニー・レオンが現れ、階段の上からショートカットのフェイ・ウォンが「ホテル・カリフォルニア」を歌いながら降りてきそうだ。

 

 そんな白昼夢に浸りながらブザーを鳴らすと、ドアを開けて迎えてくれたのは、バッチ作家の高橋彩子さんと、愛猫のメー。「ニャー!(訳=あんたら、誰や? 勝手に入ってくんなー)」と大声で文句を言う大猫メーに頭を下げながら中へると、そこに、またまた異空間が広がっている。

 

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 アトリエ兼住居というその部屋が、そのまま高橋さんの「作品」のようなのだ。

 壁に貼られた無数の写真やカード、イラスト、布きれ、文字やスケッチが書かれた紙。カーテンレールの上に並ぶ様々な人形、仮面。大きなガラス窓から光が注ぎ、観葉植物の緑は熱帯雨林の森のよう。床に置かれた、バッチ作品のような大きなクッションは、メーのベッドだという。体重8kgオーバー(9kgまであとわずか!)のメーは、白地に黒のブチで、とても可愛い。つかず離れずの距離感で、初めて見る来訪者をじっと観察している。

 どんと置かれたノースフェイスの黒のトラベルバッグ。高橋さんが、ついさっき旅から戻ったばかりのよう。あるいは、間もなく出発するような。

 

 このあとのインタビューで高橋さんは、「旅するように生きたい」と語るのだが、彼女のこの部屋が、「旅の途中」という感じである。あるいは、高橋さんのこの部屋は、『ハウルの動く城』のように、自在に姿形を変えて何処かへ旅していきそうだ。旅を愛するバッチ作家、高橋さんのDNAがにじみ出て、部屋に浸透しているに違いない。

 小さな本棚からも旅の匂いが漂う。ガルシア・マルケスの『予告された殺人の記録』、沢木耕太郎の『天涯』『深夜特急』、使い込まれた『スペイン語文法』、『風の谷のナウシカ』全巻、ゲルハルト・リヒター、フリーダ・カーロ、スーザン・ソンダグ、宮沢賢治、などなど。高橋さんの心の地図を垣間見る。

 

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高橋さんがキッチンで湯を沸かして中国茶を淹れているあいだ、部屋の隅々まで、探偵のように、見入ってしまった。

 やがてお茶が入り、夕暮れの光が部屋を照らし、高橋さんの話に耳を傾ける。

 

 

アトリエ兼住居。

「ここに来たのは3年前。生まれ育ったのは横浜だけれど、大人になってからはずっと東京で、横浜にまた戻ってくるとは思っていなかった。戻ってきたのは主に猫のため。メーと一緒に暮らすことになって、猫を飼ってもいい物件を探していたとき、このビルのオーナーさんからこの部屋が空いているという連絡をもらったんです。猫も飼っていいということで。

 古い建物なので、エレベーターはないし、窓は重いけれど、この雰囲気は気に入っています。

 引っ越してきたのはコロナ禍の真っ最中。この辺りもすごく静かだった。今は観光客が増えて、にぎやかな中華街に戻ったけれど、ここは観光の中心からは微妙に外れているから、わりと静かなほう。

 そのトラベルバッグはいつも一緒。去年のメキシコもそれで行きました。二回くらいロストラゲージしているけれど、大事な相棒です。

 あの奥のデスクが作業用で(部屋の真ん中に短いカーテンのような仕切りがあり、その向こう側のスペースの壁沿いに作業デスクがある。バッチ作品の基になる布きれが山積みになっている)、そのデスクには「上がってはいけない」とメーも理解している。一応あっちのスペースがアトリエ。でも最近は、だんだんこっちのダイニングテーブルでも作業をするようになって、オンとオフの空間の境目が怪しくなっています」

 

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沢木耕太郎と旅の始まり。

「旅とは無縁の家で育ちました。ふつうに(中森)明菜ちゃんとか聞いている女の子で(笑)。ただ、もの作りには強い興味がありました。

 昔、NHK教育テレビで『できるかな』という子供向けの工作番組があって、夢中で観ていたんです。何でも作ってしまうノッポさんという人がいて、憧れて。私はノッポさんになるのが夢でした。

 高校時代に欧米の映画との出会いがあって、洋画が好きになり、ケヴィン・コスナーと結婚したいと真剣に考えて、まずは英語を話せるようになろうと勉強を開始。

 大学生のとき、作家の沢木耕太郎さんの講演会があり、沢木さんと同年代の母親が大好きで、強くすすめられて聞きに行ったら、もうめちゃくちゃ面白くて。早速ハマって『深夜特急』を夢中で読み、私もこんな旅がしてみたい!となって、アルバイトしてお金を貯めるとバックパック担いでタイに行きました。これが、旅の始まりかな。

 そのとき、母へのお土産で、象が刺繍された布ポーチを買ってきたんですが、それが、海外で布を買うことの始まり。

 その後も、ベトナム、マレーシアなど東南アジアへ何度か旅をして、現地の民族衣装に夢中になり、いろんな布を買って帰ってくるようになりました」

 

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好きな世界、憧れ、作りたい気持ち。

「浪人中に美容室でたまたま手に取った雑誌の、グラビアや誌面デザイン、モデルたちの装いに衝撃を受けて、こういう雑誌作りをしたい!と強く思ったんです。雑誌や広告がとても元気な頃で、そういう世界観に憧れがあったんでしょうね。ただ、時代は就職氷河期だったから、大手出版社にすっと入れるわけでもなくて。

 子供の頃から絵を描くことは大好きだったし、写真を見る、アートに触れることも好きだった。自分も何か作りたい気持ちはあったと思うけれど、作家になるというような発想はもちろんゼロ。

 小さな出版社に入るものの、途中で辞することになってしまった。そうして、しばらく家にこもってウジウジしていたら、母親が見かねて、「あなた、どこか行ってきたら」と言い、その頃自分の興味が向いていたメキシコへ行こうと思ったんです。

 渋谷のBunkamuraでフリーダ・カーロの作品を目にして、書店で『メキシコ骸骨祭り』という本を見つけて衝撃を受けて。私がメキシコの話を夢中でするものだから、母親は「だったらメキシコへ行けば」と言った。それでメキシコへ行きました。1か月くらいの予定で出発して、結果的に1年半ほどメキシコにいました」

 

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サン・ミゲル・アジェンデ、モニカとの出会い。

「オアハカへ行って、目当ての『死者の祭り』(骸骨祭り)を見たら、日本へ帰ってきちんと就職しようと思っていた。そうしたら、グアナファトのドミトリーで同部屋になったアメリカ女性が、サン・ミゲル・デ・アジェンデという街の話をしてくれた。彼女が、「あなたは絶対そこが好きだから行った方がいい」と言って、それならばと行ってみた。

 今ではすっかり変わってしまったけれど、当時のサン・ミゲル・デ・アジェンデは、アーティストやクリエイターのような人たちが集まっていて、その周りに本気のバックパッカーがいて、旅の匂いぷんぷんの面白い街だった。今ではアメリカ資本が入り、世界遺産に登録され、すっかり高級リゾート地だけれど、私が住んでいた頃は、旅人の街という感じですごくよかったんです。

 欧米からのバックパッカーだらけのドミトリーで、私は、二段ベッドの、巨大なノルウェイ女性の下のベッドで寝ていて、いつ上から彼女が落ちてこないかとヒヤヒヤしながら日々を送っていました。

 サン・ミゲル・デ・アジェンデに、カルチャーセンターのような学校があり、そこに「títeresティテレス)」と書かれた部屋があった。小さな窓から中をのぞくと、大人と子供が一緒になって、みんなで何か作って動かしたり、楽しそうなことをしている。ティテレスって何?と訊いたら、パペット(人形)だ、って。私は興味がわいて中で見せてもらったんです。

 その学校には、陶芸や絵画、ダンスなど、いろんな教室があるんだけれど、その人形の教室は一番地味で人気が薄い感じだった。でも私は、「ノッポさんの世界だ!」と思って、一番強くひかれたんです。

 

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そこにモニカという女性がいた。そこは彼女が教え、人形劇を作る教室なんだけれど、結果的に私はモニカのお手伝いをすることになったんです。モニカはなぜか、初めて会った私に部屋のカギを渡しながら、こう言ったんです。「あなた、明日からここで好きなように遊んでいいわよ」。(モニカ・ホスさんは女優、劇作家。いくつもアワードを受賞し、著書もある)

 翌日から私はそこで縫い物をしたり、ミシンをかけたり、張り子を作ったり。毎日通いました。でも、モニカから何か技術を教えてもらったわけじゃなくて、やることは自分で見つけてどんどんやっていった感じ。モニカからは、もっと大切なことをたくさん学びました。モニカには、生き方を教わったと思っています。モニカは私にとって、人生で最も重要な人。彼女に会ったから、今の私がある。

 サン・ミゲル・デ・アジェンデは、あの頃の私にとっての「故郷(ホーム)」でした。自分にぴったり合っていた。1年半いるあいだ、一度も日本を恋しく思ったことはなかった。ご飯は合わなかったけれど(笑)」

 

 

バッチの始まり。

「帰国後、会社勤めをしていましたが、ずっとモヤモヤした感じがありました。そんなとき、母が病気になり、亡くなって、私は家の片づけをしていました。13年前のことです。

 母はすらっと背の高い美しい女性で、服のサイズはまったく合わないから、とにかく遺されたモノはどんどん捨てていった。

 古いクッキー缶が出てきて、「サエちゃんのお土産」と書かれたシールが貼られていた。開けてみたら、タイで私が買った布ポーチとか、いろんな国の土産物の布が入っていた。母が遺したほとんどのモノを捨てたけれど、それだけは捨てられなかった。

 それらはすべて、誰かが一生懸命作ったもの、誰かの手がかかっているもの。

 じっと見ているうち、「これ、捨てられないけど、ここだけ切ってしまおうかな」と思って、ちょっとハサミを入れてみた。そうして切った布きれをテーブルに並べたら、「あら、可愛い!」と思った。

 

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切った布きれと布きれを、簡単に木工ボンドでくっつけてみたりして、遊んだ。そうしたら、私、少しずつ元気になったんです。すごく落ち込んでいたのだけれど、少しずつ。手を動かしたり、身体を動かすと、それだけで気分が変わったりしますよね。そんな感じだった。ボンドでくっつけて何か作っていると、「あ、なんか楽しいじゃん」と思って。そのとき10個くらい作ったかな。それが、バッチの始まり」

 

アッチコッチバッチ。

「ずっと昔、モニカと出会い、結果的に彼女の人形劇作りを手伝ったけれど、最近になって私は、実は自分が、モニカが作っていた物語のことをまったく理解していなかったんだ、ということに気がついたんです。モニカが作っていたのは、とても個人的な物語だった。彼女はあることに深く傷ついていて、そのことを人形劇として書いていた。私はそれをまったくわかっていなかった。18年経って、やっと私はそのことを理解した。去年メキシコへ行ってモニカと会ったとき、私は彼女に謝りました、「ごめんねモニカ、私は何もわかっていなかった」って。モニカは笑っていた。そんなことずっと知っていたよ、という感じだった。

 そしてモニカから、「サエコは、何に傷ついているの?」って訊かれた。「あなたは何のためにバッチを作っているの?」って。

 そうか、と私は思った。

 モニカは「自分が傷ついていること」について物語を書いていた。そして私は、自分の「寄る辺なさ」に傷ついている、ということに気がついた。

 子供の頃からずっとそうだった。ずっと「寄る辺ない自分」だった。どこにも属せず、どこにも入れない。自分は何者なのか、自分は何をしたいのか。私はずっと、そのことに傷ついていたんだ。

 

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アッチコッチバッチの基になっている布きれは、いろんな国や場所の民族衣装です。民族衣装とは自分が「ここに属している」という証のようなもの。どこにも属せていない私は、だから「そういう布きれにひかれるのかな」と思った。その瞬間、自分がなぜ「アッチコッチバッチを作っているか」がわかったんです。

 ここに一枚の布がある。私は物事が停滞するのがイヤなんです。常に風が吹いていて欲しい。常に動いていたい、動かしたい。だから、布がここに留まっているのがイヤだから、ハサミを入れる。最初にハサミを入れたとき、とても気持ちがよかった。その気持ちよさは今もまったく変わっていない。布にハサミを入れて切るのは気持ちがいいことなんです。古い布に詰まっている小さなゴミやホコリをとってやると、風が通る気がする。

 世界のあっちこっちからやって来た布たちに、私は風を通したい。この布たちを自由にして、生まれ変わらせて、何処かへ飛び立たせてあげたい。だからハサミを入れて、糸を通し、編んで、バッチにして、あっちこっちへ旅をさせてあげる。それが、アッチコッチバッチ、なんです」

 

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文:今井栄一

写真:チダコウイチ

 

 

 

 

 

 

 

 

2023-05-13 22:17:00

アトリエ訪問記 vol.3 藤本健さん

木が誘う先へ

―作為と不作為のあわいー

 

沖縄在住の木工作家・藤本健さんが生み出す器は、どこまでも大らかで、自由なエネルギーが満ちている。素材の表情を生かした個性的なフォルムは、まるで木そのものがなりたい姿を叶えたかのよう。野生的でありながら繊細さを併せ持ち、使う度に生き物と対話するような面白さがある。

 

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家具職人から木工作家へ

 

高校卒業後に上京し、品川にある職業訓練校の木工科に入りました。90年代半ばのちょうど家具ブームで、王道ではありますが、(ハンス J. ウェグナーやジョージ・ナカシマの作品に惹かれたのが家具職人を志したきっかけです

 

鉄鋼科やほかの選択肢もあったのですが、いろいろと触れてみる中で不思議と木と相性が良いのを感じ、 “木を素材につくるということに今に至るまで一度も迷いはないですね。

 

一年間学んだあと、特注家具を製作する東京の家具工場に就職して働いていたところ、妻の仕事の関係で沖縄に引っ越せるチャンスが訪れて、「環境も良さそうだし、いいんじゃない?」くらいの軽い気持ちで2002年に移り住み、それを機に独立ました。当時はまだ子どももいなかったし、身軽でしたね。

 

 

今でこそ人気の高い南城市ですが、移り住んだ頃はどのような感じだったのでしょうか?

 

最初の56年は妻の職場へのアクセスのいい宜野湾に住んでいたんです。そのうちに子どもが生まれ、家を建てたいなと思って土地を探していたときに見つけたのがたまたま今の場所。予算内だったというのが正直な理由で、15年前は「浜辺の茶屋」がポツンとあるくらいでまわりに何もない土地でした。

 

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沖縄本島の南部に位置する南城市。海を臨む小高い丘のふもと、緑豊かな土地に、木工作家・藤本健さんの拠点がある。木造平屋の自宅は、緑豊かな庭に向かって大きく開かれたリビングから縁側がせり出し、内と外とがシームレスにつながる開放感のある造り。その隣には一日の多くの時間を過ごすというアトリエ、そして裏山に沿ってギャラリーが建っているが、驚くことにすべてがセルフビルドだという。

 

「家くらい自分でつくれるでしょ」くらいの気持ちではじめたのですが大変でした(笑)。宜野湾の家から週2,3日通いながら結果的に1年半くらいはかかったかな。当時は今のようにセルフビルド、DIYの情報がなかったし、素人向けの本なんか1,2冊程度しかありませんでした。ただ、すべて自分でやるからペースもスローで、一つの作業を進めながら次の工程をどうすべきなのか考える時間が十分にあったんです。娘のリクエストなんかも取り入れたりして、大変ではありましたが何とか形になりました。

 

その経験は、モノづくりに何か影響を与えましたか?

 

やっぱり、自分にとっては馴染みの深い木という素材を扱いながら、最初から最後まで自由につくれたことは大きいですね。オーダーの家具だと、性分的なものなのか、自分が試してみたい遊びの部分は押さえて良い塩梅におさめてしまうところがあったんです。

 

それに家具は1mmのズレも許されない精度を必要とする仕事ですが、建築は多少ズレても許容範囲であることを知ることができました。普段とはスケール感の違うものをつくることは気分転換にもなったし、刺激にもなりましたね。

 

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家具職人から木工作家への転機はいつ訪れたのでしょうか?

 

ある時、興味本位で使ってみた木工旋盤が不思議とフィットしたことから、受注家具の制作と並行して器づくりはスタートさせていました。

 

オーダーを受けて、精度の高さを追求する家具づくりと、形も大きさも自分が決めて自由につくる器づくり。その両方に惹かれる部分があったのですが、いま振り返ると家づくりで自分の好き勝手にプロセスを考えられた経験が、木工作家に重心を置いていく後押しになったかもしれません。

 

 

 

欲を消し、木に委ねる

 

藤本さんの作品の最大の特徴といえば、木そのものの表情を生かして器を作っていること。一点一点異なる形、色、大きさ。大きく歪んでいたり、中には節があるものも。一般的には木を乾燥させてから成形するところを、水分を含んだ生木のまま仕上がりに近いところまで成形し、それから乾燥させるという独自のスタイルを貫いている。

 

器づくりを始めた当初は材料屋さんで木を買っていたのですが、厚みのある木の取り扱いがなく、お椀など深さのあるものがつくれないというジレンマがありました。それを解消するために、製材する前の丸太の状態でもらってくるようになったのですが、個体差もあるし、時間をかけて乾燥させてみたところで結局器に合っている木なのか分からないんですよね。それだったら木を削って木目の様子を見ながらもっとタイムリーに何がつくれるかを考えたいと思い、生木のまま成形するようになりました。

 

2週間乾かす過程で、水分を多く含んだ柔らかい部分が堅い部分に引っぱられてゆがみや縮みが生じるのですが、僕にはその自分ではコントロールできない部分が面白く感じられたんです。頭や手が生み出す作為な要素、自然が生み出す不作為な要素の境界線やバランスが、毎日作っていても飽きない面白さではあります。

 

ガジュマルやアカギ、クロヨナなど、沖縄の木を多く使っていることもあって、「沖縄を表現しているのですか?」と聞いていただくこともあるのですが、たまたま手に入る雑木だっただけで、他の地に住んでいたら確実にその土地の雑木を使っていましたね。

 

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生木のまま成形するというスタイル以外にも、木肌を残した器や、リムをチェーンソーで荒く削ったもの、また漆を塗ったものなどさまざまな表現方法を取り入れていらっしゃいます。どのように素材を見極め、表現を選択しているのですか?

 

自分の欲を優先するのではなく目の前にある木の個性、魅力を最大限に生かそうと考えた結果、必然的にいろいろな表現が生まれてきた感じですね。たとえば漆をはじめたのも、雑木でも汁物に使える口当たりのいい器をつくりたかったから。とはいえ漆特有の艶感があまり好きではないため、マットな感じに仕上がるように下地を混ぜてみたり…本当、いまある素材のなかでベストな手法を考えるトライ&エラーの毎日なんです。

 

というのも僕自身が具体的につくりたいものを思い描いたとしてもそれがいつも叶う訳ではなく、すべては木次第なんです。どういう木が手に入るか計画は立てられないし、同じ種類の木だとしても形も大きさも、ダメージの具合もさまざま。生木の塊から最大限削り出せる大きさを考えると、フォルムは自ずと決まってくるものなので、目の前にある木の状態をしっかり捉えて、削る箇所はできるだけ少なくすることに努めている感じです。

 

 

表現方法が進化していく一方、自分のなかで変わらない部分ってありますか?

 

うーん、あくまで器っていうカテゴリーのなかでモノづくりを続けていることでしょうか。たまに「オブジェも見てみたいです」というお声をいただくこともあるのですが、自分にとっては捉えどころがなさ過ぎてアプローチが分からないですよね。オブジェ的に使えるものもありますが、あくまで器としてちゃんと使える、機能するように仕上げるようにしています。

 

 

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アトリエでは毎日どのように過ごされているのですか?

 

アトリエで作業するのは大体朝の7時から夕方16時まで。朝の2,3時間は漆を塗ったり研いだりという毎日のルーティーンをこなしてから、木を削りはじめます。定番の型もありますが、ほとんどは木の大きさと深さから仕上がりの目処を立てて、削りながら厚みのある方がいいか、薄く仕上げた方がゆがみが出たときに美しい形になるのか作業しながら考えています。16個くらい削るのが精一杯ですね。

 

なんか最近は個人的な欲がない、物欲がない、いろいろな欲がない...(笑)

野球観ながらビール飲むのがリフレッシュっていうくらいで、ちょっと引き篭もり過ぎるなと思います。丸一日休みがあっても、一日休める自信がないな...

お正月も元旦だけ休んで翌日にアトリエに入っていたくらいなので。だから、個展を開催してもらって日本全国のギャラリーに出かけるのが楽しみになっています。ほんと必要に迫られないと動かないタイプなんです。

 

最近では「芭蕉の家」など、空間づくりもはじめてらっしゃいます。どのような気持ちの変化によるものですか?

 

それも僕からではなく、「宿をやりたい」という妻からのリクエストです。いい土地があったらね、と言っていたら見つかってしまって、また建物造りからスタート。自分で話していても思いますが、必要に迫られて始めることばかりですよね(笑)。制限がある中で思考錯誤する過程が糧となり、面白い表現やアイデアを生み出しているのだと思いたいです。

 

お話しを伺っていて、唯一無二の作品を生み出す作家でありながら、職人気質なところを強く感じました。

 

それはあるかもしれません、やっぱり受注家具からスタートしているので。今でも定番の型を作る作業も好きですし、「こんなのが欲しい」みたいな声をいただいたら、できるだけ応えたいという気持ちが根底にはあります。もちろん全部が叶えられるわけではありませんが(笑)、今回の展示にも約200点持っていきますので、ぜひ器を通じてお話しできたら嬉しいです。

 

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文:本間裕子

写真:チダコウイチ

 

藤本健

1971年、愛知県生まれ。

上京後、20代半ばから家具職人として木工業界に入る。

2002年、東京生活を経て、沖縄に移住。家具や製品をオーダーで制作する。

2011年、木工旋盤を使い器を作り始める。

以後個展等を中心に活動している。

 

 

2022-12-24 21:42:00

アトリエ訪問記 vol.2 佐藤尚理さん

2回目のアトリエ訪問記は、沖縄で作陶する佐藤尚理さん。

 

佐藤さんは、シソンギャラリーのこの5年の間に、2回個展を開催していただいている、私たちも大好きな沖縄で作陶する陶芸家だ。

佐藤さんの楽しくあたたかなお人柄は、工房のある南国沖縄も彷彿とさせつつ、作品のカラフルなモチーフの絵付けからも滲み出ている。

 

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那覇から30分ほどの静な住宅エリアにある広い敷地には、自宅、アトリエ、不定でオープンする小さなギャラリー、と3つの平家建てが緑いっぱいの庭に建っている。なんとも羨ましい環境。

 

到着早々、真夏の沖縄の太陽から隠れるように、まずはアトリエヘ。

 

 

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壁一面に作陶する際の道具や試作品などが並び、幾つかある作業台には次の個展用の焼く前の大きな作品が数点、その先には大きな作品を洗うときの洗い場、その奥には窯。

 

 

「筆はすぐダメになるから20本くらい毎回買うんですよ。」

と言う佐藤さんは、焼き上がると全く違う色になる焼きものの土の色と絵付けの色や、また土からの成形に始まって、乾燥、絵付け、削り画、素焼き、化粧土、仕上げの釉薬掛け、本焼き、仕上げやすり、などなど、何回にも及ぶ作品作りの工程を細かく教えてくれた。

 

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こうして膨大な手間ひまをかけて完成される作品たちが一堂に並ぶ個展のエネルギー、それをあらためて再確認できたのが嬉しい。

 

 

陶芸作品の他にも、最近は絵画作品と、多肉植物好きが高じて始まった自作の鉢を使った鉢植え作品なども精力的に制作している。

 

「絵はここではなくて家で描いています。あの絵って一気にたくさん描けてしまうんです。色を作ったらわーっと描き、途中で壁に貼って乾かしておいて、また次の日続きを一気に描いていく、という感じで進めてるんです。」

 

 

アトリエから庭に出て、自宅前のスペースの鉢植え作品も見せてもらう。

この沖縄の気候ならではの元気すぎる植物たちの育ちぶりもあって、佐藤さんの庭は3年前に訪れた時よりかなりジャングル度が増していた。

 

 

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そして庭の一角には、沢山の多肉植物や沖縄原産の珍しい植物をはじめ、一見怪獣のようだったり、フォルムがすでに彫刻となっている植物たちがずらりと並んだスペースがあった。

農場から直接仕入れをして、水分量や日差しの加減など手をかけ時間をかけて育て、自作の鉢に植え込んだ形でひとつの作品として完成させるという。

今年のシソンギャラリーでの個展で初めてのお披露目だというこの新作品についての話をしている佐藤さんは、実に楽しそうだった。

(この時点で個展での初展開に多少のドキドキ感もあった我々だったが、十数点あった作品が早々に完売となったのである。)

 

 

アトリエ、自宅、そして最後は3棟目のギャラリーへ移動。

 

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3年ほど前に敷地内に増設したという6畳一間ほどのこじんまりしたこの空間には、手作りの飾り棚に過去の作品が少しだけ保存してあった。作品の余剰が出た時だけの不定期でのオープン形態でほとんど開店していないそう。それ以外は展示会前や終了後はほとんど配送などの作業場になっているようで、今回の訪問時もその時期だった。

 

しかしちょうど運よく、SNSでしかお目にかかることができていなかった奥様のまことさんの陶芸作品を見ることができた。リボンや花などのフォルムに渋めの色付け、そこにびっしりと柄が描かれている人気のブローチや小皿など、佐藤さんの作品世界に通じるものがありながらも違いがはっきりとわかる、また別の魅力ある作品だ。

 

 

オーストラリアなど海外での個展も含め、3年後ぐらいまではびっしり個展の予定が入っている人気作家の佐藤さん。次のシソンギャラリーでの個展は34年後となる予定。

まだまた遠いようできっとあっという間に来てしまいそうな2026年辺りを楽しみにしつつ、それまでにまた訪問させていただくことを約束して、アトリエを後にした。

 

 

佐藤尚理 プロフィール 

1974年生まれ。1996年沖縄へ移住。2000年頃から彫刻家として活動を始める。2008年夏、ドイツのミュンヘン美術大学に研究生として留学。スペイン巡礼の徒歩旅行などドイツを拠点にヨーロッパを巡る。2009年冬、帰国し陶芸家としての活動を開始。2010年春より、沖縄南城市に3ヶ月程かけアトリエを建て、以降そこを拠点に作陶。20122月、自身のギャラリー「器 bonoho」をアトリエの敷地にオープン。2013年〜現在、個展やグループ展、イベントなど様々な場で精力的に活動の幅を広げている。

 

 

訪問:20227月 

文:野口アヤ

写真:チダコウイチ

 

 

2022-08-20 15:30:00

アトリエ訪問記 vol.1 盛永省治さん

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ギャラリーを開始した当初から、個展開催予定の作家さんのアトリエに伺って物作りの現場を見せていただきながらお話を聞かせていただいています。

打ち合わせ(という名目)の個人的にもとても楽しみなアトリエ訪問は、毎回新たな発見があり、楽しく、興味深いものです。

 今まではSNSへの投稿のみで形にしていなかったのですが、この秋のギャラリー5周年を機に、ギャラリーの記録のひとつとして“訪問記”という形で残していくことにしました。

 

今後は個展開催予定の作家さんをはじめ、お世話になったあるいは今後お世話になるかもしれない作家さんのアトリエへ訪問させていただいて、その時の写真と会話なども含め載せていく予定です。

 

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第1回目は、木工作家の盛永省治さんのアトリエへ。

 

 

都内から空港を降りて現れたのは、雄大な、時に荒々しくも豊かな自然が織りなす美しい鹿児島の風景。

 

盛永さんの工房は、空港から桜島を背に40分ほど郊外に行った街道沿いにあった。5月の個展に向けて作品制作で忙しい真最中の盛永さんだが、快く出迎えてくれた。

 

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平家建ての作業場前に丸太がごろごろと置かれた屋外スペースを有する広々した敷地は、東京では考えられない羨ましい限りの空間。

2月の小春日和の訪問日は、作品置き場となっている南向きのギャラリースペースに、日がさんさんと降り注いでいた。

 

屋外に置かれた丸太は、鹿児島で採れる楠、山桜、などをはじめ、向かいの木材倉庫から端材になってしまったものを安く譲ってもらっているという。その他、輸入のウォールナット(くるみ)など、日本や世界各地から送ってもらっているものも。あの独特の模様が器の横にでる樫の木の丸太木も見つけられた。

 

 

S(シソンギャラリー) 「ここはいつ頃から使っていらっしゃるのですか?」

 

盛永(敬称略) 「もう15年経ちます。独立する前は鹿児島市内の家具の工房で働いていまして、店舗のための家具だとかを作っていました。独立した時は普通に家具も注文で作っていたんですけど、やっているうちにだんだんこういう器ものが自然と増えてきて。で、今もうほとんど家具は作ってないんです。でも、あのスツールは作っています。あの彫刻的なものは、家具っていうよりはオブジェと家具の間のアート作品的なものです。」

 

「じゃあ独立されたのが、ちょうどその15年前で、でその時からここでずっとここでなんですね。」

 

盛永 「家具を作るような機械がいっぱいあるから、よく聞かれるんですけど、今はほとんど使ってないものなんです。」

 

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元々家具職人だったという盛永さんの工房には、家具を作るための大きな機械も含めて何台もの機械、数えきれないほどの工具があった。盛永作品の中で特に人気のスツールオブジェのルーツが少し垣間見られた気がした。

 

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「大きいスツールでどれくらいの期間でつくれるのですか?」

 

盛永「削るのは一日に三個削れるんですけど、乾燥させるのに時間がかかるんです。ここでは乾燥しきらないので、乾燥の部屋というか窯といかそういう場所がありまして、そこに持って行って70度くらいの温度を決めて、一週間ぐらいずっと乾燥させるんです。1週間乾かしたら引き取ってきて、もう一回また研磨し直したりするんです。結構重たくて、20キロぐらいです。乾燥すると5キロくらい減るんですけど、元は30キロぐらいです。」

 

「ここで木を切って、あっちの機械に移動してセットして。 凄い重労働ですね。これらが向かいの材木屋さんからのものですね。近くないと運ぶのが大変ですね。」

 

盛永 「そうなんです。形を作るのに一番時間と体力がかかっているのがその作業なんです、実は。」

 

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例えば、50センチくらいの長さの50キロ以上はある極太の丸太から削り出すことのできる作品は1、2点という。ほとんどが木屑になってしまう。工房の床は木屑で覆われ、何袋もの木屑が山積みになっていた。

 

盛永 「材料は、製材所や材木屋さんで捨てられる丸太の切れ端なども買わせていただいています。最初は高価な材木はまともに買えなかったこともあって、徐々に今の木材との関わり方になってきました。素材のボリュームや木目や木の状態を見ながら何を作るのか考えるので、材料から恩恵を受けながら製作するこのやり方も、継続してやっている意味が出てきているように思っています。」

 

S 「インスピレーションは木材、ですね。」

 

盛永 「そうですね。工房から出ている木屑や木端は、ご近所のかたが全部持っていってくれています。木端は薪にしたり、細かい木屑は堆肥にしたり畑に撒いたりするそうです。継続して持っていく方がいるということは、少しは誰かの役に立てているのかもしれません。ここだけはうちの工房で自慢できるところです。」

 

膨大な木片も実は無駄なく活用されているこの循環も、盛永作品の美しさのひとつだと言える。

 

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S「昨年の千駄ヶ谷のギャラリー(昨年冬開催の店内展示)で置いていたのは、少し小ぶりの彫刻的なものが多かったと思いましたが、あのあたりの作品も人気がありますね。全部もう売れてしまったとか。」

 

盛永 「はい、全部売れてしまいました。もう作品を作らないとなんです。お売りする物がなくなってしまって。常設や卸をしているところにも全然追いついてなくて。ここ1、2年でイベントが中心になってしまっていて、もうずっとお待たせしている卸のお店がいっぱいいるので、ちょっとずつ解消したいんですが、今後は個展中心の体制にしていきたいというのがあって、なかなか進んでいないのも事実なんです。」

 

(その後の雑談中に、隣の入居者募集になっていた一軒家も借りてしまって寝泊まりするしかないですね、など冗談まじりに話していたのだが、結果後日契約し、忙しい時は寝泊まりもするようになったそう。とにかく作品作りに追われているという。)

 

 

個展に向けては、以前はシソンギャラリーに合う器作品が中心の個展内容かな、とお互い話していたところだったが、この大きな迫力ある作品を作る現場を見せていただいた結果、やはり盛永さんらしいスツールや彫刻など存在感のる大きな作品達を並べた個展の空間にしましょう、ということで個展の方向性もまとまった。

 

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盛永さんの物腰のやさしい雰囲気と、そこから生み出される作品の持つなめらかな曲線、そしてこの少々無骨なアトリエと荒々しい鹿児島の自然背景が、美しいコントラストとなっていた印象的な訪問だった。

 

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5月の個展はオープンの行列から始まり、日々大盛況にて終了となった。

また来年か再来年かをめどに個展開催の予定ではある。新たな進化とともに、次回の訪問もとても楽しみにしている。

 

 

盛永省治

1976年鹿児島生まれ。家具メーカーで職人として勤務ののち、

2007年に自身の工房を始める。同時にウッドターニングを独学にて開始。

その後アメリカを代表するアーティスト、アルマ・アレンに師事。

現在はウッドターニングによる作品を主に国内外での個展や合同展を中心に作品を発表している。

http://www.crate-furniture.net/

 

 

 

 

訪問:20222

(作品展:2022520日〜29日開催)

文:野口アヤ

写真:チダコウイチ

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