Meet the Artist
つちやまり/陶芸家 LIFE, DAYS AND BRICOLAGE MARI TSUCHIYA
暮らしの中の器。
日々の営みと共にある皿。
「おもいっきりガーリーな器だと思いますが、
あえてそこに肉じゃが、めざし、茹でた枝豆とか・・・
そういうのを盛りつけてもらえると、嬉しい。
私の器と、意外な食べ物との化学反応が、楽しい。
お母さんはみんな忙しい毎日だから、ご飯を作れないときもある。
そんなときはコンビニやスーパーのお惣菜でいいと思う。
パックから出して私のお皿に載せて食べてほしい。
それだけで、いつもの夜が、なんだか楽しく、豊かになります」
つちやまり/陶芸家
夏が来た日の午後
東京に夏が来た日の午後、文京区の住宅地にある、陶芸家・つちやまりさんのアトリエを訪問した。
地下鉄の駅を出て、Googleマップに少し助けてもらいながらの徒歩7〜8分。小径や裏通り、坂道のたくさんある街だ。道の途中、上のエリアに行くための長い階段があって、なんだかパリとか、ストックホルムを思い出して、心がうきうきする。
坂と階段を上がって、少しばかり汗をかいて住所の場所に到着すると、明るい煉瓦色の建物からちょうど、つちやまりさんが外に出てきた。手にはじょうろ。
「この子たちにお水をあげようと思って」と、つちやさん。この子たち、というのは、玄関脇の植物だ。「なんだか急に、暑くなりましたね。中へどうぞ」
窯とクレイとミントティー
三階建ての建物の、二階がアトリエで、一階ガレージの一角に窯がある。つちやさんは、かつて三浦半島に暮らしていたとき、25歳という若さで自分自身の窯を開いた。以来ずっと同じ窯を使っているという。「これは二代目だけれど、同じメーカーの同じ窯。日本製です」と教えてくれた。
近くに窯内部の温度を示すデジタル機器があり、793度を示している。「今ちょうど中に、シソンさんで展示する作品が入っています」
窯が置かれたガレージから階段を上がって二階へ行くと、そこは窓のたくさんある白くて明るい部屋だ。
「ここがアトリエですが、我が家は私も息子たちも、ほぼ寝る直前までずっとここにいることが多いです。三階が居住空間でソファやテレビがあるけれど、息子たちもゲームをやるとき以外は、だいたいここにいます。私は昨日も、午前2時少し前まで、その作業机で仕事をしていました」
絵付け作業をする机の正面の白い壁に、葉や花、木の実、キノコ類などが描かれた紙が貼られていた。古いポストカードのようにも見えるが、近づくとそれらはどうやら、(古い)植物図鑑か雑誌のページから切り抜かれた絵のようだ。とても雰囲気のある植物絵の紙切れ。つちやさんの器や皿には植物が描かれているものが多いが、そのモチーフだろうか。訊くと、「違います」とつちやさんは答えた。
「それはずっとそこにあって、ふとしたときにちょっと眺めたり、という感じ」
ではそれらの絵は、つちやさんにインスピレーションを与えてくれるものですか、と訊くと、
「うん、そんな感じかもしれませんね。ずっとそこにあって、もう部屋の風景の一部になっている」
そんなふうに、アトリエ空間のあちこちに、「気になるモノ」「気になる光景」がいくつもある。興味深くあれこれジロジロ見ていると、三階から白と黒のハチワレ猫が降りてきた。クレイとミキ、つちや家に二匹いる猫の、こちらはクレイ。人懐っこいクレイは誰でも触れるが、もう一匹のミキの方は、知らない人の前には絶対姿を見せないという。
つちやさんがよく冷えたミントティーをグラスに注いでくれた。ミントの香りがすごい!とびっくりしていたら、「オーガニックのミントなんですよ。たっぷり入れたから香りがいいでしょう」とつちやさん。
涼やかなグラスに注がれた、少し色のついたミントティー。その近くに置かれた器や皿には植物が描かれていて、そこに地中海のような青が入っているから、「なんだかモロッコのようですね」と思わず口にすると、つちやさんは、「そんな風に考えていなかったけど、言われてみれば」と笑った。そしてこう続けた。
「イスラムもいろんな文化、伝統が混ざり合って、今の姿になっている。私もいろんなものが混ざって今がある。その青も、地中海的な色にも見えるけれど、日本の染め付けです。描く絵柄によっていろんな見え方ができる。私は、良くも悪くも自然体なんです。作る器もすべて、気づいたら自然にそうなってきた」
なるほど。植物を育てることも描くことも大好きなつちやまりさんの、「気づいたら自然にそうなった」物語を、聞いてみよう。
葉山、海、初めてのクラフト
「生まれたのは千葉の市川ですが、その後すぐに神奈川県三浦半島の葉山の方に引っ越してそこで育ちました。いつも海で遊んでいる女の子でした。勉強しなさいと言う両親じゃなかったから。子供は海や山で遊んでいる方がいいと考える親でした。
葉山の家から長者ケ崎の海岸まで歩いてすぐという最高のロケーション。周りには、いわゆるアーティスト的な人たちが何人もいた。彫刻家、油彩画家とか。小学生の女子にとって謎の大人たちですよね(笑)。
ある画家のおじさんと私は仲良しで、いつも遊んでもらっていた。一見ただの得体の知れないアーティストを名乗る大人なんだけれど、その人の家に遊びに行くと、すごく素敵な和風別荘建築で、シンプルかつモダンな設えで暮らしている。何もない空間にイームズの家具が置かれてたり。アフガンハウンドが二匹いて。実はオシャレな、すごいアーティストだったみたいです。
その人は油絵を描きながら、ビーズや貝殻、小石などを使ってブローチとかアクセサリーを手作りしていた。彼が使わなかったビーズとかクラフト用の粘土とか、私はもらって、それで自分でもネックレス作ったり。もしかしたらそれが、自分にとっての最初のクラフト=もの作りだったかも。
中学生になると吹奏楽部に入って、私はフルートを吹いていました。音楽はずっと好き。もうずっとやっていないけど、最近また習い始めようかな、なんて少し考えています。
その頃はまだ、将来何になろうとか、そういうこと考えていなかったと思う。唯一、エレベーターガールへの憧れはすごくありましたね。私くらいの世代では、いわゆるエレガーに憧れる女の子、けっこういたみたい」
カナダ、アート、陶芸
「高校時代、父から、カナダに行くけどどうする?と訊かれ、じゃあ一緒に行くと答えました。
外国への憧れがあったし、一度は異国に住んでみたいとも思っていました。葉山もカナダも、自分で選んで住んでいたわけじゃないけれど、結果的にそこでの時間や出会いが、後の自分の人生に大きな影響を与えていると思います。
カナダは、最初に行ったのがブリティッシュ・コロンビア州のバンクーバー。冬季五輪が開催され、今ではすっかりきれいになったようですが、私が行ったのは1990年前後のこと。その頃バンクーバーの街にはホームレスがたくさんいて、ドラッグの問題もあり、そこで高校に通うのは不安がありました。それで、バンクーバーから1時間ほど離れた田舎町に住み、そこの地元の高校に通いました。最初は英語もできないから大変だったけれど、負けず嫌いな性格が強く出て、とにかく頑張りました。
一番頑張ったのがアートのクラス。絵を描くのが大好きだったから、とにかくアートのクラスだけは卒業するとき首席をとろうと思って、一番頑張っていた。アート・クラスでは、今でも名前をしっかり覚えているんだけど(笑)、ジェイソン・スパージャーという男の子が私のライバルだった。課題が出るたび、どっちの作品が一番か常に競い合っていた。
ジェイソンは、たとえば建築とか、立体の課題に強くて、水彩画とか平面だったら私が勝つという感じだった。最終的に先生も、私かジェイソンかどちらかひとりに決めることができず、アートのクラスは首席が私とジェイソンの二人ということになった。私は不満だったけれど(笑)。
アートのクラスには陶芸もあって、そのときにロクロを回したり、その後に繋がることに触れていましたね。
私はその頃、トリシア・ギルドというインテリア・デザイナーに憧れていて、彼女のようになりたいと思っていたんです。それで、帰国後、画塾に入ってデザイン工芸のクラスを専攻しました。いろんな工業製品のデッサン、石膏デッサン、コカコーラのボトルを描くとか、そういう世界。すると、私はそういったものがうまく描けないんです。植物を描くのは得意なのに、プロダクトもの、いわゆる工業デザインになるとぜんぜんダメで。
ある日、講師に呼ばれ、「つちやは、デザインは無理だ。工芸なら行けるかもしれないから、そっちに替えないか」と言われてしまった。私の中に工芸というチョイスはまったくなかったんだけれど、美大に行きたかったし、(美大の入学試験に)合格するとしたら「工芸しかない」と断言されちゃったら、もう仕方ないなって思った。そのとき私はもう20歳で最後のチャンスだと思っていたから、それなら陶芸でいってみよう、と心を決めたんです。
京都精華大学に帰国子女枠というものがあると知り、それならいけるかもしれないと思った。多摩美か武蔵美と思っていたけどそっちは難しそうだった。
さらに調べてみたら、京都精華大学の陶芸は、入ると1年生から土をいじれるということもわかった。他の大学は最初の2年間はいろんな勉強があって土をいじれるのは3年生から。私は、陶芸をやると決めたときから、1年生から土を触りたい、もう思いっきりやってみたいという気持ちが強くなっていた。それで京都精華大学を受験し、無事合格したんです」
私にしかできない器を探して
「結果的に、陶芸を選んだことも、京都の大学に進んだことも、私には正解でした。京都は陶芸の本場だし、学校には名だたる先生が何人もいましたから。
ただ、本場だけに、現代陶芸バリバリの世界なんです。私のように「器をやりたい」という人はいなくて、授業ではなるべく立体大物作品を作るよう促されました。ハイアートとしての陶芸であり、美術品として極めている先生ばかりだったから。今、世の中は器ブームというか、益子でも波佐見でも、陶芸の器や皿が人気で、いろんなお店で扱っているし、展示販売なんかも多いけれど、当時は陶芸の器はとてもマイナーな時代でした。
織部でも備前でも、その世界で素晴らしい焼き物を作っている人たちが、すでに大勢いる。そんなところに自分が入れるとは思えなかったし、私がやりたいのは現代陶芸じゃなくて、「生活の中にある器」でした。
私は魯山人から入って「食べ物と器の化学反応」に興味があるんです。
だから、大学の4年間を終えたら、こっちに帰ってきた。先生からは「大学院に来なさい」「(京都に)残りなさい」と言われたけれど、自分の器をやりたかったから「帰ります」と言って、戻ってきました。
それで、アルバイトでお金を貯めて、母親からもお金を借りて、三浦半島に自分のアトリエを構えて窯を持った。25歳のときです。
当時、その年代で自分の窯を持つというのはとても珍しいことでした。そもそも陶芸で王道を進みたければ、大学に行くよりも有名な先生に弟子入りする方がいいだろうし、技術を得たければ職人のいる工房に入るのがいい。でも私は、「自分にしかできない器、生活と共にある器」を作りたいと思っていた。
子供の頃住んでいた場所からも遠くない三浦半島の住居兼アトリエにこもって、ひたすら「自分にしか作れない器」を探し求めていました。その頃の私は外界をシャットダウンして、内面に入り込んでいた。自分の殻に籠もっていた。自分の中から出てくるものを作るしかないって思っていた。自分にしかできない器ができるはずだと信じていた。
その頃はロクロを回していました。葉山の海辺の砂を土に混ぜたりして。そのときの作品がこれです。(と言って、つちやさんは昔作っていた皿をいくつか出してくれた) 今もふつうに使っていますよ。
夢中で作品を作っては、車に載せて東京へ行って、焼き物を扱う店やギャラリーで見せるんです。どうですか、置いてもらえませんか、って。で、断られてばかり。でも、断られるんだけれど、「あなたセンスはすごくいいから、やめずに頑張って続けるべきだ」と言ってくれる人がいて、そういう言葉にすがって、ひたすら作っていましたね」
ブリコラージュ、新たに生み出すこと
美術館に展示されるハイアートの現代陶芸ではないのかもしれないが、つちやまりさんの作った器や皿は、今や高い人気を持ち、出せばすぐに売れる、完売する。
カナダのハイスクールのアート・クラスで学んだことも、小学生の頃、近所の得体の知れないアーティストの家で目にしたイームズの家具も、京都の大学で学んだ技術や伝統も、葉山の海辺で遊んだ記憶も、全部が今のつちやまりさんを形づくっている。「いろんなものが混ざり合って今の私がある」とつちやさんは語った。
一枚の紙のようにした土を型にはめ、叩いて成形する「タタラ作り」に、草や花の絵付けを施していく、つちやまりさん。
今の作風に到達したのは「27か28くらいのときかな」と語る。
「要するに、ブリコラージュですよね。近くにあるもので、何かを創り出す、身近なものから別の何かを生み出す、ということ。最初の頃やっていた、オリーブオイルで顔料を溶くとか、消しゴムで印判を作るのも、これでやってみたらどうだろう?という気づきから始まるわけです。もの作りって、基本はみんなブリコラージュだと思います。私は大学で陶芸を学んだけれど、アカデミックな世界に進むのではなく、生活に根ざした陶芸作品を生み出したかった。日々の食卓にあって、ご飯を食べたり、お茶を飲んだりする器を」
フランス語の「bricoler」に由来する「bricolage(ブリコラージュ)」とは、もともと、「その場にあるものや、手に入るものを寄せ集めて、あれこれ試行錯誤しながら、より便利なものを創り出す」ことだ。
フランスの文化人類学者で、『悲しき熱帯』を書いたクロード・レヴィ=ストロースは、アフリカ、アジア、島や辺境を旅し、「端切れや余り物を器用に使って、生活に必要なものを作ったり、寄せ集めからとても高度な道具や生活用品を作っている普通の人々が世界各地にいる」ことを発見し、そういった名もなき人々の生活のクラフト(日常のもの作り)を「ブリコラージュ」と呼んだ。レヴィ=ストロースは、近代化されたエンジニアリングや設計などと対比させる形で、ブリコラージュを「野性の思考」と呼び、それこそが普遍的な知恵の在り方だと説いた。さらに、世界各地に伝わる「神話」や「呪術」、民族の伝統文化もまた、ブリコラージュだと語った。
「私は、良くも悪くも自然体。私も、作品も、自然にこうなってきた」とつちやまりさんは素直に、微笑みながら言った。
そう、とても自然体な女性である。
「私の器は、一見とてもガーリーな器だと思うけれど、あえてそこに、肉じゃが、めざしとか、載せてほしい。ケーキもいいけれど、他にもいろいろ試して盛りつけて使ってほしい。きっと化学反応が起きて暮らしが楽しくなると思う。気取って使うのもありだけど、スーパーのお惣菜をパックから出して盛りつけたら、すごく素敵なディナーになったりとか、そういうのもあり。自然体で、私の皿や器を使って、ご飯を食べてもらえたら嬉しい」
文:今井栄一
写真:チダコウイチ
つちやまり
Mari Tsuchiya
1974 神奈川県三浦郡葉山町生まれ。高校の時にカナダに留学。帰国後、京都精華大学にて作陶を学ぶ。葉山町の隣、秋谷にて築窯、長く葉山で活動し2016年東京都文京区へ移転後も精力的に作陶を続けている。
つちやまり 個展「アスター」 2023. 7.15 Sat-23 Sun