Meet the Artist
Acchi Cocchi Bacchi Saeko Takahashi 高橋彩子/バッチ作家
旅するバッチを身につけて、あっちこっちへ旅をしよう。
旅の香りがする部屋に世界中から集まってくる布きれ。
旅を愛する高橋彩子さんがそこにハサミを入れると、風が流れて、
「アッチコッチバッチ」が生まれる。
『恋する惑星』のような雑居ビル。
みなとみらい線の終点、元町・中華街駅。地上へ出ると、そこは横浜中華街だ。
広東道から長安道と歩いて、横浜中華学院から響く子供たちの声を聞きながら、五叉路を右折して福建路に入ると、右手に古い雑居ビルが現れる。両隣は八百屋で、この辺りは中華街の中でも生活感あふれるエリアだ。
雑居ビルの階段を上がると、異世界が広がる。
ウォン・カーウァイ監督の映画『恋する惑星』の舞台となった、あの重慶マンションのような空間がそこにある。「ここは、日本?」と思わずつぶやいてしまう。1980年代の香港の裏通りにタイムスリップしたような気分。踊り場に立ち、ぐるっと見回すと、今にもドアを開けて警官姿のトニー・レオンが現れ、階段の上からショートカットのフェイ・ウォンが「ホテル・カリフォルニア」を歌いながら降りてきそうだ。
そんな白昼夢に浸りながらブザーを鳴らすと、ドアを開けて迎えてくれたのは、バッチ作家の高橋彩子さんと、愛猫のメー。「ニャー!(訳=あんたら、誰や? 勝手に入ってくんなー)」と大声で文句を言う大猫メーに頭を下げながら中へると、そこに、またまた異空間が広がっている。
アトリエ兼住居というその部屋が、そのまま高橋さんの「作品」のようなのだ。
壁に貼られた無数の写真やカード、イラスト、布きれ、文字やスケッチが書かれた紙。カーテンレールの上に並ぶ様々な人形、仮面。大きなガラス窓から光が注ぎ、観葉植物の緑は熱帯雨林の森のよう。床に置かれた、バッチ作品のような大きなクッションは、メーのベッドだという。体重8kgオーバー(9kgまであとわずか!)のメーは、白地に黒のブチで、とても可愛い。つかず離れずの距離感で、初めて見る来訪者をじっと観察している。
どんと置かれたノースフェイスの黒のトラベルバッグ。高橋さんが、ついさっき旅から戻ったばかりのよう。あるいは、間もなく出発するような。
このあとのインタビューで高橋さんは、「旅するように生きたい」と語るのだが、彼女のこの部屋が、「旅の途中」という感じである。あるいは、高橋さんのこの部屋は、『ハウルの動く城』のように、自在に姿形を変えて何処かへ旅していきそうだ。旅を愛するバッチ作家、高橋さんのDNAがにじみ出て、部屋に浸透しているに違いない。
小さな本棚からも旅の匂いが漂う。ガルシア・マルケスの『予告された殺人の記録』、沢木耕太郎の『天涯』『深夜特急』、使い込まれた『スペイン語文法』、『風の谷のナウシカ』全巻、ゲルハルト・リヒター、フリーダ・カーロ、スーザン・ソンダグ、宮沢賢治、などなど。高橋さんの心の地図を垣間見る。
高橋さんがキッチンで湯を沸かして中国茶を淹れているあいだ、部屋の隅々まで、探偵のように、見入ってしまった。
やがてお茶が入り、夕暮れの光が部屋を照らし、高橋さんの話に耳を傾ける。
アトリエ兼住居。
「ここに来たのは3年前。生まれ育ったのは横浜だけれど、大人になってからはずっと東京で、横浜にまた戻ってくるとは思っていなかった。戻ってきたのは主に猫のため。メーと一緒に暮らすことになって、猫を飼ってもいい物件を探していたとき、このビルのオーナーさんからこの部屋が空いているという連絡をもらったんです。猫も飼っていいということで。
古い建物なので、エレベーターはないし、窓は重いけれど、この雰囲気は気に入っています。
引っ越してきたのはコロナ禍の真っ最中。この辺りもすごく静かだった。今は観光客が増えて、にぎやかな中華街に戻ったけれど、ここは観光の中心からは微妙に外れているから、わりと静かなほう。
そのトラベルバッグはいつも一緒。去年のメキシコもそれで行きました。二回くらいロストラゲージしているけれど、大事な相棒です。
あの奥のデスクが作業用で(部屋の真ん中に短いカーテンのような仕切りがあり、その向こう側のスペースの壁沿いに作業デスクがある。バッチ作品の基になる布きれが山積みになっている)、そのデスクには「上がってはいけない」とメーも理解している。一応あっちのスペースがアトリエ。でも最近は、だんだんこっちのダイニングテーブルでも作業をするようになって、オンとオフの空間の境目が怪しくなっています」
沢木耕太郎と旅の始まり。
「旅とは無縁の家で育ちました。ふつうに(中森)明菜ちゃんとか聞いている女の子で(笑)。ただ、もの作りには強い興味がありました。
昔、NHK教育テレビで『できるかな』という子供向けの工作番組があって、夢中で観ていたんです。何でも作ってしまうノッポさんという人がいて、憧れて。私はノッポさんになるのが夢でした。
高校時代に欧米の映画との出会いがあって、洋画が好きになり、ケヴィン・コスナーと結婚したいと真剣に考えて、まずは英語を話せるようになろうと勉強を開始。
大学生のとき、作家の沢木耕太郎さんの講演会があり、沢木さんと同年代の母親が大好きで、強くすすめられて聞きに行ったら、もうめちゃくちゃ面白くて。早速ハマって『深夜特急』を夢中で読み、私もこんな旅がしてみたい!となって、アルバイトしてお金を貯めるとバックパック担いでタイに行きました。これが、旅の始まりかな。
そのとき、母へのお土産で、象が刺繍された布ポーチを買ってきたんですが、それが、海外で布を買うことの始まり。
その後も、ベトナム、マレーシアなど東南アジアへ何度か旅をして、現地の民族衣装に夢中になり、いろんな布を買って帰ってくるようになりました」
好きな世界、憧れ、作りたい気持ち。
「浪人中に美容室でたまたま手に取った雑誌の、グラビアや誌面デザイン、モデルたちの装いに衝撃を受けて、こういう雑誌作りをしたい!と強く思ったんです。雑誌や広告がとても元気な頃で、そういう世界観に憧れがあったんでしょうね。ただ、時代は就職氷河期だったから、大手出版社にすっと入れるわけでもなくて。
子供の頃から絵を描くことは大好きだったし、写真を見る、アートに触れることも好きだった。自分も何か作りたい気持ちはあったと思うけれど、作家になるというような発想はもちろんゼロ。
小さな出版社に入るものの、途中で辞することになってしまった。そうして、しばらく家にこもってウジウジしていたら、母親が見かねて、「あなた、どこか行ってきたら」と言い、その頃自分の興味が向いていたメキシコへ行こうと思ったんです。
渋谷のBunkamuraでフリーダ・カーロの作品を目にして、書店で『メキシコ骸骨祭り』という本を見つけて衝撃を受けて。私がメキシコの話を夢中でするものだから、母親は「だったらメキシコへ行けば」と言った。それでメキシコへ行きました。1か月くらいの予定で出発して、結果的に1年半ほどメキシコにいました」
サン・ミゲル・アジェンデ、モニカとの出会い。
「オアハカへ行って、目当ての『死者の祭り』(骸骨祭り)を見たら、日本へ帰ってきちんと就職しようと思っていた。そうしたら、グアナファトのドミトリーで同部屋になったアメリカ女性が、サン・ミゲル・デ・アジェンデという街の話をしてくれた。彼女が、「あなたは絶対そこが好きだから行った方がいい」と言って、それならばと行ってみた。
今ではすっかり変わってしまったけれど、当時のサン・ミゲル・デ・アジェンデは、アーティストやクリエイターのような人たちが集まっていて、その周りに本気のバックパッカーがいて、旅の匂いぷんぷんの面白い街だった。今ではアメリカ資本が入り、世界遺産に登録され、すっかり高級リゾート地だけれど、私が住んでいた頃は、旅人の街という感じですごくよかったんです。
欧米からのバックパッカーだらけのドミトリーで、私は、二段ベッドの、巨大なノルウェイ女性の下のベッドで寝ていて、いつ上から彼女が落ちてこないかとヒヤヒヤしながら日々を送っていました。
サン・ミゲル・デ・アジェンデに、カルチャーセンターのような学校があり、そこに「títeres(ティテレス)」と書かれた部屋があった。小さな窓から中をのぞくと、大人と子供が一緒になって、みんなで何か作って動かしたり、楽しそうなことをしている。ティテレスって何?と訊いたら、パペット(人形)だ、って。私は興味がわいて中で見せてもらったんです。
その学校には、陶芸や絵画、ダンスなど、いろんな教室があるんだけれど、その人形の教室は一番地味で人気が薄い感じだった。でも私は、「ノッポさんの世界だ!」と思って、一番強くひかれたんです。
そこにモニカという女性がいた。そこは彼女が教え、人形劇を作る教室なんだけれど、結果的に私はモニカのお手伝いをすることになったんです。モニカはなぜか、初めて会った私に部屋のカギを渡しながら、こう言ったんです。「あなた、明日からここで好きなように遊んでいいわよ」。(モニカ・ホスさんは女優、劇作家。いくつもアワードを受賞し、著書もある)
翌日から私はそこで縫い物をしたり、ミシンをかけたり、張り子を作ったり。毎日通いました。でも、モニカから何か技術を教えてもらったわけじゃなくて、やることは自分で見つけてどんどんやっていった感じ。モニカからは、もっと大切なことをたくさん学びました。モニカには、生き方を教わったと思っています。モニカは私にとって、人生で最も重要な人。彼女に会ったから、今の私がある。
サン・ミゲル・デ・アジェンデは、あの頃の私にとっての「故郷(ホーム)」でした。自分にぴったり合っていた。1年半いるあいだ、一度も日本を恋しく思ったことはなかった。ご飯は合わなかったけれど(笑)」
バッチの始まり。
「帰国後、会社勤めをしていましたが、ずっとモヤモヤした感じがありました。そんなとき、母が病気になり、亡くなって、私は家の片づけをしていました。13年前のことです。
母はすらっと背の高い美しい女性で、服のサイズはまったく合わないから、とにかく遺されたモノはどんどん捨てていった。
古いクッキー缶が出てきて、「サエちゃんのお土産」と書かれたシールが貼られていた。開けてみたら、タイで私が買った布ポーチとか、いろんな国の土産物の布が入っていた。母が遺したほとんどのモノを捨てたけれど、それだけは捨てられなかった。
それらはすべて、誰かが一生懸命作ったもの、誰かの手がかかっているもの。
じっと見ているうち、「これ、捨てられないけど、ここだけ切ってしまおうかな」と思って、ちょっとハサミを入れてみた。そうして切った布きれをテーブルに並べたら、「あら、可愛い!」と思った。
切った布きれと布きれを、簡単に木工ボンドでくっつけてみたりして、遊んだ。そうしたら、私、少しずつ元気になったんです。すごく落ち込んでいたのだけれど、少しずつ。手を動かしたり、身体を動かすと、それだけで気分が変わったりしますよね。そんな感じだった。ボンドでくっつけて何か作っていると、「あ、なんか楽しいじゃん」と思って。そのとき10個くらい作ったかな。それが、バッチの始まり」
アッチコッチバッチ。
「ずっと昔、モニカと出会い、結果的に彼女の人形劇作りを手伝ったけれど、最近になって私は、実は自分が、モニカが作っていた物語のことをまったく理解していなかったんだ、ということに気がついたんです。モニカが作っていたのは、とても個人的な物語だった。彼女はあることに深く傷ついていて、そのことを人形劇として書いていた。私はそれをまったくわかっていなかった。18年経って、やっと私はそのことを理解した。去年メキシコへ行ってモニカと会ったとき、私は彼女に謝りました、「ごめんねモニカ、私は何もわかっていなかった」って。モニカは笑っていた。そんなことずっと知っていたよ、という感じだった。
そしてモニカから、「サエコは、何に傷ついているの?」って訊かれた。「あなたは何のためにバッチを作っているの?」って。
そうか、と私は思った。
モニカは「自分が傷ついていること」について物語を書いていた。そして私は、自分の「寄る辺なさ」に傷ついている、ということに気がついた。
子供の頃からずっとそうだった。ずっと「寄る辺ない自分」だった。どこにも属せず、どこにも入れない。自分は何者なのか、自分は何をしたいのか。私はずっと、そのことに傷ついていたんだ。
アッチコッチバッチの基になっている布きれは、いろんな国や場所の民族衣装です。民族衣装とは自分が「ここに属している」という証のようなもの。どこにも属せていない私は、だから「そういう布きれにひかれるのかな」と思った。その瞬間、自分がなぜ「アッチコッチバッチを作っているか」がわかったんです。
ここに一枚の布がある。私は物事が停滞するのがイヤなんです。常に風が吹いていて欲しい。常に動いていたい、動かしたい。だから、布がここに留まっているのがイヤだから、ハサミを入れる。最初にハサミを入れたとき、とても気持ちがよかった。その気持ちよさは今もまったく変わっていない。布にハサミを入れて切るのは気持ちがいいことなんです。古い布に詰まっている小さなゴミやホコリをとってやると、風が通る気がする。
世界のあっちこっちからやって来た布たちに、私は風を通したい。この布たちを自由にして、生まれ変わらせて、何処かへ飛び立たせてあげたい。だからハサミを入れて、糸を通し、編んで、バッチにして、あっちこっちへ旅をさせてあげる。それが、アッチコッチバッチ、なんです」
2023年4月
文:今井栄一
写真:チダコウイチ