Meet the Artist

2026-06-24 13:44:00

名づけられる前 KENTAROU TANAKA 田中健太郎/画家

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<輪郭になる前/気配を描く>

 田中健太郎さんの「名づけられるまえ」という個展のテーマに、心を小さく揺さぶられる。「何が」名づけられる前なのだろう? それとも、「名づけられる前」に何かが起きているのか? 自分もまた「名づけられる前の状態」があったのだろうか。わずか8つの文字に、俳句、短歌のように読み解く何かを探し求めてしまう。シソンギャラリーで田中さんの個展が始まって、今回の展示を見れば、そのテーマの意図がわかるだろうか。

 個展が始まる前に作家から投げられた問いのように、そのテーマ(タイトル)についてあれこれと考える時間は楽しい。個展を前にワクワクさせられるし、期待感が高まっていく時間だ。田中健太郎さんという画家はそんなふうに、「始まる前に始まっている」というか、「始まる前に観る側の気持ちが高まる」希有な作家のひとりではないか、とも思う。

 タイトルに添えられた短い文章を何度も読み返す。

 

まだ輪郭にならないものがある

昼と夜のあいだを漂いながら

名前を持つ前のまま息をしている

描いていると

そういう気配に触れる瞬間がある

名もなき生き物たちは

静かな時間の奥から現れ

また気配だけを残して還っていく

触れればほどけてしまいそうな感覚

移ろい続ける光や時間

その曖昧なままの姿を

できるだけ掴まえたかった

 

 きっと個展が始まって絵を前にしたとき、田中健太郎さんが描いている「まだ輪郭にならないもの」「そういう気配」を、ひとつ一つの絵から感じるのだろう。

 もうすぐ始まるそのときまで、画家・田中健太郎さんのいろんな言葉に耳を向けてみる。(滋賀県生まれの田中さんは、「思いっきり」自身の土地の言葉で語っているのだが、全文それを活かして書くと、なんだか妙なインタビュー記事になってしまうので、ほんの少しの部分を残して標準語で整えて書きます)

 

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<絵の始まり/デザインとの出会い>

「親がアート好きとか、そういうものではまったくなかったですね。むしろアートから遠く離れた家に生まれ育ちました。でも僕が絵を好きなのを親も知っていたから、近所に絵画教室があって行かしてくれたんだと思います。でもそれで芸術の道に進むかというと、そんなこともなくて、高校では野球部に入って部活動に没頭していました」

 

「小さい頃から絵が好きで、大学のときプロのイラストレーションやグラフィックデザインの世界に触れて、自分もやりたい、こうなりたいと思ったんです。自分の作品作りに没頭し、描いた絵のファイルやスケッチブックを持って夜行バスに乗っては東京へ行って、いろんな人に会って、「見てください、これが自分の作品なんです!」ということをやっていました。描くチャンスが欲しい、展覧会もやりたい。とにかく夢中でしたね、自分を売り込むことに」

 

「作品の入ったファイルを持ち歩き、大御所さんの展示やイベントがあると、その会場に行って、声をかけて見てもらうんです。来ている人たちの中に影響力のある方がいる場合もあるから、そっちもどんどん声をかけて見てもらう。名刺をもらったら後日電話をかけて作品を持って行き見てもらう。たぶんその頃の僕は、誰よりもたくさん作品を作っていて、誰よりも動いていたと思いますね」

 

「とにかく自分の作品を見てもらいたかった。田中健太郎という存在を知ってもらいたかった。世界70億の人たちに自分の名前を知られたいって思っていましたから」

 

「名古屋造形芸術大学に進学して、絵を描いたりするのかなと思っていたんですが、先生たちは皆デザイナーやイラストレーターなんですよ。彼らが見せてくれるものが、タイポグラフィとか、ポスターとか、いわゆるグラフィックデザインなんですが、そんなもの知らんかったから、なんやかっこええな!って思っていましたね。ニューヨークから届いた葉書を見せられて、「この切手の貼り方とかスタンプの位置がデザインなんだぞ」って言われて、そんなふうに葉書を見ていることに驚かされたというか。そういう先生たちがかっこいいというか。自分にとって初めて出会う世界を開いてくれたんですよね。だから、大学では、これがイケてるんや、というものをまずは教えられた感じです」

 

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<母親の言葉/煩悩を削っていく>

「アートって難しい、という人もいるし、僕も難しいと思うことがあるけれど、ずっと前に母親が、映画か何か観て、「なんか好かん」とか「良かった」とか素直に言っていたんです。母親のこの「好かん」という物言いをけっこう僕は信じているんですよね。批評家さんとか、美術の専門家の方が言うより、僕にはもっと響くというか。もちろん専門家の方にはその人の見方と言葉があるというのはわかっています。でも母親の「好かん」は、直感的に響きます。きっと誰にもそういう素直な「好かん」「良かった」というのがあると思うんですよね。今、母親に自分の絵を見せるということはないですけど、もし母親に「好かん」と言われたら、きっとその絵をもう一度自分で見れば、なるほどそうか、ってなったり、やっぱりな、と思ったりするかもしれませんね」

 

「もともとちっちゃい頃、お絵描き教室で好きなことやっていて、その延長で今は画家として仕事をしている。僕がやっていることって実は子供の頃から変わっていなくて、とにかく「魂ぶつけろ」みたいなことだったりするんです。個展でも、その「魂ぶつける」ところまで行くのにまずえらい時間がかかります。いろいろ思ったり、悩んだり、試してはやめて、みたいな時間がめっちゃある。今回も2月くらいだったか、「ぜんぜん描けへん」というときがあったので。僕は個展を開くときには、基本すべて新作でやりたい。そうするとゼロから始まるわけです。もちろん、その前にやったものの糧みたいなものはあるけれど、そこからやはり成長したいし、また別のものとして表現したい」

 

「頭で考えているうちはダメなんですよ。でも、それも大事な時間です。頭であれこれ思い悩んで、考えている自分がいて、まずはそれをある程度のところまで持っていくというか。考える自分がブワーって出てきて、それでも描いているうちに、何て言うんですかね、禊ぎというか、百八つの煩悩が抜け落ちていくというか、一点一点、筆を入れていくごとに、だんだん気持ちがグーッと入っていく感じなんですよね」

 

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<名づけられる前/一瞬の記憶を記録する>

「ゾウと言われると、身体が大きくて、鼻が長くて耳が広い、とか、オオカミと言えば、強い、簡単に姿を見られないとか、いろんなイメージがあると思うんですけど、その名前って、こっち(人間)が勝手につけたものですよね。何て言うか、こっちが(彼ら野生動物のことを)わかっている風に名づけているというか、ほんとうは、あいつらは僕らが思っているような存在じゃないかもしれないぞって僕は思うんですよ」

 

「僕にとって、「名づけられる前」というのは、自分に重ねているところがあって。自分自身が、その(野性の)絵を描く状態になる前と、絵を描けるときの、その狭間みたいなもの、まだほんまに描けるという瞬間のちょい前くらいのところ、そのときの自分のことを言っているというか。僕がまだ描いていないから、名前もついていないわけですよ。僕が絵描きとして「つかまえたい」、でもまだ「つかまえきれていない」、その狭間の状態でもあると思うんです」

 

「今、個展まで1か月を切って(このインタビューは6月初旬)、やっと見えてきたというか。

 最近は、夜中までずっと描いていて、3時、4時とかに寝て、それで朝起きられたら9時とか10時くらいにコーヒー飲んで、そこから、さぁやるか、という感じ。これがずっと続いていますね」

 

「いつもそうなんですが、僕は作品を途中で止めておくんですよ。終えた気になってサイン入れてしまうと、そこで喜んでしまったりするんで。自分がどこまで行けるか、その「どこまで」っていうのをギリギリまで粘りたい。だから、できあがった絵を壁にかけておいたり、リビングルームにかけたりして、その後もちょっと見たりする。どんな絵でもずっと気になるところはあって、ある意味終わりはないんですよね。壁にかけておいて、ちょっと前を通ったときに見たりする。気になって直したいところは終わりがない。でも、もし直し始めると、なんていうのか、ひとつ直せば、あっちもこっちもってなるんですよ。もしひとつの絵を1か月、2か月とか置いていたら、どんどん直したい気持ちになって、結局すべて変えなきゃならないなんてことになりますよね」

 

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「個展の案内状のゾウの絵も、「ここにもうひとつ白を入れようかな」とか考える。入れなくて正解だったかもしれないし、入れきれなかったということかもしれない。白を入れることですべてが変わる、変えなきゃいけないということになったとしても入れてみろ、と言う自分もいる。そういうことをまぁ何週間か(その絵を)にらみ続けながら考えている自分がいます」

 

「いつも、少しずつ自分は(絵が)うまくなっていると思うんですよ。たとえば、2月の自分より今の自分の方が、うまくなっている。だからといって、2月に描き終わった絵に上描きするようなやり方をしたらアカンって思っています。どんな絵も、ギリギリまで全部調整するのが良いというわけじゃないんです。何て言えばいいのかな、きれいに合わせてしまいたくない、きれいに取り繕う自分になってしまってはダメやと思うんです。その時その時、一瞬の記憶を記録しようというのが、自分の中で大事にしていること。だから、きれいにまとめるなよ、きれいに見せたいとか考えるな、って自分に言うんです。2月に描ききった絵はそこで終わりだし、ゾウの絵はもうこれでいい」

 

「ひとつの展覧会ごとに、光が見えるような描き方というか、ひとつでもいいから、それ(光)を入れて次に繋がっていく展覧会にしたいなって思っているんです。これまでもそれができていたか、自分にはわからないんですけれど。ただ、4年前、5年前に描いていたようにはもう描けない。あのときの絵はもう描けないわけで。だから、その時にやっぱり、やりきっておいてよかったな、と思いたい。あの時も困って困って、やっておいて良かったなぁって、後からそう思うまで自分を追い込みたいです」

 

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田中健太郎さんの絵は、静かに、だが饒舌にいろんなことをメッセージしてくる。言葉というよりそれは「音」、「匂い」、「気配」と呼ぶべきかもしれない。静かな絵なのに音が聴こえてくる、匂いが感じられる。一頭のゾウしかいないとしても、他にも気配を感じる。

 距離を置いて見るとそれはシンプルな画風に見えるかもしれない。だが近づいていくと一点一点が広がって描写された実に繊細で奥深い世界である。顔を近づけるとゾウの姿が消えて、筆遣いが際立ってくる。筆遣いは作者の息遣いだ。その作家の「魂がぶつかっている瞬間」がそこにはある。

 そこには余白もある。まるで見る者に「どう思う?」と問うような、あるいは、「さぁどうする?」と訊いているような、不思議な余白だ。どこか遠くを見ているゾウ、じっとこちらを見つめるオオカミ、彼らに触れることはできない。余白。その距離感が心地いい。それは人間と野性との距離なのかもしれない。

 そんなことを、あれこれと(自分勝手に)思い考えながら、今回の個展の案内状の絵を見つめている。

 インタビューでは、あちこちに飛んでは戻ってくるということを繰り返す田中健太郎さんの話をただただ聞いていた。止めなければいくらでも、ずっと(滋賀弁で)話し続ける人だった。きっとそうやってどこまでも絵を描き続けている人なのだろう。行きつ戻りつしながら。時間も、場所も散らばりながら。この人が描いた絵なのだと思い、観るのがとても楽しみである。

 

 

text by Eiichi Imai